第7話 墨子(後編)

 その足で墨翟ぼくてき盗跖とうせきの元へ向かった。柳下季りゅうかきの役に立ちたいと思うと、いてもたってもいられなかったのだ。柳先生の弟なのだから、義を説けば必ず盗跖も分かってくれるはずだ。そんな気持ちで小走りにとりでへと急いだ。


 墨翟が護衛の者に捕らえられたのは、次の日の夜のことだった。墨翟は腕と足を縄でしばられ、盗跖の前に引きずり出された。

 盗跖は汚らしい小男を見下ろしてこう言った。

乞食こじきに用はない」

 墨翟は眼光鋭く盗跖を見上げた。

「あんたになくとも俺にはある」

「一体、何の用だ?」

「柳下季先生のご恩にむくいるため、あんたの暴虐非道ぼうぎゃくひどうを止めに来た」

「何だ、兄者の使いか。儒家じゅか兵家へいかに、今度は乞食か。兄者は一体何を考えているのやら」

「俺は乞食じゃない」

「ふん、いずれにしろ賎民せんみんだろう。賎民のくせに儒家ぶりおって、偉そうに俺をいさめに来たのか?」

「儒家は君子だ。俺は儒家じゃない」

「それならお前は一体何者だ?」

 そう問われて、墨翟は迷った。自分の憧れていた儒家の道は、思っていたほど大したものではなかった。礼儀作法がどうの、葬儀のやり方がどうの、歩き方がどうのと、どれもこれもくだらない形式だけの戯言ざれごとばかりだ。そこに本当の愛はなかった。むしろ墨翟にとっては、儒家の教えは選民思想に取りかれた唾棄だきすべき思想にほかならなかった。自分の道は儒家ではない。ならば何なのだ?迷った挙句あげく、墨翟はこう答えた。

「………俺は、墨家ぼっかだ」

 それを聞くと、一同がどっと笑った。

「墨家か、確かに泥まみれで真っ黒だ」

「君子気取りか?自分を何様だと思っているんだ?」

「儒家が『えせ君子』なら、こいつは『泥縄どろなわ君子』だな」

 またどっと笑いが起こると、墨翟は悔しそうに下を向いた。

 盗跖はあわれみとさげすみを混ぜたような目をして、墨翟にゆっくりと語った。

「墨よ、ここにいる手下のほとんどは賎民だ。王侯貴族はおろか庶民にまで馬鹿にされ、しぼり取られて苦しんできた。それはお前が一番分かっているはずだ。それなのに王侯貴族どもはもう何百年も戦争を続けて民衆をかえりみない。そして奴らは富と権力のためなら他国へ攻め込んで奪い取り、それを独り占めしているんだ。俺達はそれを奪い返しただけだ。しかも盗んだものは子分達に公平に分けている。それの一体どこが悪いっていうんだ?」

 それを聞いて、墨翟は下から盗跖をにらみつけた。

「それは小さな正義だ。盗まれた者の気持ちを考えろ。殺された者の気持ちを考えろ!」

「それは天下の諸侯しょこうどもに言え!

 一人を殺せば罪人だが、百万人殺せば英雄と呼ばれる。俺達が罪人なら、英雄もまた罪人だ。こんな乱世になったのは天下の宿命だ、俺のせいじゃない。俺はただ安住の地を求めて乱世と戦っているのだ」

 墨翟はまた食い下がった。

「諸侯もあんたも間違っている。自然災害は避けられないが、人災は避けられる。この乱世は人災だ。災害をこれ以上引き起こすな!

 あんたには安住する地がないのじゃなく、安住する心がないのだ。充分な財産がないのじゃなく、満ち足りた心がないのだ。つまり、あんたの心は空っぽだ!

 大河が小川の流れを飲み込むように、色々な意見を聞いてこそ度量のある王者といえるのだ。この分では盗跖の悪名も、そう長くは続かないだろうな!」

 盗跖の我慢は限界に達した。

「この減らず口が!」と怒鳴ると、盗跖は墨翟の顔面を蹴った。

 墨翟は後ろの壁まで吹っ飛ばされたが、ゆっくりと向き直った。そして折れた歯と流れ出る血を口から吐き出すと、「俺はあんたらのような天下の害から人々を守ってみせる」とうなるように言った。

「立派な心がけだな。よし、お前には生き長らえることだけでも苦痛に感じられるようにしてやろう。偽善者のお前にぴったりの仕置しおきだ」

 そう言うと、盗跖はサディスティックな笑みをたたえながら手下に指示を出した。

 墨翟はまず髪を切られ、丸坊主にされた。それが終わると今度は額に入れ墨をされた。これは当時の罪人に対しての刑罰であった。

 盗跖はなおも墨翟の心をいたぶるようにこう言い放った。

の額にか、お前にぴったりだな。はっはっはっは」

「おのれ盗跖、覚えておけよ。孔子が『えせ君子』なら、お前は『えせ義賊』だ!お前はどこまでいっても自分本位で心が腐った差別主義者だ!」

 どうやら墨翟は自分に屈服しそうにない。そう思った次の選択肢として、盗跖は墨翟を殺そうと決意した。

「お前は人間というものが分かっていない。人間は自分の弱い心を守るために『差別』という本能を持っているんだ。それに俺がお前を覚える必要はない。何故だか分かるか?明日、俺達に食われるからだ」

 そう言い終わると、盗跖は手下に向かって「こいつを豚小屋に放り込んでおけ!」と怒鳴った。


 豚小屋に放り込まれると、墨翟は自分の無力さに涙を流した。

 柳先生、申し訳ない。俺は盗跖という人物を見誤っていた。盗跖は鬼だ。そしてこの鬼は天下のいたるところに寄生している。ならば俺は鬼神となって、盗跖のような奴らに徹底的に刃向はむかってやる。まずは学問を身につけ、俺の持っている技術と合わせて民衆を害悪から鉄壁に守ってやる。この恥辱ちじょくを忘れないよう、俺は一生坊主頭でいよう。一番いいのは失敗しないことだが、人は誰でも必ず失敗する。大事なのは恥辱に耐えて失敗を成功に変える努力だ。天は自ら助ける者を助けるのだ。

 そう自分に言い聞かせながら、墨翟は皮の腰帯こしおびから細工用の小刀を取り出し、縄を切ると夜陰にまぎれて消えた。


 数年後、墨翟は多くの弟子を育てた。やがて墨家が守る街だと聞くと、盗跖は手を出さなくなっていた。

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