第3話 夢への防衛本能

 ──ああ、これは夢か。


 螺旋階段を駆け下りて行く自分の体を認識し、結末を変えることができない悲劇を受け入れる。

 淀みなく動く体を止めようと何回も何回も、何回も、何回も数え切れないほどに試みた。

 だが、結果は無駄。過去を変えることなど出来はしないことを痛いほどに理解している。それが夢だとしても過去の追体験である限り変更は不可能だ。


 ──それでも、これが夢ならば。


 そう願うことは止められない。起こってしまったことをなかったことにしたいと願う後悔の念を止めることなどできない。


 スモークガラスで出来た白く曇ったスライド式の扉の取っ手に手をかける。両手を横に広げて扉を開こうと力を入れた瞬間、全てが闇に染まった。


 ♰


 目を覚ます。

 いつもと同じ光景。薄暗い視界の中、右手を見つけてしまう。

 いつもと同じようにうつ伏せになって寝ていることに気が付いた。


 顔を顰め、目を閉じる。

 閉じた視界、闇の中、ベッドから体を起こす。体が妙に重い。錆びたように動きの悪い瞼を無理矢理、持ち上げて光を瞳に取り入れる。

 今日も朝が来たようだ。

 今日も一日が始まったようだ。


 ……あの日を置き去りにして。


 ベッドの上で拳を握り締めるが、それは無意味だ。そのことが分かっていながらも彼は拳を握ることを止めない。

 そうしていれば、大切な者の大切な者を今度こそ掌から零すことがないと信じるように。


 希望などこの世界アピスク・エシにはないと知っていながらも、クロノは今度こそ守り抜くと再度、自分自身に誓う。


 ──魔人は殺し尽くす。


 それが黒の勇者ができる唯一の戦い方なのだから。


 ♰


 朝日がクオリアス王国、その王城を照らす。

 白亜の城と名高いクオリアス王国の王城は、神聖さと美しさ、そして、華やかさが調和した一種の芸術品とも言えよう。その王城の中庭で一人の少女が眩いばかりに磨き込まれた剣を振るう。

 風を断ち切る音は軽やかで、見る者に思わず感嘆の声を漏らさせるほどに洗練されている。まるで、英雄譚の一幕のようだ。


「見事だ」


 突如、後ろから掛けられた声と小さな拍手に反応し、少女は振るう剣を止める。


「随分と手に馴染んだように見える。今の君ならば、大抵の魔物や魔人に後れを取ることはないだろう」


 青く、長い髪を揺らしながら少女の後ろから歩み寄ってきたのはアオノだった。後ろからの声に反応し、剣を鞘に納めた少女──リア──は一つ頭を下げる。


「ありがとうございます。でも……」

「どうかしたか?」

「……剣に迫力がないように思えるんです」


 手を握り、そして、手を開くリアは不満を口にする。


 相手を威圧する有無を言わさないほどの迫力が自分の振るう剣には感じられない。言うならば、剣舞のような流麗さだけしか自分の剣にはないとリアは感じていた。もっとも、彼女の理想が高いため、相対的に自己評価が低くなっているだけとも言えるが。


 とはいえ、リアが悩んでいるのは事実。


 アオノは彼女の不安を取り除くべく口を開く。


「私からすれば、君の剣術は十二分に通用する。そう気に病むことじゃない」

「でも……でも、足りない気がするんです」

「王女と比べてか? それは比べる相手が悪すぎる。この国、いや、アピスク・エシの全てを探しても、剣技で彼女に比肩する者はいないだろう」

「そうじゃないんです」


 アオノは頷き、心配しないようにとリアに微笑む。


「確かに、君が言うように迫力は他の者と比べれば足りないのも事実だ。だが、それは経験が少ないことに起因する。場数を踏めば君の理想に近づくことは間違いない」

「場数……ですか」

「その通りだ。場数、つまりは戦闘経験だ。それを積むための手段も用意した」


 肩を竦めたアオノは『そうは言っても、クロノを説得することは容易ではなかったが』と苦笑いを浮かべる。


「クロノさんと一緒に魔人の砦を攻める。それですね」

「正確には魔人から砦を“取り戻す”だよ、莉愛」


 いつの間にか、傍に来ていたアオノを見上げながらリアは一度、頷いた。


 魔人の砦の攻略。

 昨日、クロノと別れた後、合流したアオノから聞かされた内容だ。

 クオリアス王国からほど近い山に小さな砦があった。規模は小さく、戦略上、重要視されていないとはいえ、王国の目と鼻の先に敵がたむろしているとなれば、王国民が不安を覚えるのも当然だろう。


