第5話 孫子(後編)
翌朝、孫子は馬に乗って
これらを総合的に考えなくてはならない。
残忍なのに手下に慕われているとはどういうことだろうか。恐怖だけで支配しているのであれば、いつか手下に反撃を食らうだろう。また、いくら話術に長けているからといって、強奪したものを公平に分けるだけで手下はそこまで狂信的に盗跖に従うだろうか。盗跖は何かの求心力を利用しているに違いない。だとすれば、皆の心を最も集めるのは『共通の敵』だ。そうすれば自分達は『正義』だと信じ込むことができる。そして益々手下は熱狂的に盗跖を支持するようになる。
さて、それをどうやって説得に結びつけるか。背負わされた課題の重さに、思わず孫子はぼやいた。
「やれやれ、誰か私に兵を貸してくれないかなぁ…」
(おっと、いけない、戦わずに勝つのが私の信念だった)孫子はそう思い直すと、ふうっと溜息をついた。
やがて、小高い丘の上に砦が見えた。
近付いてみると、砦の幅は二百メートルといったところか。
こんなに小さな砦では、九千人もいないはずだ。恐らくあちこちに砦があるのだろう。或いは手下の多くを
孫子は、門番に柳下季の書簡を手渡した。
しばらくして門が開くと、孫子は馬に乗ったまま砦の中に入った。見回すと、
孫子が部屋へ通されると、盗跖は左右に女をはべらせて酒を飲んでいた。それに構わず、孫子は盗跖の正面に立つと一礼した。
ただならぬ気配を感じた盗跖は、すぐさま女達を退席させた。そして両手を広げて突然笑い始めた。
「アッハッハッハ、まあ、そんなに怖い顔をするなって。儒家がだめなら今度は兵家か。兄者もしつこいのう、ハッハッハッハ。まさかこの俺を討ち取りに来たんじゃあるまいな?」
孫子は盗跖の人懐っこさにザラザラとした違和感を覚えた。
「柳下季先生はあなたのことを心配しておられた。いつまでも悪事を働いていると、いつか本当に討伐されるぞ」
それを聞くと、盗跖は怒りをあらわにした。やはりさっきの笑いは演技だったのか。
「俺を討伐するだと⁉︎ふざけたことを。その前にお前が討ち取られるかも知れんぞ!この俺にな。よくも一人でのこのことやって来たもんだ」と、盗跖は孫子に
しかし、盗跖は盗跖で内心焦っていた。自分は丸腰で座ったままだが、相手は長剣を腰に差して目の前に立ち、圧力をかけている。孫子がその気になれば、その切っ先は充分自分に届く。それは、盗跖にとって愉快な状況ではなかった。
不利な状況を打開すべく盗跖は孫子を脅したのだが、次の言葉が盗跖の心を凍らせた。
「私は兵家だ。私一人でこんなに危険な所に来ると思うか?私が戻らなければ、ここへ二万の大軍が押し寄せることになっている」
もちろんはったりである。しかし盗跖にとっては、
余裕なのか恐怖の裏返しなのか、いや、むしろこの緊迫した状況を楽しんでいる。孫子は盗跖に対して得体の知れない
(こいつは、普通じゃない)
説得や改心させることが無理だと感じた孫子は作戦を変えた。
「盗跖、ここは一つ、取引といこうじゃないか」
「ほう、どんな取引だ?」
「向こう五年間、悪事を働かないということだ」
「へっ、この乱世でどうやってまっとうに生きてきゃいいんだ?まず乱世が終わってくれなけりゃ、どうにもならん。お前さん兵家だろ?これはお前さんの仕事だ。何とかしてくれよ」
盗跖は巧妙に責任転嫁をした。だが、自分で取引を持ちかけた以上、孫子は応ぜざるをえなかった。また自信もあった。
「いいだろう、私は私の責任を果たす。あなたは私との約束を果たしてくれ」
「よし、三年だけ我慢して待ってやろう。それまでに乱世が終わらなければ、また盗みを始める。それでいいな?」
言い終わるが早いか、盗跖は「孫先生のお帰りだー!」と叫んで手下を呼び集めた。
孫子はあっという間に周囲を取り囲まれて、身動きができなくなってしまった。その様子を見て、盗跖はニヤリと笑って言った。
「孫先生を
門の外に出されて、孫子は自分が勝ったのか負けたのか判別がつかなかった。ただ、柳下季への義理は最低限果たせたと思い、そのまま呉へと向かった。
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