第3話 孔子(後編)

 翌朝、孔子は盗跖とうせきの本拠地のある泰山たいざん(現在の山東省にある霊峰)の南を目指し、馬車に乗ってみやこである曲阜きょくふった。

 盗跖のとりでにたどり着いたのは、翌日の昼時であった。

 孔子は馬車から降りると門番に柳下季りゅうかきの書簡を手渡して、用件を伝えた。しばらく待っていると、背の高い門が開き、中へと通された。

 城壁の内側では、盗賊達があちこちで煮炊きをしていた。奥に向かって孔子が通ると、皆物珍しそうに孔子に視線を注いだ。

 やがて、石造りではあるが粗末な建物に案内された。中に入ると、盗跖は床に座って人間の肝のなます(生肉を細かく刻んで味付けしたもの)を食べながら柳下季の書簡に目を通していた。

 孔子に気付くと盗跖は書簡を床に放り投げ、孔子をギロリとにらみつけて、膾の油と血で染まった口をひげの中から大きくのぞかせた。

「お前が魯国一の偽善者、孔丘こうきゅう(孔子の名)か。兄者の紹介でなければお前もこうしてやるところだ!」

 そう言うと、盗跖は皿に盛られた膾を指さした。そして、剣のつかを握りながらこう付け加えた。

「本来お前などに用はないが、もしもお前の言うことが正しいというのなら言ってみろ」

 それは、心理的圧迫を狙った盗跖の芝居であった。相手をおどすことによって自分が主導権を得たいのだろう。しかし、盗跖を怒らせてしまうと本当に殺されかねない。孔子にとってはぎりぎりの綱渡りであることに間違いはない。この孔子の切羽詰せっぱつまった状況を、盗跖はひそかに楽しんでいるのだ。

(さあ、孔丘よ、次に打つ手はどうする?)

 しかし孔子はそうした盗跖の思惑おもわくを見抜いていた。盗跖が座ったまま剣に手をかけていたからだ。

 もし盗跖が本気で自分を殺す気なら、とっくに立ち上がっているはずだ。一見すると豪華だが、所詮しょせん中身は空っぽの張りぼてと同じである。盗跖に対して、孔子は第一印象でそう思った。

「では、柳跖りゅうせき殿、よろしいですかな?」と、孔子は落ち着き払って話し始めた。

「世の中には上徳、中徳、下徳の三つの徳がございます。体格や風貌ふうぼうが立派で、貴賤きせんを問わず老若男女誰からもしたわれるというのが上徳です。広い知識を持ち、その知識を活かす知恵と能力を備えているのが中徳です。勇気と決断力があり、多くの部下を統率するのが下徳です。このうちの一つでも徳を備えていれば、その人は天子てんし(帝王)や諸侯しょこうなどの高い身分になれるでしょう。

 今、拝見しましたところ、柳跖殿はこの三つの徳を兼ね備えております。それなのにあなたは世間から『盗跖』と呼ばれ恐れられております。私にはそれが残念でなりません。もしもあなたが私の言葉を聞き入れてくださるのなら、私は諸国を巡ってあなたを推挙すいきょし、あなたが一国の領主に出世されるように尽力じんりょくいたしましょう。

 あなたがこの乱れた世を正し、戦乱を終わらせ、人心と先祖の御霊みたまを安んずるのであれば、皆あなたを聖人君子とみなすでしょう。あなたは盗賊のまま終わるようなお方ではありますまい。志を高く持ち、大局を見誤ってはいけません。乱世の終息こそが、世の人々の願っていることなのです」

 それを聞いて盗跖は「あっはっは」と笑い始めた。そして突然表情を変え、孔子をさげすむように見て言った。

「愚か者め、『目の前で人をめる者はかげでその人の悪口を言う』ということわざを知らんのか?俺がそんなくだらない利益につられるとでも思ったか?

 孔丘、大局を見誤っているのはお前の方だ。昔、王朝はいんに盗まれ、殷王朝は周に盗まれた。そして今、周王朝が誰かに盗まれようとしている。諸侯どもは皆、周王朝を虎視眈々こしたんたんと狙っていて、その諸侯の臣下どもは諸侯の座を狙っているのだ。それがこの戦乱の元凶だ。あいつらは互いに奪い合い、殺し合っているじゃないか。

 孔丘、お前はどうなんだ?周王朝を盗もうと狙っている諸侯達を言葉巧みに惑わし、自身の出世と富貴ふうき目論もくろんでいるじゃないか。お前達は皆天下を狙う大盗賊だ。それなのに何故、俺は『盗跖』と呼ばれ、お前は『盗丘とうきゅう』と呼ばれないのか。おかしいと思わないか?俺が盗んだものなど、ちっぽけなものなのに。

 それに俺は聖人君子などに興味はない。人間というのは欲にまみれた生き物だからだ。美味いものを食い、美しいものを見て、心地いい音を聞き、心を満足させたいと望んでいる、それが人間だ。

 天地は無限に続いているが、人間の寿命には限りがある。しかもいつ終わりが来るか誰にも分からない。だからこそ今を少しでも満足させることが道理というものだ。そんなことも分からん奴を諸侯が取り立てるとでも思っているのか?たとえ取り立てたとしても、すぐに煙たがられて失脚させられるのが落ちだ。俺が君主なら、まっ先にお前を殺すだろう。そしてお前の弟子達も、俺のような人間に殺されることだろう。

 だが、お前の思想はこの地を統一した覇者はしゃによっていつか用いられるようになる。何故だか分かるか?皮肉なことにお前の考えは形骸化けいがいかして、支配者にとって都合がいいものにゆがめられて利用されるからだ。

 残念だったなぁ、孔丘。お前が俺に言ったことはまったく参考にならんし、お前の説いている理想など今の俺には何の値打ちもない。さっさと立ち去れ!」

 孔子は黙ったまま二度お辞儀をして曲阜へと引きあげた。

 柳下季の屋敷を訪れて仔細しさいを告げると、柳下季は「孔先生でもだめでしたかぁ」と溜息をついた。

「お役に立てず、申し訳ありません。弟さんは義と欲とを混同しているようです。己のためなのか、皆のためなのか。しかし、それを分かっていない諸侯や臣下もたくさんおりますからなぁ…」

 孔子は何故諸国で自分が受け入れられないのか、少し分かった気がした。

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