第一話 気が気でない日々の始まり ③

「颯太、歯磨けよ」

 しばらく番組を見ていたら、父さんから咄嗟に出たこの言葉。突然言われたって困る。

「分かっているって。と言うか何で今言うの?」

「分かって無さそうだけど。この歳にもなって言われないとできないの?」

「ああ、分かった、分かった! 今すぐ磨く! 磨く!」

 折角見ていたのに、どうしてくれるんだ。僕はテレビの電源を落とした。

 僕はリビングルームから洗面所、兼脱衣所へ行く。既にそこに歯ブラシは置いてある。ドアを開くと…………あっ…あああっ!!!!

「お……お前っ……」

 バスタオルを身にまとった風呂上がりの奈緒がそこにいた。僕は反射的に目を覆った。

 奈緒は僕の頭上に、ゲンコツ一発をお見舞みまい。いてぇぇぇぇぇぇ!!

 もうっ、嫌になっちゃうんだからね! 僕はドアを閉めて、ドアの前にうずくまる。

「痛いよ、奈緒っ……。そこにいるなんて分からなかった。鍵、閉めて……」

「お前が歯磨きで入れるよう、閉めないでおいてやったのに何だその言い様は」

「閉めて……。閉めてよっ! こう言う時くらい!」

「こう言う時って、どう言う時だ」

「だから……。お風呂に入っている時は開けても構わないけど……着替えている時とか、髪乾かしている時とか……そう言う時は閉めて。お願いだから……」

「ああ、分かった。そうしておく。男兄弟がいなかったから、その辺の感覚を分かっていなかった」

「頼んだよ……」

「ああ。さて……」

 奈緒はドアを開けた。太田中央高校の体育着を着た奈緒が、姿を現した。

「お前も入るだろ、風呂に」

「そりゃ入るよ。歯を磨いてからだけど……」

「風呂の湯、入れ替えてやったぞ。少し時間はかかるが、新しい湯に入れる。お前だってんだ湯に入りたいだろ?」

「えっ? 入れ替える必要なんて無いのに、どうして……」

「はあっ? 親切心からやってやったのに、何だその態度は。嫌なのか?」

「……いや、別に」

「……何なんだ、お前は」

 奈緒はそう言って、二階の部屋へと戻っていった。僕は洗面所へと入る。

 洗面台の鏡は扉になっている。そこを開くと、歯ブラシと歯磨き剤が入っている。僕はそれらを取り出して、歯磨きを始める。

 ……洗面台の真横には洗濯機がある。その手前には適当に脱ぎ捨てられた衣類の山。何とブラジャーまでもが乱雑らんざつに転がっている。目のやり場に困る!

 ブラジャーが一個、床に適当に放り出されていた。誰も見てないよな、見てないよな?

 歯磨きを終えたら、それを一個、恐る恐る手に取ってみた。多分、奈緒のそれだ。

(えっ、Fカップ??)

 デッッッッッッッッッッ!!

 Fカップもあるのかよ、奈緒っ! 巨乳すぎるっ!

 僕は他のブラジャーにも手を触れて……危ねぇ、忍び寄る足音がっ!

 僕はブラから手を離し、咄嗟に床へ放り投げた。

「あれ、ここで何してんの?」

 入ってきたのは優奈だった。

「ああ、優奈さん。平気なの? これ」

 僕はくだんの衣類の山を指さした。

「ああ、これ?」

「そう。色々な服が混じり合っているし、それにブラまで……」

「あたしらは見分けつくから大丈夫。ブラのサイズだって違うし。あたしがHで、奈緒がG、ママがFだよ」

「えっ、ええっ?」

 奈緒、Gカップだったのか。

 思った以上にデッッッッッッッッッッ!!