 だからこそ、勇者がその恐怖を払わなければならない。“真”の勇者が顕れ、そして、夷狄いてきを追い払う。“真”の勇者が召喚されたことを世間に向けて大々的に発表するのには、これ以上にないシチュエーションだ。

 そう判断したアオノは砦の攻略を自分に一任するようにクオリアス王国に具申した。クオリアス国王も彼女を信頼していたために、彼女に全権を任せたのだ。

 そして、アオノが選択した策は“真”の勇者にクロノを帯同させ、完全無欠の勝利をもたらすこと。


「不満か?」

「不満じゃありません。不安です」


 アオノが考えつく策の中でも、万全にリアの安全が保障された策だ。そして、敵である魔人、その後ろに控える魔王にプレッシャーを掛けることもできる策。

 しかしながら、当の本人であるリアが不安を覚え、策を遂行することができなければ、逆に自分たちの首を絞めることにもなりかねない。


 策が遂行できず、万が一、リアが討ち取られたのならば、人類にとっての致命的な打撃と同義だ。魔王に唯一、対抗できる力を秘めているリアはアオノにとって最も重要視すべきピース。それが初戦で堕ちれば、魔王軍を勢いづかせることになり、更には勇者が魔王を倒すことを期待していた全人類から恨まれる結果となる。


「莉愛、心配することはない」


 だが、それは無用な心配だとアオノは断じた。


「君には黒の勇者がついている。我々が持ち得る最高戦力だ。今回、君は彼の戦い方を見るだけでいい。それで全て上手くいく」

「見るだけでいいって言われても……」

「そのままの意味だ」


 アオノの声色が変わった。

 恐る恐るリアはアオノの顔を窺う。


「……ッ!?」


 ゾクリと背筋に冷たいものが奔った。

 今のアオノのかおは例えるのならば、氷で作られた能面。感情を読み取ることができないアオノの表情は今までリアが一度も見たことがないものだった。


「君は何もしなくていい。水、風、地、雷の魔法とクオリアス王国式剣術を収めた君でさえも、彼の足を引っ張る結果になる。それほどに隔絶した階層レベル差がある。重要なことは君に戦いというものを教えることが一つ。君にクロノなりの闇魔法の使い方を教えるのが一つ。そして……」


