繋ぐもの
その日から、私の手は言葉を掴めなくなっていた。
言葉を紡ぐことを生業とする自分にとって、それは人生を否定された様な気分だった。いっそのこと殺してくれと思った。それを言葉にしようとしたことすらあったが、結局その言葉も誰に届くことなく空気に溶けてしまった。
数年前に、治る見込みがあるとわかってしまったものだから、希望を捨てられずに生にしがみついて、今日にいたる。私にとっての生は、ある時期までは絶望でしかなかったのに。
「──」
白衣を着た男が何かを言っている。それは日本語であるはずなのに、上手くとらえることが出来ない。ただ、声の抑揚からなんとなく推測はできる。
「ええ、今日もいい天気ですね」
私はそういった。しかしその言葉は彼に届いていないだろう。相手がわからずとも、自分では言葉を発することが出来ていると感じるのは幸福なことなのか、残酷なことなのか。いや、私にとっては幸福に違いない。それが希望とは遠く離れたものだとしても。
「──」
やはり、何を言っているかはわからない。ちょっとした挨拶ならともかく、普通の会話を抑揚だけで掴むのは無理がある。どうにか会話を交わそうと文字や手話も試したが、どれも駄目だった。
私は、この膨大な世界に一人取り残されてしまったのだと、そう思ったこともあった。これから先、永遠の孤独を味わうのだろうと。
しかし、そんなことはなかったのだ。
扉を開ける音に、胸が高鳴る。
「──」
部屋に入ってきた女性の言葉は、やはりよくわからなかった。
ただ、言葉などなくとも、私は彼女の愛情を確信していた。
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