第8話 韓子(前編)

 韓癖かんぺきは韓王の側室の子として生まれた。幼い頃から利発で聡明だったので、知的水準の高い学問を修めさせるため、強国で知られるせいの国へと留学に出された。十五歳から二十五歳まで斉で学び、今では立派な法家ほうか(法律の専門家)となった。斉ではもう学ぶことがなくなったので、韓癖は故郷の韓(今の河南省辺り)へ帰ることにした。の都の曲阜きょくふはその道中にあった。

 曲阜までの道すがら小さな街々を訪れてみると、どこも街の外郭がいかく(城壁)の補修と強化に励んでいた。それを指導しているのは、皆貧しい身なりの若者達だった。

「あれが今流行りの墨家ぼっかか、ご苦労なことだ。所詮しょせん土工のなせるわざ。ま、私は私のやり方で国を守る。まず腕試しに盗跖とうせきを捕えてみるか」

 墨家を横目に見ながら、韓癖はそうつぶやいた。


 曲阜に着いて、韓癖は“諸国に高名”な柳下季りゅうかきを訪れた。

「あなたが、『盗跖の兄上』の柳先生ですな?」

 柳下季は面目なさそうにうつむいた。

「はい、弟が色々と世間を騒がせておりまして、誠に申し訳ございません。今まで色々と努力してきましたが、私といたしましても、弟を一体どうすればよいのやらさっぱり見当もつかないありさまです」

「柳先生、あなたに罪はないが、私は法家として盗跖の所業を許すわけにはまいりません。斉でもそうでしたが、ここへ来る途中に見た街々は、まるでイナゴの大群が田畑を通り過ぎたあとのように荒れ果てておりました。民衆は財産や食糧を奪われた挙句あげく、さらわれたり殺される者まで出る始末。それなのにどの国も盗跖を討伐しようともせず、彼を放置したままです。行き場を失って困り果て、泣き叫ぶ民衆の姿を私は忘れることができません。私はもうこれ以上我慢できないのです。あなたには気の毒だが、私が立ち上がることをお許しいただきたい」

 つまり、それは死刑を意味した。そうしないと、民衆の腹が収まらないのだ。韓癖はさらに続けた。

「矢を作ろうとして真っ直ぐな木を探しても、そんな木はめったにありません。また、車輪を作ろうとして丸く曲がった木を探してもどこにもないのです。ところが人々は矢で狩りをしたり車に乗ることができます。それは他でもない、立派な職人が曲がった木からでも矢を作り、真っ直ぐな木からでも車輪を作るからです。矢や車輪を作るのに適した木を探すよりも、工夫を凝らして作業した方が早いのです。

 法もまた同じです。徳治主義などただの理想にすぎません。どこにいるか分からない聖人君子などをいくら求めても、そんな人はいないのです。人は結局、自分の利益によって動くからです。しかし法を整備して正しく運用すれば、聖人君子に頼らずとも国を治めることができます。だから正しい法のもとに万民が従うべきなのです。

 よって私は盗跖を捕らえ、法によって厳罰に処す所存です」

 そう言われて、柳下季は承諾せざるを得なかった。

「韓先生にお任せします」とだけ言うと、無念そうに下を向いてしまった。

 そこへ、柳下季の門弟の許疑きょぎが割り込んできた。

「柳先生、韓先生のおっしゃる通りです。辛いお立場は百も承知ですが、これ以上民を苦しめるのは私達門弟といたしましたもはらわた千切ちぎれる思いでございます。どうかご賢慮くださいませ」と言って頭を下げた。

 韓癖は門弟の加勢を得て心強く思った。

「おお、あなたも賛同してくださるのか。是非、あなたの力も貸していただきたい」

「もちろんですとも、韓先生。跖様を捕らえることに労は惜しみません。すぐに仲間を集めましょう」

「おお、そうしていただけますか」

 柳下季は、もう何も言えなかった。


 翌日、許疑は陳腐ちんぷ魏満ぎまん林謖りんしょくの三人を連れて来た。許疑が言うには、各々百人の手下を従えているらしい。

「三百人いれば、盗跖など恐れることはありませんな。ですが、智者はあらかじめ危険を察知して避けるものです。だから自身に災いは降りかからないのです。まずは下準備を念入りに行いましょう」

「一体どうするのです?」と許疑が尋ねた。

「『取ろうとするなら、まず与えよ』といいます。盗跖の手下が手薄になったところを見計らって、盗跖に貢ぎ物だと偽って贈り物を届けるのです。その贈り物を届けるのは我々三百人です。そして盗跖のとりでに入ったところで奴を捕らえるのです。

 そのためには、まず盗跖を動かさなくてはなりません。盗跖を欲で誘い出しながら、盗跖を砦に釘付けにするのです。ここのところ、高齢になってきた盗跖は自分では動かず、配下の者に盗みをさせているようです。それを利用してある街に財宝が眠っているとにせ情報を流し、手下が出払ったその後に我々が貢ぎ物を届けると知らせるのです。貢ぎ物が届くと聞いた盗跖は、今か今かと目を輝かせて我々を迎えるでしょう」

「なるほど」と陳腐がうなった。

間者かんじゃの役は俺が引き受けよう。盗跖の動向を探るべく、俺が奴の配下として潜り込んではどうだ?」と魏満が名乗り出た。

「よし、じゃあ俺と陳腐が連絡係を引き受けようか」と林謖が提案した。

 韓癖は大きくうなずいて「ことは秘密裏をもって成功し、漏洩ろうえいをもって敗れます。くれぐれも慎重にやってください」と一人一人に作戦の詳細を言い聞かせた。

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