 アオノは髪を揺らす。


「……君が戦場に、この世界に来たという奇跡を知らしめること。これが何より重要なことだ」


 リアの肩に手を置いたアオノは微笑みを作る。が、リアの表情は強張ったままだ。それを見て、アオノは少し肩を竦める。


「怖がらせてしまったな、すまない」


 今度は柔和な笑みを浮かべながらアオノは頭を下げる。


「い、いえ、違うんです。あの……その……」


 頭を下げたアオノに向かって両手と首を横に振りながら、リアは俯きがちに呟く。


「……少し、アオノさんがいつもと違ってたから」

「そうか。これからは気を付けよう」


『さて……』と前置きをしたアオノはリアから目を離し、王城を見上げる。


「莉愛。君は真の勇者だ。我々、色冠の勇者の力を継ぎ、そして、魔王を討つ存在だ。自信を持て。君は強い」

「はい……」


 アオノに返事をして、リアは自分の声が震えていることに気が付いた。

 なにせ初陣だ。緊張と恐怖から声が震えるのが普通なのだろう。しかしながら、リアはもう普通ではなくなった。この国、いや、この世界の希望を背に立つ者。


 勇者──“真”の勇者だ。


「はい!」


 腹から声を出し、リアはアオノを真っ直ぐ見る。


「いい返事だ」


 一つ頷いたアオノは踵を返し、リアを先導する。その先には影の中にいる少女の姿があった。白に染まった長い髪を風に揺らす少女がアオノとリアに向かって上品に微笑む。

 可憐で透明感のある声が王城の中庭に響いた。


「お疲れ様です」

「ありがとう、コーデリア」


 コーデリア・クオリアス。

 リアもよく知る人物、クオリアス王国の第三王女だ。歳はリアと同じく数えで18歳。まだ若いものの、彼女はクオリアス王国式剣術を手ずからリアに教えた師だ。その上、この国の王が病床に伏しがちになってから後、一手に国政を引き受けている才媛でもある。

 文武両道。クオリアス王国民、並びに、リアが持つコーデリアへの印象はそれであった。


 リアに頭を下げたコーデリアはアオノへと顔を向ける。


「アオノさんもお疲れ様です」

「はっ。王女殿下におきましては、ますますご健勝の段、何よりでございます」

「もう。私に気を使わないでくださいと前にも申し上げたはずですよ」

「そうは言われましても、私は臣下故、貴女に礼を尽くすのは当然です」

「む~、アオノさんのいじわる」


 コーデリアは頬を膨らませる。


「ふふ。それと殿下のむくれている姿が愛らしいのも問題です。思わず、いじめたくなってしまいます」

「アオノさんのいじわる!」


 主従という関係ではなく、姉妹のような関係のコーデリアとアオノだ。

 二人の遣り取りを後ろから見ていたリアは、いつの間にか自分の体から力が抜けていることに気が付いた。

 そして、自分が柔らかい表情を浮かべていたことにも。


「出立する前の気分転換になったか?」


 リアの纏う雰囲気が変わったことを感じ取ったのだろう。アオノは優しくリアに問いかける。


「はい。ありがとうございます」


 随分と気が楽になった。

 いつもと変わらない日常の風景。その風景が不安で縛られていたリアの心を軽くした。


「んっん~。姫殿下、ここにいたのですね」


 と、間延びした男の声が城の陰の中からリアたちに届く。

 コーデリアに続いて王城の陰から出てきたのは白粉で顔を染め、ロバの恰好をした青年だった。

 陽の中に姿を現した青年はコーデリアへと話しかける。


「春とはいえ、まだまだ風は冷たいのですよ。お体に障ります故に温かい紅茶を……用意はしていないのですが」

「していないのですね」


 コーデリアは溜息をつく。


「道化。いつも貴方は何かが足りませんよ」

「ん~、お金はいつも足りませんので常に喘いでいますねぇ」

「そうではなく……はぁ」


“道化”とコーデリアから呼ばれた男はリアに目線を向け、そして、リアが腰に下げている剣に視線を注ぐ。


「おお、真の勇者様。これから戦でございますか? 素晴らしい。これで国威は示されるというものでございましょう。矮小なる我が身ではございますが、ご武運を祈っております故に平に平に」

「ええと……はい」


 頭を下げ、体を左右に揺らす道化の姿を見て、『相変わらず訳の分からない人だなあ』とリアは心の中で独り言ちる。

 道化という男は常にそうだった。少し言動がおかしい。だが、それが道化の仕事だとリアはコーデリアから聞いていた。

 コーデリアが言うには、道化は狂人を演じることで国王にすら意見することができる唯一の役職ということらしい。狂っているが故に、王でさえも自由な振る舞いを咎めることができない。しかしながら、その言には確かに含蓄がある。回りくどいものの、一国の為政者であるクオリアス王国の国王をも唸らせるほどの無視できない言葉だ。