 何だそのけしからん巨乳は。巨乳を通り越して爆乳ばくにゅうレベルじゃないか。

 …………待てよ。奈緒がGカップで、加納子さんがFカップって事は、さっきのブラジャー…………考えない事にしよう。

「何でそんな気まずそうな顔をしているの?」

 優奈は不思議な顔をして聞いてきた。

「いや、何でも……」

「本当に何でも無いの?」

「何でも無いよ。でも、脱いだ衣類を雑に置くの、どうにかして欲しいな……」

「うーん……。じゃあ、こうする? それぞれ、別々のカゴに入れておくって言うのは。カゴを置くスペースならあると思うよ」

「ああ、良いね。それなら安心だ」

「あたしから佳太郎さんに言っておくよ。カゴを五つ買って、って」

「ありがとう」

 優奈に感謝を告げたなら、僕は脱衣所を出て階段を登り、部屋へと戻った。衣類を取りに行く為に。

 部屋では奈緒が……うわっ、何て姿勢しせいをしているんだあああっ!!

「な、奈緒っ、その姿勢……」

 何と破廉恥はれんちな! 僕はすぐさま視線をずらした。

 奈緒は椅子に、股を大きく広げて座りながら本を読んでいた。うわっ、これ……。直視できない……。

「んあっ? 一体何がおかしいと言うんだ?」

「奈緒っ……股、股っ……」

「股? お前、よくもそんなセクハラ発言を!」

「ちっ、違うって……」

 奈緒は激高げきこうして立ち上がり、僕に襲いかかってくる。

 全く、暴力的な奴……。

 逃げようとすると、神経しんけい逆撫さかなでする可能性があるから、じっと待って受忍じゅにんするのみ! さあ、殴れ! 右のほおを殴られたのなら、左の頬も差し出す覚悟はある!

「何が言いたいんだ、お前は。おい、言え!」

 奈緒は殴ってこなかった。

 身長差があるから当たり前なのだが、上から僕を見下みさげて迫ってくる。実に高圧的な目つきで。威圧感にドキドキする……。

「あれ……殴らないの?」

「お前の釈明しゃくめいを聞いてから殴ろう。もしお前の真意がセクハラで無ければ殴らん。さあ、言え」

「それはその……。股を大きく開いて座るの、やめて……。はしたないよ……」

「男兄弟がいなかったら、この格好でも平気だった。長年の習慣で染みついている。中々変えられんのだよ。変えるようには注意しているが」

「そう……。できれば注意してね」

「ああ、分かっている」

「ねえ、これはセクハラに該当がいとうするかな?」

「違う」

「本当に?」

「違う」

「でも本心では?」

「違うって言っているだろうが、しつこい奴め!」

 奈緒は僕の頬を思い切り殴った。

 いてて……。気に入らない事があればすぐに暴力に訴える。まるでジャイアンのように。

 だけどそんな奈緒を、僕は嫌いになれない。それどころか、大好きだ。

 奈緒は椅子へと戻る。股を閉じて、静かに読書を再開していた。

「どうした颯太、何故縮こまっている? 入りたいなら入れ」

 ……不思議な奴だ。さっきまで、あんなに怒っていたのに、一発殴ればもう済んだ事。何事も無かったかのようにました顔をしていた。


 僕は静かに、部屋の中へと入った。以前、奈緒が使っていたタンスは僕のタンスとなった。僕はそのタンスの中から、白ブリーフと中学のジャージを取り出し、二階へと下がった。

 脱衣所に行ったら、とりあえず他の衣類とは別の所にまとめて衣類を脱ぎ捨て、着替えは洗濯機の上に置いておいた。

 全裸になった僕は、風呂場へと入る。風呂場には大きな鏡がある。それを見て、自分の全体像を確認する。

「しょぼい……」

 しょぼいな、僕の身体からだは。全体的に余りにも華奢きゃしゃで、迫力が全く無い。骨に皮がくっついているようだな、本当に。どうすればこんなにせられる?

