第10話 老子

 柳下季りゅうかきは周の都の洛邑らくゆう(今の洛陽市)で用事を済ませると、宿屋へと向かった。途中日が暮れてきたので、何処かに食事ができる所はないかと探した。数軒まわってみたがどこも満席であった。白髪の目立つようになった頭をきながら仕方なくもう少し歩いて行くと、一軒のみすぼらしい飯屋があった。中をのぞくと店の老婆がある一卓を指差した。その先を見やると、白髪の老人が青菜をつまみに酒を飲んでいた。その向かいの席だけがただ一つ空いていたのだ。店の喧騒けんそうに飛び込み唯一の空席のそばに立つと、柳下季は礼をしながらこう言った。

「すみませんが、相席させていただきます」

 老人はにっこりと笑いながら「どうぞどうぞ、ご遠慮なく」と返した。

 柳下季は酒と料理を注文すると、向かいの老人に話しかけた。

「私はで学者をしております、柳下季と申します。さすがに洛邑は周王朝の都ですな。衰退したとは思えないほど、どこも大変賑わっております」

 すると、老人はおかしなことを言った。

「大分、お疲れのようですな」

 柳下季は一瞬戸惑った。

「…はい、長旅をしてきましたので疲れております」

「そうではありません、私が申しているのは『心が疲れている』ということです」

 老人にそう言われて、心を見透かされているような気まずさを覚えた。と同時に、この老人がただ者ではないと思った。

「あの、よろしければお名前を…」

「はっはっは、私はただの下級役人です。名乗るほどの者ではございません。柳先生、人を知るより、まず自分を知りなされ」

「では、老先生と呼ばせていただきます。老先生、どうして私の心が疲れていることにお気付きになったのでしょうか?」

「あなたは心の優しい正直なお方だ。だから心の疲れも顔に出るのです。よほど、深い悩みをお抱えになっているのでしょう」

「そうでしたか、そんなに顔に出ておりましたか。自分のことというのは、意外と自分で分からないものですね」

 柳下季は固くからみ合った心のひもが解けていくような心持ちがした。そして、長年の悩みを老人に打ち明けた。老人はうんうんとうなずきながら黙って話を聞いた。

 柳下季が今までの経緯を話し終えると、老人はゆっくりとした口調で話を始めた。

「夜空の星は無数にまたたいています。赤く輝く星もあれば青く輝く星もあります。黄色く光る星もあれば白く光る星もあります。また、すべてを飲み込もうとしている黒い星もあります。ここには、どれが正義でどれが不正義かなど存在しません。皆、星々はある法則に則っているだけなのです。

 教えもまた同じです。今まで様々な教えが広まりました。しかし、今現在これこそが絶対だという教えはありません。ですが、これにもある法則が含まれています。

 それは、時代や価値観がずれていったとしても変わらない真実です。それを見るには、他者を変えようとするのでもなく、おのれを変えようとするのでもなく、ただありのままを見つめる瞳が必要なのです」

「そんなことが出来るのでしょうか?」

「一つの価値観にしばられず、思い込みを避けて心を自由にさせておくのです。そして、太陽や月の運行に終わりがないように、何度も考え続けることです。

 常識がいつの間にか非常識になるように、この時代の正義は後世の悪となるかもしれません。ですから変わりようのない絶対正しい道など、今までにもないし、これからも現れないでしょう。その都度つど考えるしかありません」

「では、弟のせきは改心させなくても良いのでしょうか?」

「あなたが改心させようと思えば思うほど、盗跖とうせきは心を固くするでしょう。そしてその結果がどうなるのかは、盗跖自身が引き受けなければならないことです。盗跖の道は征服への道でもあり、破滅への道でもあります。果たしてこれが、万人にとって良い道なのでしょうか?答えはもう出ているんじゃありませんか。天の網はあらく出来ておりますが、天は盗跖を許すことはありません。

 で、盗跖は今年でおいくつになるのですか?」

「はい、もう六十でございます。悪の道に入って四十五年となります」

 老人は目を丸くして驚いた。

「今までよく殺されなかったものですな⁉︎」

 しかし、すぐに冷静になって次のように言った。

「ある意味、盗跖は傑物けつぶつといえますな。ここから人が学ぶことは大いにあります。聖人から学ぶこともあれば、悪人から何か示唆しさを受けることもあるのです。柳先生は盗跖から何を学びましたか?」

 柳下季はしばらく考えてから、こう答えた。

「忍耐と諦めでしょうか…」

「それで充分じゃありませんか。盗跖は歴史に悪名を残したのです。極悪人の代表として、これからも後世に語り継がれるでしょう。もう、そんな盗跖のことなど放っておいて、ご自分のこれからをお考えになってはいかがですか?柳先生には、盗跖を分析して後世に伝えるという役割がおありです」

 柳下季は黙って頷いた。


 店を出ると夜風に当たりながら、柳下季は老人との会話を頭の中で繰り返した。そして独り言をつぶやいた。

「もしかしたら、あの老人は道家どうかではないだろうか。それにしても弟を分析しろと言われたが、一体どうやればいいのやら…。人の心の中を切り開いて覗くことなど、私には到底不可能だ。今の私には、跖の行なったことを記録に残すことしか出来まい。これが後世へと遺す私からの唯一の贈り物だ」

 柳下季は残りの人生を、この記録を遺すことに費やした。しかし後年、その記録は度重なる戦禍によって燃え失せてしまった。

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