第9話 韓子(後編)

 数ヶ月後、盗跖とうせきの元に潜り込んだ魏満ぎまんから密書が届いた。陳腐ちんぷ林謖りんしょくなどが流した財宝の噂を信じて、盗跖が動き始めたという内容だった。

「やりましたね、韓先生!」思わず許疑きょぎ小躍こおどりした。

「はい、天の時が来たようです。これで天下に悪名をとどろかせた盗跖もおしまいですな。では、早速準備にとりかかりましょう」

 まず韓癖かんぺきは、貢ぎ物を献上するから悪事をしないで欲しいという内容の書簡を書いて配下に持たせ、盗跖の元へと走らせた。

 続いて馬や牛、穀類などの他、黄金や宝石などを集めさせると、それらを車に乗せた。そして膨大な量の貢ぎ物と三百人を引き連れ、盗跖のとりでへと出発した。

 三日ほど行くと、ようやく砦が見えてきた。先頭を馬で行く韓癖は、しげしげと砦の様子を眺めた。物見台に人の姿はなく、門番もいなかった。

「どうやら手下どもは情報通り出払っているようです、上手くいきましたね」と韓癖は左右にいる許疑、陳腐、林謖に声をかけた。

「あとは“奴”を捕らえるだけですな」と許疑が言うと、陳腐と林謖は黙って顔を見合わせた。

 砦の門の前に来ると、門扉に何やら書いてあった。


『門を開けて荷物を中に入れろ、中で待つ』


 韓癖が手で押してみると、門扉はギギッと音を立てて開いた。隙間から覗くと誰もいない。怪しく思って中へ入り、辺りをうかがっても物音一つしない。

「よし、荷物はそこへ置いて砦の中を探せ」

 韓癖がそう命じると、三百人が砦になだれ込んで来た。すると見る見るうちに韓癖は取り囲まれ、身動きが出来なくなってしまった。

 やがて門はガタンと閉ざされた。その音に振り返って見ると、門の上の物見台には盗跖と魏満が立っていた。

「しまった、わなか!」

 韓癖がそう叫ぶと同時に、盗跖は右手を上げた。するとあっという間に韓癖は取り押さえられてしまった。

 韓癖は縄でぐるぐる巻きにされ、その周囲に盗跖、許疑、魏満、陳腐、林謖が見下ろしながら立っていた。盗跖はしゃがみ込むと嬉しそうにこう言った。

「韓癖、智者はあらかじめ危険を察知して避けるものだ。だから自身に災いは降りかからない。しかし人というのは百歩先を見ることはできるが、自分のまつ毛を見ることはできない。同じように、他人のことはよく分かるが、自分のことは意外と分からないものだ」

 普段自分が論じていることを皮肉たっぷりに言われて、韓癖は死ぬほど悔しがった。縄さえなければ、きっと盗跖の喉元のどもとに食らいついたであろう。しかし、今はなすすべがない。

 誇り高い韓癖の怒りの矛先は許疑に向けられた。

「何故裏切った!」

「裏切った?私達は最初から盗跖様の味方だ。人は利益によって動くのだと、お前は常々言ってたじゃないか。盗跖様が捕まることは私達にとって災難だが、法家が捕まることは私達にとって利益なのだ」

「それじゃあ、柳下季りゅうかき先生も味方だったのか?」

「いや、柳先生は何も知らん。そうじゃなく、柳先生の動きを監視するために、私が先生の元へ潜り込んでいたのだ。盗跖様を改心させようとうるさかったからなぁ。

 私のような間者はあちこちにいて、何か少しでも動きがあれば、その情報は逐一盗跖様に届くことになっている。そしたらお前がやって来たという訳だ」

「だから盗跖は捕まらないのか、クソーッ‼︎」と言うと、韓癖は何度も地面に頭を叩きつけた。

 盗跖は韓癖の心がむしばまれていく様子を見るとたまらなく興奮した。しかし、口調はあくまでも穏やかに韓癖の心をいたぶった。

「もういくら足掻あがいても無駄だ。お前は『盗跖を捕まえたい』という“欲”にとらわれていたのだ。だから視野が狭くなり、全体を見通せなくなった。普段から欲を出すなと偉そうに教えを説いているが、結局この様だ」

 それを聞いて、韓癖は呪いの言葉を発せずにはいられなかった。

「いつか法が整備されてお前を裁くときが来る、覚悟しておけ!地獄へ堕ちろ!」

「はっはっは、いくら法の網の目を細かくしても、捕まえられなければ意味はない。捕まらなければ、法など無用のものに過ぎない。

 では荘蹻そうきょうという盗賊が暴れまわっているが、一向に捕まらないじゃないか。法が乱れているからではない。政治が乱れているからだ。そして、ここでは俺が『法律』だ」

 そう言うと、盗跖は手下に向けて首を切る仕草をした。


 曲阜きょくふに戻ると、許疑は『混乱の中、盗跖には逃げられ、貢ぎ物は横取りされ、韓癖は行方が分からなくなった』と柳下季に報告した。

 それを聞いて柳下季は、安堵あんどしたような申し訳ないような複雑な心持ちであった。

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