第1話 初春の寒さに手を振る

 策励は時に呪縛となる。


『負けないで』


 例え、それが純粋で慈愛に満ちた、そして、最期の言葉だとしても。

 仮に、相手の身を案じて未来に希望を託そうとし、そして、血溜まりの中で振り絞った言葉だとしても。


 人は言葉に縋り、そして、囚われる。


 ♰


 目を覚ます。

 いつもと同じ光景。薄暗い視界の中、右手を見つけてしまう。

 いつもと同じようにうつ伏せになって寝ていることに気が付いた。


 顔を顰め、目を閉じる。

 閉じた視界、闇の中、ベッドから体を起こす。体が妙に重い。錆びたように動きの悪い瞼を無理矢理、持ち上げて光を瞳に取り入れる。

 今日も朝が来たようだ。

 今日も一日が始まったようだ。


 ……あの日を置き去りにして。


 ベッドの上で拳を握り締めるが、それは無意味だ。そのことが分かっていながらも彼は拳を握ることを止めない。

 そうしていれば、掌から零れ落ちた大切な者を亡くさないでいられると信じるように。

 喪ってしまった者を取り戻すことができると信じるように。


 ♰


 勇者。

 その字の通り、それは勇ましい者を指す。

 だが、彼の前に“真”の勇者として召喚された者は勇ましいとは到底、思えない。

 眉根を寄せ、彼は真の勇者として召喚された者の隣に立つ顔見知りへと声を掛ける。


「どういうことだ? 説明しろ、アオノ」

「そう怖い顔をするな、クロノ」


 華美な宮殿、その一室。

 円状の部屋の中心には金属で作られた円卓が配置されていた。その円卓は白く塗られており、神聖さを見る者に感じさせる。

 円卓もそうだが、この部屋の内装もまた神聖で荘厳な造りだ。細かく意匠を凝らされた壁。置かれている調度品は格式高い。そして、天井絵には、この世の春を謳歌するかのように多くの薔薇が咲き乱れている。


 この部屋は“虹の間”と呼ばれており、入室を許されているのは現在では僅かな者のみ。この国、クオリアス王国の王族と王族に使える道化、そして、“色冠しきかんの勇者”と呼ばれる者たち。総勢10名にも満たない人数だけである。


 虹の間に備え付けられた白い円卓の上に腰を下ろす一人の青年の目付きは鋭い。白い円卓とは対照的に彼の服装は黒一色だった。黒のVネックのロングTシャツに黒のジーンズ、金具まで黒に染められたブーツ。黒色の髪は少し癖があり、光を逃がさないかのように艶が消えている。

 全身黒で覆われた彼であるが、それ以上に黒いのは目だ。光は確かに反射している。生気がない訳ではない。どちらかと言えば、輝いているとも言えるだろう。

 しかしながら、その光は剣呑だ。


 昏い輝き。


 心が弱い者が正面から彼の瞳を見たならば、一瞬で心臓を鷲掴みされたかのように息を止めることだろう。


 だが、虹の間に優雅な足取りで入り、そして、彼の前に歩みを進める女性は違う。

 青い髪を腰まで伸ばした背の高い女性は、彼の鋭い目付きを受け流し、大仰な素振りで彼の詰問に答える。


「そのような目付きで睨まれたら、言葉が震えるじゃないか」

「早く話せ」

「そう急かすな。君の質問に真摯に答えるために必要な時間だ」

「早く話せ」

「全く。君は少し性急過ぎる。とはいえ、これ以上、話を引き延ばすのは君の不興を買いそうだ。……結論から言おう。君の前に立つ少女こそ“真”の勇者だ」

「違う」

「それなら、こう答えるべきかい? これは“運命”だと」


 その言葉が聞こえた瞬間、『クロノ』と呼ばれた青年は鋭い殺気を青い髪の女性に叩き付ける。

 春の陽気に包まれていた部屋の温度が急激に下がった。極寒の寒空の下に放り出されたような感覚を全身に感じながらも『アオノ』と呼ばれた青髪の女性は軽口を叩く。


「……流石は“黒”の勇者。私に冷や汗を流させることができる人間は君以外にはいないだろう」

「御託はいい。簡潔に説明しろ」

「単純な話だ。我々、色を冠した勇者だろうが魔王を倒すことはできない。それは二年前の大戦で君も理解しただろう?」

「アオノ」


 静かな声。

 だが、そこには苛立ちが含まれていた。それこそ、次の瞬間にでも体中を切り刻まれると、その声を聞く者に想起させるかのような声だ。

 アオノは思わず声を詰まらせる。だが、彼女もまた凡人ではない。一秒にも満たない間で気を取り直し、微かにではあるが引き攣った表情をアオノは元に戻す。


「君が問いたいことは理解している。だが、彼女は我々の話を理解していない」

「詳しい話をその子にしていないのか? 意図は……そうか」


 アオノの後ろに控える少女に視線を遣ったクロノだったが、すぐに苦々しい視線をアオノへと戻す。

 少女にアオノが詳細な説明をしていない理由に勘付いたクロノは感情を隠すことなく言葉を吐き捨てる。


「外道め」

「何と言われようと私には使命がある。魔王を倒さなくてはならないという使命が」


 それ以上は何も言わず、アオノはクロノをジッと見つめる。それは彼女の不退転の覚悟を彼に示すものだった。彼女の覚悟を受け取ったのか、クロノは押し黙った。

 クロノが口を閉じたことを確認し、『続けるぞ』と前置きをしたアオノは右の手を差し出し、掌を上に向ける。


「赤の勇者、緑の勇者、黄の勇者、紫の勇者、白の勇者。そして、黒の勇者。色冠の勇者が中心として挑んだ二年前の大戦。そこでの敗北から次なる策を考えなくてはならなかった」