 その道化は腰から上体を倒したまま、顔だけをアオノへと向ける。


「いや、しかし、流石はアオノ様。リア様の緊張を簡単に解すことができるなんて素晴らしい」

「いや、コーデリア殿下がいたからだ」

「その心は?」

「語るほどのものではない」

「はっはぁ。私には教えたくないということでございますね。ヨヨヨ」


 泣き真似をする道化に辟易したのだろう。アオノは溜息を吐いて道化に理由を説明する。


「ただ単純に距離が近い人物がいたから莉愛の緊張が解けた。我々よりも王女殿下の方が莉愛といた時間は長い。我々と莉愛は同郷とはいっても、それまで接点はほとんどなかった。実際、初めて私が莉愛と会ったのはコーデリア殿下が莉愛を召喚した時だ」

「そう、そこなんですよねぇ。初めて会った。それは本当なのかもしれないとは思いますがぁ」

「道化」


 含んだように言葉を紡ぐ道化を厳しい表情で見つめたアオノは冷たく彼を呼ぶ。


「はい?」

「それ以上、何かを語る権利が君にあるのか?」

「いえいえ、滅相もございませんとも、そうでしょうとも!」


 一転、道化は手を振り体を後ろに下げながら、アオノの言葉に頷く。


「しかしながら、最近、初めて会ったリア様に砦攻めをお勧めするなど可哀そうに過ぎませぬか?」

「君に私の考えを語る必要もない」


『む~』と唇を尖らせた道化を見たコーデリアは一度、目を伏せてアオノに目を合わせる。


「……アオノさん。一ついいですか?」

「ええ、もちろんです」


 アオノは道化の時とは違い、柔らかな声でコーデリアに答える。


「リアが戦場に出るのは理解できます。ですが、なぜクロノさんと二人きりなんですか? 危険です」

「ん? 莉愛がクロノに取られるとでも思われたのですか?」

「もう! 茶化さないでください! 勇者と言っても、たった二人だけで戦場に出るのが危険だと言っているんです!」


 声を少し荒げながらコーデリアは言葉を続ける。


「リアは強くなりました。ですが、危険なのは変わりありません。今から攻めるシュツール砦は最低200の軍勢が駐屯していると情報が耳に入っています。もしかしたら、それ以上の兵がいる可能性も。その上、山頂にあるから、戦略上、攻めるのは難しい。そう言って、2年前にシュツール砦を建設したのはアオノさんです」

「そうですね。その時の私は、山頂に陣取った王国軍に有効な兵糧攻めを使ってくるであろう魔王軍を打ち破る策もありました。事実、兵糧攻めをしてきた魔王軍に対しての策が上手くいったことは王女殿下もご存じの通り」

「なら、何故、たった二人で攻めさせるのですか? ブルーボーン公爵の助力を断ってまで」

「勝てるので」


 シンプルな答えをアオノは返す。


「正確にはクロノだけで、あの砦程度は落とせます。それでも尚、莉愛を同行させるのは莉愛が、真の勇者が来たと魔王に教えるためです。何分……」


 くつくつと嗤うアオノの表情は先ほどと同じ冷たい能面のようだった。


「……奴にも首を洗う時間は必要でしょう」


 そこで気が付いたのだろう。アオノは頭を振って自身に張り付いた表情を剥ぎ取る。一瞬で元の柔和な表情に戻したアオノはリアへと振り返る。


「莉愛。つまり、君が世界を救いに来たと知らしめて欲しい。それが魔王に対する我々の宣戦布告になる」


 春風がリアの髪を揺らす。


「……アオノさん、コーデリア、道化さん」


 一度、目を閉じたリアはゆっくりと目を開けていく。


「私は、私とクロノさんは勝ってきます。だから、安心して待っていてください」


 三人の頷きを後ろにリアは踵を返す。

 自分たちから遠ざかっていくリアの姿を見たアオノは小さく笑みを溢す。

 策が完全に上手くいくことは、これで確定した。クロノの力、そして、リアの力。最後に敵勢力の力。それぞれを鑑みて考える。いや、もう考える必要すらない。

 迷いなく進むリアの後ろ姿に笑みを深くしたアオノはリアへと背を向けた。


 ──後はシノをどう動かすか。


 笑みを消したアオノは城の影へと入り込みながら、これまでしてきたように善後策を練り始める。作戦の完全遂行の更に先へと思慮を深めていくアオノに気づくことができる者はここには誰もいなかった。

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