第10話 老子
「すみませんが、相席させていただきます」
老人はにっこりと笑いながら「どうぞどうぞ、ご遠慮なく」と返した。
柳下季は酒と料理を注文すると、向かいの老人に話しかけた。
「私は
すると、老人はおかしなことを言った。
「大分、お疲れのようですな」
柳下季は一瞬戸惑った。
「…はい、長旅をしてきましたので疲れております」
「そうではありません、私が申しているのは『心が疲れている』ということです」
老人にそう言われて、心を見透かされているような気まずさを覚えた。と同時に、この老人がただ者ではないと思った。
「あの、よろしければお名前を…」
「はっはっは、私はただの下級役人です。名乗るほどの者ではございません。柳先生、人を知るより、まず自分を知りなされ」
「では、老先生と呼ばせていただきます。老先生、どうして私の心が疲れていることにお気付きになったのでしょうか?」
「あなたは心の優しい正直なお方だ。だから心の疲れも顔に出るのです。よほど、深い悩みをお抱えになっているのでしょう」
「そうでしたか、そんなに顔に出ておりましたか。自分のことというのは、意外と自分で分からないものですね」
柳下季は固く
柳下季が今までの経緯を話し終えると、老人はゆっくりとした口調で話を始めた。
「夜空の星は無数に
教えもまた同じです。今まで様々な教えが広まりました。しかし、今現在これこそが絶対だという教えはありません。ですが、これにもある法則が含まれています。
それは、時代や価値観がずれていったとしても変わらない真実です。それを見るには、他者を変えようとするのでもなく、
「そんなことが出来るのでしょうか?」
「一つの価値観に
常識がいつの間にか非常識になるように、この時代の正義は後世の悪となるかもしれません。ですから変わりようのない絶対正しい道など、今までにもないし、これからも現れないでしょう。その
「では、弟の
「あなたが改心させようと思えば思うほど、
で、盗跖は今年でおいくつになるのですか?」
「はい、もう六十でございます。悪の道に入って四十五年となります」
老人は目を丸くして驚いた。
「今までよく殺されなかったものですな⁉︎」
しかし、すぐに冷静になって次のように言った。
「ある意味、盗跖は
柳下季はしばらく考えてから、こう答えた。
「忍耐と諦めでしょうか…」
「それで充分じゃありませんか。盗跖は歴史に悪名を残したのです。極悪人の代表として、これからも後世に語り継がれるでしょう。もう、そんな盗跖のことなど放っておいて、ご自分のこれからをお考えになってはいかがですか?柳先生には、盗跖を分析して後世に伝えるという役割がおありです」
柳下季は黙って頷いた。
店を出ると夜風に当たりながら、柳下季は老人との会話を頭の中で繰り返した。そして独り言をつぶやいた。
「もしかしたら、あの老人は
柳下季は残りの人生を、この記録を遺すことに費やした。しかし後年、その記録は度重なる戦禍によって燃え失せてしまった。
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