第2話 孔子(前編)

 柳下季りゅうかきは机に広げた書物から顔を上げて、ぼんやりともの思いにふけっていた。自分はの国で学者としてまっとうに生きているというのに、弟のせきは今では『盗跖とうせき』などと呼ばれて人々から恐れられている。思えば小さい頃から悪さばかりしていた。周りの声に耳を貸さず、学問を中途半端に投げ出し、ちょうじて盗賊になるというのは天の道理であろうか。

 そこへ、門弟もんていが声をかけた。

「先生、孔先生がお見えになりました」

「おお、孔先生がいらしたか。早速お迎えにあがろう」

 柳下季が玄関を出ると、孔子は門の外で身のたけ二メートルの巨体を折り曲げてお辞儀をしていた。柳下季は急いで孔子のそばへかけ寄り、彼もお辞儀をした。

「孔先生、お久しぶりですなぁ。さ、中へどうぞ」

 二人が客間へ移ると、門弟が肉と酒を運んできた。孔子は酒で唇をうるおしてから、おもむろに口を開いた。

「それで、柳先生、今日はどういったご相談なんでしょう?」

 それを聞いて、にわかに柳下季の表情がくもった。

「……実は、弟の跖のことでして……」

「今、諸国を騒がせているあの方ですな?」

「はい。今では忠告する親も亡くなり、私も散々あの者には言って聞かせたのですが、どうも一向に効き目がありません。それどころか色んな屁理屈へりくつを並べ立てて、逆に言い負かされてしまうのです。どうか孔先生のお力で、弟を改心させていただきたいのです」

「うーん」と言ったまま、孔子は顎髭あごひげでていた。そして、しばらく考えをめぐらせてからこう言った。

「正しいことを分かっていながらそれをやらないというのは、臆病者になります。それに、やる前から『出来ない』と言うのは自分の可能性をつぶすことにもなります。よろしい、お引き受けいたしましょう」

 柳下季は沈殿ちんでんしていたヘドロが清流で洗い流されたような心地を覚えた。

「おお、孔先生、ありがとうございます。先生のご人徳があれば、あの跖もきっと改心することでしょう。何とお礼を申し上げればいいか」

「いやいや、それには及びません。それよりも、弟さんは一体どのようなお方なのですか?」

「はい、弟の跖は悪賢い知恵がれることのない泉のようにき出てまいります。そしてその気性きしょう疾風しっぷうのごとく激しく、その身体はいわおのごとく大きくて強靭きょうじんです。

 それと、一番気を付けなければならないのは口達者なことです。嘘偽うそいつわりが多く、その話ぶりは自分の短所を長所に、相手の長所を短所にすり替えてしまうのです。そればかりか自分の気に入るような言葉だけを好み、自分の意に逆らうような言葉にはすぐに腹を立てて、相手を侮辱ぶじょくしたり罵倒ばとうしたりします。

 ですが、そんな跖をしたう者も多く集まり、今では手下が九千人もいるそうです。人の心をくすぐるのが上手いのです。跖のためなら死んでもかまわないという者までいるくらいです。」

 そこまで聞くと、孔子の額にほんのりと汗がにじんだ。しかし、その言葉には自信があふれていた。

「なに、私がこれまでに経験してきた苦難に比べれば、そう心配することはありません。ですが、一応念を入れて弟さんに書簡をしたためていただけますか?」

「そうですね、いきなり訪ねて行くと捕らえられるかもしれません。分かりました、すぐにお書きしましょう」

 柳下季は書簡を孔子に手渡すと、願いを込めて言った。

「先生、跖は利益になることばかりを好み、人に対しても物に対しても常に損得勘定そんとくかんじょうをしております。ここに跖を説得する糸口が見つかるかもしれません。どうかご無事でお戻りください」

「柳先生のご助言、この身に染み入りました。では、明朝出立することにいたします」

 孔子は待たせていた馬車に乗って帰って行った。柳下季は馬車が見えなくなるまで孔子を見送った。

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