第4話 ■■■■

 人を殺せば幸せになれるんじゃないかと漠然と信じていた。

 それはきっと祈りに似ていた。祈りだ。さして敬虔けいけんでもない者が人生の節目でなんとなく神に祈るように、殺人が幸福に繋がると信じていた。

 そんな話を耳原にしようと思ったが、待ち合わせしていた公園に着くと彼女は既に死んでいた。折角美味しい耳原を食べに行こうと約束したのにこれではどうしようもない。死人は食事が出来ないのだ。全く、誰が耳原を殺してしまったのだろうか。

 死んでしまった耳原の近くにベンチがあったので、私はそこに座り、読みしの文庫本を開いた。紙面に印字された文章が視覚を通して平凡な情報を伝える。

 しばらく読書を続けていると耳原の死体が回収されていく。どこかに運ばれていくのだろう。病院とか工場とかきっとそういう所だ。誰もいなくなった公園で私は読書を続けた。終えた。暇になってしまった。顔を上げると公園に新しい人間がいた。女性だった。知らない顔だった。強烈な違和感がある程全く見知らぬ人だった。彼女を両腕をだらりと下げ、立ったまま青空を見上げていた。

 私の視線に気づくと、彼女は青空を見上げるのを止め、こちらにやって来た。

「こんにちは」

「こんにちは」

「元気ですか」

「電気です。貴女はどうですか」

「電気です。有難う」

 私達は比較的穏当なコミュニケーションを取ることに成功した。私はこの奇妙な女性に対して質問をしてみる。

「貴女は何をしていたのですか」

「空を見上げていました」

「青いですか」

「とても青いです」

「青いのですね」

「とてもあおいです」

 私も空を見上げてみた。確かに青かった。そこで私は耳原抜きで喫茶店に行き、独りで耳原を食べることにした。お腹が減ったからだ。私がてくてくと喫茶店に向かうとあの奇妙な女性も私の後をてくてくとついてきた。空が青かったからだろう。

 二人続けて喫茶店に入ると二人一緒に案内されて二人で耳原を注文してそのまま耳原を食べることになった。耳原は矢鱈と甘く、けれども美味しかった。耳原の言っていたとおりだった。なので私は耳原にしようとしていた話をするにした。

「これは随分前のことなんですけれど、私は、病院いたんです。病院はとても静かで、まるでみんな、死んでいるみたいでした。すると、耳原さんやめて下さいと声が聞こえたので、なんだろうと思って、声のした方へ行ってみると、耳原さんという患者が、ぬいぐるみを親の仇みたいに、踏みにじっていたんです。そして、誰かが泣いていました。私は思いました。嗚呼、私達は、こうやって誰かの大切を、まるでゴミみたいに、まるで無価値みたいに、平然と踏み躙っているんだって。それはとても非道ひどいことだと、そう思いませんか。私は、思います。死ぬくらい、大したことないですよ。死んで、終わるだけです。だけど、大切なものを踏み躙られてしまったら、踏み躙られて、壊れて、癒えない痛みを抱えて、駄目になったことを自覚しながら、駄目なまま永遠を生きるんです。これは、とても非道いことです。そして、でも、私達は暴力です。だから誰かの大切を不用意に踏み躙っているんです。これは、とても悲しいことです」

「そうかもしれませんね」

 女性は耳原を食べながら等閑なおざりがえんずる。

「でも、殺人だって悪いことでしょう。いや、殺人の方が悪いことでしょう。殺人こそ人格に対する最悪の蹂躙ですよ。命が有れば可能性が残るのにそれすら奪ってしまうのですから、矢張やはり最悪との非難を免れませんね」

「まあ随分とかびの生えたご主張を引っ張り出してきたものですね。そんな高みの見物気分のご高説、最早もはや誰も頷きませんよ。死ぬ可能性、これは絶対です。しかし壊れたものが直る可能性は絶対、ではありません。人格の蹂躙がより重罪であることは明らかです」

 私は必死になって反駁した。何故ここまで必死になっているのか自分でもさっぱりわからなかった。この奇妙な女性を完膚無きまでに打ち砕かねば私の平穏が失われるという強迫観念に駆られていた。そしてそれはきっと間違いではなかった。

 私は侵害されていた。私はこの侵害を明確化することにした。

「ねえ、そういえば名前は。私は耳原耳原」

「桜井菜帆です」

「え」

「え」

「ねえ、そういえば名前は。私は耳原耳原」

「桜井菜帆です」

「え」

「え」

「ねえ、そういえば名前は。私は耳原耳原」

「桜井菜帆です」

「え」

「え」

「ねえ、そういえば名前は。私は耳原耳原」

「桜井菜帆である私は当然貴女と違う存在で生育環境も身体能力も体型も容貌も願望も夢も理想も性格も感じ方も考え方も過去現在未来何もかも違っていて、全く他人であると同時に社会において構成員たる人間として同一的価値を有するとみなされるべき存在です」

 この女が何を言っているのか全くわからなかった。妄言だ。意味不明の。こんなもの。

 私は侵害されている。侵害は排除すべきだ。そしてそれは許される。私は簡易殺人器で■■■■■■を殺した。■■■■■■はピクピクンと痙攣して死んだ。殺したら死ぬ。当たり前のことだ。殺すことも死ぬことも当たり前のことだ。当たり前のことだ。

 だから■■■■■■は死体になっていた。その顔は歪んでいた。その歪みが何を表しているのかはわからなかった。わからなかったからわからなかった。私は嘔吐した。食べたばかりの耳原がぐじゃぐじゃの嘔吐物となって口から溢れる。あれだけ甘かった筈の耳原は、もうちっとも甘くなかった。不快な胃酸の味がした。

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