 奈緒ってどんな人が好きなのかなぁ。僕みたいな、ちっちゃくて子供っぽい奴が好きなんて事、有り得るか? 分からないなぁ。奈緒ってどんな人が好きなんだろう…………

 なんて考えを振り切り、僕は湯船に浸かった。

「はあっ、疲れたなぁ……」

 奈緒の一家と家族になってから、初めての日。すごく疲れた。

引っ越しの作業以上に疲れたのが、奈緒と一緒にいる事だ。凄まじく疲れる。だって……好きな人が隣にいたら、誰だって緊張きんちょうしちゃうでしょ。それが……家の中でずっとそんな状態なのだから。

 もはや僕と奈緒は姉弟、本来なら『好き』って気持ちは封印しなければならないのかも知れない。でも、抑えられないんだ、溢れんばかりの『好き』が。

 僕は誓って胸に刻もう。何があろうと、誰が何と言おうと、奈緒が好きであると! シスコン? 上等ですとも。僕はシスコンだぁぁぁぁぁぁっ!!!!


「そろそろ洗わなきゃ……」

 湯船に十分浸かったら、今度は髪の毛と身体を洗う。

 スポンジはある。ご丁寧にもタグに『颯太』と思い切り書かれた新品のスポンジが。しかし僕が今まで使っていたリンスインシャンプーは無い! 仕方ないから女性用のを使わせて貰うか。ボディソープは、まあ何だって良い。今まで使っていたよりも明らかに高そう……。

 僕はバスチェアに座った。そう言えば、さっきまで風呂には奈緒が入っていたよな。つまり、このバスチェア、奈緒の生尻が…………考えるな、考えるな! そんな卑猥ひわいな事を思い浮かべるのは大罪だ! 邪念を振り切れ、邪念を!

 そんな考えが頭に浮かんでしまったから、結局僕は立って髪と身体を洗う事にした。

 リンスインシャンプーというものに慣れてしまっている手前、シャンプーとリンスを別々に使うのは面倒だ。シャンプーを手に取った後、リンスをその上に出して、手で揉んで適当に混ぜる。シャンプーとリンスの混合物こんごうぶつで濡らした髪を泡立てて、洗い流す。ふぅ、これでスッキリ!


 風呂から出たら、僕は脱衣所で身体を拭く。鍵は即座そくざに閉めた。

 身体を拭いたら、白ブリーフを最初に履いて、その後ズボン、シャツと続く。ここまで着たなら、良いな? 僕は鍵を開けた後、髪を拭いて、ドライヤーの風を吹きかける。

 髪を乾かしていると、後ろからドアが開く音がした。誰だ……?

「あっ、颯太君。話は聞いたよ」

 鏡に映る、背の高い綺麗なおばさん。加納子さんだ!

「話って、何ですか?」

「カゴの事だよ。佳太郎さんから聞いた。ごめんね、今まで気にしていなかったものだから。明日すぐに買って、置いておくと佳太郎さんは言っていたよ」

「分かってくだされば良いんです」

「ありがとう。私はこれからお風呂入るから、乾かし終えたら言ってね」

「はい、分かりました」


 髪の乾燥が終わったら、加納子さんに一言告げて、部屋に戻った。気付けば夜も遅い。奈緒は、二段ベッドの上で寝転がりながらスマホをいじっていた。僕は二段ベッドの下で転がる。スマホは……机の上で、充電だ。

「ねえ奈緒、寝る時、あかりどうするの?」

 僕は聞いた。この夜に照明を明るく点けていて、スイッチのある場所が遠いから容易よういに消しに行く事はできない筈だ。それで二段ベッドの上にいる奈緒は、どうやって……。

「リモコンを持っている。これで消すだけだ」

 ……だよね。だと思った。

「ねえ、奈緒。奈緒って高校生になってからピアスやめたけど……。どうして?」

「今更気になったか? 俺が高校生になった段階で気付いていただろ?」

「いや、ずっと気になってた」

「ならもっと早く言えよ」

「そうだけど……。教えて?」

「その内分かる」

「教えても良いでしょ? 教えてよ」

「これが唯一の答えだ」

意地悪いじわる……」

 そんなくだらない話をしていたら、奈緒は眠くなったようで、リモコンで照明を消した。

 さあ、僕も寝なくちゃ……そう思っていると、二段ベッドの上からギシギシとした音が聞こえた。奈緒の寝返ねがりだ!

 うわっ、眠れねぇ! 気になって仕方ない。どうして、どうして……好きな人となると、寝返りでベッドがきし無機的むきてきな音まで気になってしまう?

