第8話 この世の深淵 その1(注意:R18億です。うつ症状の方はご遠慮ください。)
誰が、人を人として認証しているのか…
誰が、ボクを人として保証してくれるのだろう…
これは、考えてはいけない疑問…
封殺された疑問…
人とは、何か…
生物学上?じゃあ、遺伝子のどこに人間としての証拠があるの?それを決めた理由は?
社会学上?じゃあ、規則のどこに人間承認の保証が書かれているの?それを決めた理由は?
あなたは、本当に人間ですか?
少し、裁判について考えてみよう。
裁判で、司法が被告人を裁く…これはわかる。
その前に、検察が被疑者を起訴する…これもわかる。
でも、被疑者とは何なのか。
国の規則で、国民を制限するこの社会で、この裁判制度があるが、これは、国の中の国民が決めたことになっており、日本ではある方に承認を受けることで、その信用を保っているそうだ。
よし、本題に入ろう。
結論から言うと、現在の社会は、人しか責任を取れない。そして、これは責任を取るモノが人であることも示している。
犯罪を起こした犯人は、誰が人として犯人を認定して責任を取らせているのか…
疑問に思ったことはないかい?
犯罪を起こしても責任能力がなく、裁かられない人間とは、人なのだろうか…
裁判で罰しているのは罪に対してであり、起こした本人に対してではない。
しかしながら、罰は本人に与えられる。
だが、これは…
人間は人間以外に責任を負わせることができない!ことが…
現在の社会で認められた真実…
(真実は、事実ではない…誰かの主観で真に事実であることが認められた事象)
例えば、飼い動物や保持している物や土地が誰かに危害を与えた場合は、それを管理している人に対して責任を取らせる。
会社も代表は人…
国家も代表は人…
そして、社会の中では、会社も国家も一人の人として扱われている。
では、犯罪を犯した人間は誰に人だと認定されたんだ?その証拠は何?
犯罪を犯した人が国民というならわかる。
じゃあ、外国の国民は?国に認めらられていない奴は?だれが、責任をとるの?
しかし、こんな疑問は、意味がない。
人間は人として認められるために社会に所属しその社会で課せられる規則を守ることで責任を果たし、これが信用となりさらに社会に人として認められることとなるのだ。現在は、地球上のほとんどの人が同じ社会に所属し、その社会の下でさらに小さな社会がたくさんある状態である。大きい地球上のほとんどの人が所属している社会を忘れがちになるが、その大きな社会は、小さな社会を国家と称して国家を一人の「人」として取り扱っている。国家は、国家に責任を取らせるのだ。小さな社会は、国家としてその国民を人として承認し、国民は、この小さな社会から外れないように責任を負い、規則を守り、人としての信用を認証してもらおうとしている。他にも、さらにちいさな社会もあるが、これは、人を人としてさらに信用を向上させるためにあるが、子供がおままごとで社会の真似をしているのと同じで、これを周りの人が見て、規則を守りそうかどうかを判断する材料として人を人としての信用を評価する指標に過ぎない。
そのため、本来は、社会に認められていない信用がない人間は、人ではない。
さて、裁判の話に戻すと、責任を負わされている人は社会の中の人であるから、裁判の効力も裁判という規則が決められた社会にしか認められないし、その社会の中の人だけしか裁けない。つまり、社会の中で信用を得て認められた人しか裁判で裁けないのだ。じゃあ、その社会で信用がない人間は裁けないんですか?という疑問が湧くが、これの答えは「正解」だ。しかしながら、その裁判できない人間が起こした事象は誰かに責任を負わせることはできる。その人間の所有者が責任を取らされるのだ。じゃあ、所有者がいない人間はどうなるんですかという疑問にも答えると、社会の中の人以外は生物だろうが無機物だろうが物としてしか扱わないので、「社会の規則」の中で処分することができる。そう、「社会の規則」のなかで…
裁判で、責任能力がない場合は、それはすでに社会が犯人を物として扱って良いということを示し、「社会の規則」の中で物は取り扱われる…
そう、裁判で責任能力がない奴は、社会の中で「人でなし」の承認を受けているのだ。
これは、極端なことではない。社会構造の事実であり、この「社会の規則」も人が決めている。
また、一例を出すと日本の社会の家族制度も「社会の規則」でしかない。これは、この制度も元々は、人が人として信用を得るための制度でしかない事を示している。小さな家族という社会を作らせて、その制度の運営要領を見て、国家の「社会の制度」を守ることができるか信用度を見ているだけなのだ。
ボクはこの制度は人が人として認められるためには効率的で良い制度だと思うが、今は、一部の人がこれを否定しているし、他にも現在のいろいろな「社会の制度」を否定する存在もいるのが現状です。社会を否定することは、さらに信用度を向上できる制度を出す方向であれば、理解されやすいが、制度を廃止し、他人の信用度を下げる「自由」を唱うものであれば、理解されにくいだろう。自分が人として認められたいのであるならば、人が人として認められるために必要な信用を獲得できる新たな「信用獲得制度」を示さなくては、それは、既存の制度を利用して生きる人たちを否定し、他人を「人でなし」つまりは、「物」であると言っているようなものなのです。そのため、「自由を唱うモノたち」は身勝手だと思われ、本人たちの信用が毀損することは自明の理だろう。社会の中で人として生きるためには、信用がないと人として生きていけないのだ。「社会の制度」をさらに信用度が向上する「代替制度」も出さずに否定することは、今を社会の中で生きる人に対し、社会的に「死ね!」と言っていることと同義だと分かって発言する必要がある。
いや、分かって発言しているのか…
残念だけど…
これが、現実…
皆さんは、しっかりと考えて、今の「社会の規則」がある理由に立ち返り、既存の「社会の規則」を変えた場合に、人として認められない「物」が生まれる可能性やその逆に人として認めた「物」は本当に「人」のか、「人」ではなく「物」ではないのか…という変えた場合の影響を考えてみてください。
きっとおもしろいですよ…
本当にあなたは、人ですか?
本当にわたしは、人ですか?
answer『いえ、魔法使いです!』
ではでは、キャッチュアレイター!ばいばーい!
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