 アオノは掌を隣に向ける。


「それが新たな、そして、真なる勇者の召喚。彼女、高津タカツ 莉愛リアという訳だ」

「は、はひっ!」


 突然、自分の名前が出て驚いたのだろう。アオノの後ろで一瞬、体を震わせた少女にクロノは目を向ける。


 ──似ている。


 そう思わずにはいられなかった。

 抱き締めたら壊れそうな小さく細い体も、少し潤んでいる大きな瞳も、小動物のような庇護欲を掻き立てる仕草も。そして、何よりも不安に圧し潰されてもおかしくない状況の中でも前を見て奇跡を信じる、その表情が。クロノがよく知る人物に似ていた。


「それで、だ。クロノ、君には莉愛に君の戦い方を教えてやって欲しい」

「断る」


 だからこそ、クロノはリアが戦場に立つことを認めることはできなかった。そして、自分の戦い方をリアに見せることを認めることはできなかった。


「君の感情は解っている。だが、それを鑑みて、私は君に頼んでいるんだ。情勢は逼迫している。真の勇者の成長が最優先だ」

「なら、お前が死ね」

「それは最終手段だ。その前に“力”を使いこなすことができるほどの基礎を彼女に教えたい。そして、莉愛は優秀だ。君以外の勇者たちは既に彼女に自らが持つ技術を教え、莉愛は瞬く間に、それを習得した。その上、彼女は既に……」


 アオノは一度、言葉を止めて次に出す言葉を研ぐ。


「……“赤”と、そして……」


 言葉の刃が鈍く煌めく。


「……“白”の力を手にしている」


 アオノの予想通り、彼女の襟首が引っ張られる。目の前に怒り心頭といった表情のクロノが迫る。

 怒りに歯を食い縛りながらクロノは言葉を振り絞った。


「そんなこと……そんなことは知っている。それが、お前の脚本なんてことは知っているんだよ、アオノ! どこまで……どこまで堕ちれば気が済む?」

「……堕ちる、か」


 クロノの瞳に映る人形のように表情のない自分の顔を見ながら、アオノはゆっくりと口を開く。


「確かに私は悲劇が好きだ。君から見れば、私が愉しく計画を練っていると思うのも仕方のないことだろう。しかし、だ」


 自分の襟首を掴んでいるクロノの手を払いながら、アオノは彼を真っ直ぐに見遣る。


「私の嗜好は関係しない。これが今の我々に打てる最善手。世界を救うために、平和な世界を取り戻すために……未来に過ごす子どもたちのために。そのために、そのために必ず、絶対に、必要なことだ」

「そのために……そのために、お前は白の勇者の尊厳を踏み躙っても構わない。そう言いたい訳だな?」

「それも仕方のないことだ。魔王相手に打てる手段は現状、ほぼない。それに、前回の会議では、この方法に渋々といった様子だったが、最終的には君も納得していた」

「前の会議では真の勇者が誰かは聞いていない。お前がワザと言わなかったからな。そうだろうが!」

「それも当然のこと。真の勇者が莉愛だと……高津 莉愛だと言えば、君は間違いなく反対していただろう?」

「……ふざけたことを言うな。何が『君は間違いなく反対していただろう?』だ。当たり前だろうが! ここまで残酷なことが認められるか!」

「彼女は認めている」


 クロノの動きが止まった。彼の視線は動かない。アオノから動かせないままだ。

 ややあって、ブリキの人形を思わせる動きでクロノの首が動いた。その瞳が捉えたのはリアの姿。


 ──どうか聞き間違いであって欲しい。


 そう願うクロノはリアから目を離さずに唇を震わせる。


「それは……この子の考えか? お前が誘導した訳ではなく、純粋に?」

「信じられないのならば、莉愛から聞くといい。……いや、その前に私は席を外そう。私が居ては莉愛も話に集中できないだろうし、何より君が莉愛の言葉を信用しない可能性も僅かながら存在する。クロノ、言うまでもないことだが……」

「分かっている」

「……では、後は二人で話してくれ」


 カツンと靴音が部屋の中に響いた後、軽くバタンと音がした。アオノが踵を返し、虹の間から退出した音だ。

 静寂が齎された虹の間。残された二人は押し黙ったまま。だが、そのままではいられない。


「あの……」


 少女が口を開いたと同時に雲の隙間から太陽の光が虹の間に差し込んだ。

 光に照らされる少女の視線は床に向けられている。艶のある長い黒髪が彼女の顔を影で隠していた。俯いてしまうのも仕方のないことだろう。

 なにせ、目の前で殺気を混じらせた口論が行われていたのだから。彼女の年齢、いや、平和な国で生まれ育った者であるならば、誰であれ体が震えるのを止めることができないのが普通だ。


 しかし、リアは普通ではなくなった。そして、普通ではいられない。


「……高津 莉愛です。“真”の勇者として、この世界“アピスク・エシ”を救います」


 なぜならば、彼女こそが“真”の勇者なのだから。

 髪が揺れ、彼女の顔を顕わにした時、その瞳は確かに勇気を映していた。


 だからこそ、この言葉を彼女に贈るべきなのだろう。




“真の勇者の道は茨の道である”

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