第4話 孫子(前編)

 ある日の夕暮れ、柳下季りゅうかきはぼんやりと考え事をしながら自分の邸宅へと歩いていた。名声と人徳のある孔子でさえ、弟のせきを説得することが出来なかった。何か別の方法はないだろうか、そんなことを考えていたのである。

 そこへ、馬に乗った壮士そうし然とした黒い影が夕陽を背にしてこちらに向かって来た。一見すると旅人のようだが、腰には長剣をき、静かな容貌に似合わず眼光は鋭かった。

 柳下季はすぐにこの男がただ者ではないことを見抜いて声をかけた。

「もし、旅のお方。私はこので学者をしている柳下季と申します。よろしかったら先生のお名前を教えていただきたく、こうしてお声をかけさせていただきました」

 男は馬から降りて一礼すると、先程の眼光が薄れてにっこりと微笑んだ。

「あなたが柳先生でしたか。先生のご高名は我が故郷のせい(今の山東省東部)にまで聞こえております。

 私の名は孫武そんぶ。兵法書十三篇をあらわし、仕官の道を探して、こうして旅をしております」

「おお、先生は兵家へいかでいらっしゃいましたか!」

 兵家というのは軍事の専門家である。兵家ならば跖の悪事をやめさせることができるかもしれないと、柳下季は咄嗟とっさにそう思った。

「孫先生、今夜の宿のご予定は?」

「いえ、まだ何も」

「でしたら我が家にいらしてください。先生のお話を是非ともうかがわせていただきたいのです」

「これは願ってもないお申し出。私も魯について色々と聞かせていただきたいと思っておりました」

 こうして、柳下季は孫子を邸宅に招き、豪勢な料理と酒でもてなした。

「して、孫先生、どうして魯へ参られたんです?何か仕官の当てでもお持ちですか?」柳下季はそれとなく探ってみた。

「さあ、これといって当てはございません。

 私が生まれた斉は昔から大国なので、私のような名の知れない者がいくら献策しても、聞き入れられることはありませんでした。それどころか、私をうとましく思っている者達がはかりごとをくわだて、私を罪人に仕立て上げておとしめようとしていたのです。その動きを察知したので、こうして魯に逃げて来たという次第です。

 柳先生のお力で、この魯で仕官することは出来ますでしょうか?」

 そう問われて、柳下季は顔をしかめた。

「魯ですかぁ…、魯はおやめなされ」

「何故です?」

「魯は弱小国で、斉や(今の湖北省・湖南省付近)などの強国に挟まれ、しかも政情が乱れております。魯王はないがしろにされ、王侯の公族達は政治よりも派閥闘争に夢中になっているありさまです。これではいずれ他国に滅ぼされる日も近いでしょう。

 先生、ここよりも(今の蘇州)に行きなされ。今、呉王は広く人材を求めております。きっと呉王は孫先生を重用ちょうようなさるでしょう」

「おお、これはいいことを教えていただきました。何とお礼を申し上げればいいか」

「いやいや、困ったときはお互い様です。そうそう、私が呉王宛てに紹介状を書きましょう。呉で、仕官が決まるといいですな」

 孫子は感極まって涙を落とした。

「何から何までありがとうございます。柳先生のご恩は一生忘れません。是非このご恩に報いたいのですが、何かお困りのことなどはございませんでしょうか?どうしても、柳先生のお役に立ちたいのです」

 それを聞いて、柳下季の目がキラリと光った。しかし、柳下季はその気配を殺して言った。

「いや、実はですなぁ…、一つ困っていることがございまして…」

「何でしょう?私に出来ることでしたら、何なりとお申しください」

「孫先生は、『盗跖とうせき』という名を聞いたことはありますか?」

「あの有名な大盗賊ですな?斉の国でも被害が出ております。もし盗跖を討伐とうばつせよとおっしゃるのでしたら、精鋭の兵を千人ほど貸していただければ結構です」

「あ、いや、そのう…、討伐ではなく、悪事をしないように説得していただきたいのです」

「説得⁉︎どういうことでしょうか?」

「実は…、盗跖は私の弟なのです」

「……は⁉︎」

「いや…、ですから…、盗跖は弟なのです」そう言うと、柳下季は顔を赤らめて下を向いてしまった。

 その様子を見て、孫子はこれが嘘ではないと分かった。嘘ではないとすると、単身で盗跖の元へ訪れて説得を試みなければならないことになる。討伐であれば自分の専門領域だが、説得というのは門外漢である。これは自分にとって非常に難しいことだが、すでに大言壮語してしまった。もう後には戻れない。

 苦しまぎれに、孫子はこう言った。

「柳先生、私は兵家であって縦横家しょうおうか(交渉人)ではありません。ご期待に添えるかどうか…」

「孫先生、試みていただければそれで結構です。ただ、兵家には兵家なりの知恵をお持ちかと思い、お頼みしたのです。以前、孔先生にもお頼みしたのですが、うまくいきませんでした」

 柳下季は、ことの仔細しさいを孫子に話した。

「そうですか、分かりました。やるだけやってみましょう」そう言って、孫子は明朝に曲阜きょくふを発つことにした。

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