第6話 墨子(前編)

 墨翟ぼくてきの生まれで孔子の門下生であった。しかし、いやしい身分の出であるため、序列を重んじる儒家じゅかの中では差別を受けていた。その上、背は低く顔も不細工で、いつも同じ粗末な服を着て汗みどろになって働いていたので、同門からはけがらわしく思われ、うとまれていた。孔子も墨翟のことなど歯牙しがにもかけなかった。

 だが墨翟は心根こころねが真っ直ぐで、まだ若いが大変評判のいい技術者でもあった。小道具の入った皮の腰帯こしおびを肌身離さず持ち歩き、ちょっとした修理ならすぐにその場でやってくれた。皆の役に立つことが墨翟の生きがいであったのだ。請け負う仕事は家具や馬車だけでなく、舟や家までも作った。また、木工だけでなく石工や金工までもこなしたので、あちこちから仕事の依頼を受けていつも忙しそうに駆けずり回っていた。それを見た孔子の門下生は、墨翟を『奴隷君子どれいくんし』とか『賎民君子せんみんくんし』などと言って馬鹿にしていた。

 ある時、墨翟は柳下季りゅうかきからとびらの修理を頼まれた。修理が終わって道具類を大きな木箱にしまうと、作業の終わりを告げるために柳下季に報告に来た。

 墨翟が部屋をのぞくと、柳下季は憂鬱ゆううつそうに書簡をながめていた。申し訳なさそうに、墨翟は声をかけた。

「柳先生、修理が終わりました」

「ああ、いつもすまないね、ありがとう。どうだい、学問の方は進んでいるかい?」

「はい、それが…、最近学問所には足が遠のいております」

 柳下季は書簡から墨翟に視線を移すとこう言った。

「学問は自分一人でも出来る。何か分からないことがあったら、遠慮せずにいつでも私の所に来なさい」

 柳下季は墨翟が儒家からいじめられていることを知っていた。いつも何とかしてやりたいと気にかけていたのだ。墨翟も、そんな柳下季の思いを痛いほど察していた。だからこんなに簡単な仕事でも自分を頼りにしてくれるのだ。

 これこそ分けへだてのない誠の愛ではないだろうか。孔子の説く『仁愛じんあい』とは、本当に真実の愛なのだろうか。目上めうえだけをうやまい、目下めしたの者は粗末に扱われる。そんな社会が理想の社会であるはずがない。そもそも『目上』とは何だ、『目下』とは何だ。君主や貴族、奴隷や賎民などと分けているが、それは支配階級が勝手に決めたものだ。人間は本来皆平等なのではないのか。それに気持ちのこもらない形式だけの『礼』とは一体何なんだ。この問いにどう答えるのだ、孔先生?俺は愛情には愛情をもってこたえる。それこそが本当の礼儀だ!

「ありがとうございます。分からないことがあったら、いつでも参ります。

 それより柳先生、大分お悩みのようですが…」

「ああ、これか。先日、の孫先生から書簡が届いてな。以前弟のせきに悪事をめるよう説得して欲しいと孫先生にお願いして、その時跖は三年は悪事をしないと約束したらしいのだが、跖はどうもその約束を守っていないようなのだ」

 そう言うと、柳下季は頭を抱えた。

 なるほど、柳先生の頭痛の種はあの盗跖とうせきか。この人にむくいるためにも、ここは俺が一役ひとやく買って出ようじゃないか。そう心に秘めて、墨翟は柳下季の屋敷を後にした。

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