 聞くな、意識から消せ、消せ、消せ! そう意識すると、余計に眠れなくなる。この音を意識する余裕が無くなる程に眠くなるまで、じっと耐え忍ぶ他無いか。眠くなれ、眠くなれ、眠くなれ、眠くなれ、眠くなれ、ねむ…く…なれ…………ねむ……………


「…………おはよう」

 僕は目が覚めた。机の方を見ると、奈緒がパソコンで『鉄これ』をしていた。

 夕べは眠れなかった。上から響く音が、余りにも気になって仕方なかったから……。

「おはよう、颯太。もう十一時だぞ」

 奈緒は僕の方を振り向いて言った。

「奈緒のせいで眠れなかったよ……」

「はあっ? 何が俺のせいだ」

「だって、だって……」

「根拠を示せ、根拠を」

「じゃあ言うよ。奈緒が寝返りする音が響いていたせいで……」

 うっかり正直な事を言ってしまった!

 さあ奈緒、僕を殴れ、僕を……

聴覚ちょうかく過敏かびんか?」

 ふぅ、ホッとした……。

 全くそんな事は無いけど、そう言う事にしておこう。

「まあそうかもね。だからね、二段ベッドの場所を交換しようよ。僕が上で良い?」

「ああ、分かった。下段の方が格段に楽だから、嫌って事は無い」

「ありがとう。これで安心して眠れる……」

 僕は起きて、タンスから衣類を取り出し、一階へと行った。脱衣所、兼洗面所へ行くと、早速カゴが五つ置いてあった。良かった、これで安心して脱げる!

 僕は着替えて、脱いだ体育着を『颯太』とシールのついたカゴに放り込んだ。そうしたら、リビングルームへと行く。

「おはよう、颯太。随分ずいぶん遅かったね」

 声をかけたのは父さん。キッチンで昼食を作っているみたいだ。

「慣れないベッドだったからね……。ありがとう父さん、カゴを用意してくれて」

「朝イチで買いに行ったんだよ。そこから間髪かんぱつ入れずに昼飯作り。大変だよ」

「仕事とどっちが大変?」

「………仕事」

「だよね~。そう言えば加納子さんはどうしたの?」

「加納子さんなら大学に行っているよ。次年度の準備の為に。今年はゼミ生が全員男の子だからゼミ合宿が楽しみって言っていた。夜は一緒に書斎の掃除をやる事になっている」

「分かった。大変だけど頑張ってね、父さん」

「ああ」

 父さんの話を聞いたら、ソファに座って、スマホゲームで暇潰し。暫く経つと、昼食が出来たと父さんに言われたので、奈緒と優奈を呼んだ。ダルそうな顔の奈緒と、嬉しそうな顔の優奈が来た。四人揃ってからが昼食。鮭の塩焼きと、豚汁というメニューだ。

 僕は奈緒の向かい側に座った。奈緒はゆっくりと鮭の身をほぐしていく。その時の繊細な白い手の動きと言ったら、魅入みいられずにはいられない。言動はあんなに荒いのに、食べ方は本当に上品だ。そのギャップもたまらない……。

 何と蠱惑こわく的な! 僕は奈緒の挙動の一々に、フェティシズムを感じてしまう。こんな些細ささいな事にまで、そんな気持ちを向けてしまうのは……やっぱり好きだから、の一言に尽きる。好きになるって、罪深いなぁ……。

「なあ、颯太」

 物思いにふけっている僕に、奈緒が話しかけた。

「いっ、いっ?」

 急に話しかけられたものだから、緊張して意味不明な言葉を返してしまう。

 しかし……奈緒が言いたい事は、単純極まりなかった。

「食わないのか? 昼飯」

「あっ、ああっ、食べますとも、食べますとも」

 ぎこちなく返事をして、目線を奈緒から食べ物に移し、食事を始める。食事の一つでも、こんなに気が気でない想いをするんだ。そう考えると、これからの毎日……ずっとずっと、気が気でない想いでいっぱいになるんだろうな。

 連れ子の姉と暮らす気が気でない生活は、こうして幕を開けたのだった。

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