第一話 気が気でない日々の始まり ②

 僕は二階の共用部屋に行って、机についた。

 奈緒も同じ頃に二階の部屋に行き、机につく。僕と奈緒の机は隣同士、机の上で何かをやると、つい隣に目が行ってしまう。

 持ってきたばかりのバッグから取り出した春休みの課題を机の上に置いて、課題を始める。奈緒は隣でノートパソコンを立ち上げていた。

「奈緒ってパソコン持っているんだ」

「お前は持っていないのか?」

「だって、スマホがあれば十分でしょ?」

「分かってないな、お前は。パソコンにはスマホに無い利点がある」

「分からなくて結構。スマホさえあれば現状困っていないからね」

「ああ、そう。分からん奴が無理して分かる必要も無い。それで、課題やっているようだが、進捗状況はどうなのか?」

「課題? まあ半分は終わったかな。難しいなぁ……」

「難しい? 年度によって中身が変わるから一概いちがいには言えんが、俺には簡単だった。お前も太田おおた中央ちゅうおうだろ?」

「そうだけど、だって、奈緒は頭良いじゃん。僕は……」

「この課題に手こずるレベルで入ったのか、お前は。ついて行けるのか?」

「大丈夫、大丈夫。ほら、にわとりの口より牛の尻尾しっぽって言うでしょ?」

「『鶏口牛後けいこうぎゅうご』か? 意味が逆だ、馬鹿が」

「…………そんなにボロクソに言う事無いのに。僕が奈緒の後輩になるんだから、祝ってよ……」

「そう言われても、お前が落ちこぼれる姿は見たくない」

「どうして?」

「お前は俺の弟だからな」

「姉弟愛、ってやつ?」

「端的に言えば、そうだな。義理だろうと、俺の弟。流石の俺でも見捨てはしない」

「奈緒の中では僕は既に弟なんだね…………」

「嫌なのか?」

「別に……」

 奈緒の後輩になりたくて、背伸びして太田中央受けたのに、それが姉になってしまったからなぁ……。完全に読み間違いだった。同じ学校にいなくとも、一緒にいられたのに。

 かなり下位の方での入学だった。これからが心配だ。でも、ついて行くしかないという諦念ていねんで、一生懸命やっている。

 そう思いながら、ふと奈緒のパソコン画面を見ると……ゲームの画面が映し出されていた。このゲームは……!

「あっ『鉄これ』だ。やっているの?」

 奈緒がやっていたゲームは鉄道車両擬人化ぎじんかゲーム、『鉄道これくしょん』だった。

「知っているのか?」

「まあ、少しだけ。奈緒ってオタクなんだね」

「俺がオタクである事くらい、前から知っているだろ」

「ま、そうだけど。僕もやってみようかな」

「お前には向かんな」

「どうして決めつけるの?」

「コツコツと積み上げる事が苦手なタイプの人間には苦行だ」

「ああ、それじゃあ無理だな……」

「認めるのか」

「だって、そうだもん」

「ああ、分かった。それよりも課題はやっているか?」

「ヤベッ!」

 すっかり課題の事を忘れていた!

 畜生、奈緒に意識を取られて!

「俺はヘッドフォンをしてプレイする。だがどうしても気になるならリビングでやりな。あのテーブルでも拭けば学習に使える」

「そうさせて貰うよ! もう、奈緒がいると気が散るよ!」

 僕は学習道具を一式抱えて、部屋を出て階段を降りた。

 玄関に差し掛かった……丁度その時。

「ただいま」

 玄関が開く音と共に、一際ひときわ背の高い女性が見えた。

 奈緒の母親、加納子かなこさんだ。その後ろに従えている、彼女よりも一回り背の低い男性が僕の父さん、名は佳太郎よしたろうと言う。再婚さいこんしたばかりだが……愛の無さそうな二人だ。まあ実際に愛も糞も無いけれども。

「颯太君、引っ越しの作業は終わった?」

 加納子さんは聞いてくる。

「はい、終わりました。ところで、どうして父さんを連れて行ったんですか?」

「俺? ああ、研究室けんきゅうしつの掃除を手伝いに行ったんだ」

 加納子さんに聞いたのに、父さんが直々に答えた。

 二人は靴を脱いで、家に上がり、リビングルームの方へ行く。僕もリビングルームへと入っていった。

「夫が亡くなってから、全然掃除してなくてね。すっかり汚くなってたから、やって貰ったんだ」

 加納子さんはここ太田に位置する中堅ちゅうけん公立大学、群馬ぐんま県立上州じょうしゅう文科ぶんか大学のロシア語学科で教授をしている。東京神田の出身で、母親がロシア人の混血ハーフだ。あの姉妹の母親だけあって、かなりの美人だ。

 僕がリビングルームでくつろごうと、ソファに座ると……。加納子さんは冷蔵庫のドアを開けた。

「酒……あれ、おかしい。減っている。佳太郎さん、飲んだ?」

 いぶかしそうに加納子さんは言うけど……下戸げこだよ、父さんは。

「いや、飲んでないよ。俺は下戸だから」

「だよね。でも……でも減っている。私はこんなに飲んでいないのに。何故だろう」

「気のせいだと思うよ」

「まあ、そうだよね……」

 加納子さんは酒を取りだして、台所から去った。

 父さんは台所の奥へと入っていく。

「じゃ、夕飯よろしくね。あ、それと明日は書斎しょさいの掃除も頼みたいんだけど、よろしく」

 加納子さんはサラッと命令をして、二階へと上がっていく。二階の奥には加納子さんの書斎がある。恐らくそこに行くのだろう。

「父さん、本当に加納子さんと再婚して良かったの?」

 僕は父さんに聞く。

「どうして?」

 父さんは不思議そうだ。

家事かじ、全部丸投げされているじゃん。良いの? それで」

「心配無いよ。一生養ってくれるという確約かくやくを得ているから。勿論もちろん、颯太が自立するまでは颯太もその対象だ」

「だから給食センターの仕事をやめて家庭に入った訳だけど、それに満足しているの?」

「一日目だからまだ何とも言えないけどな。今の所、働くよりもずっと楽だ」

「そうか。前から、奈緒から聞いているんだよ。加納子さんは家事が丸っきりできないって」

「俺も聞いているし、その為の再婚だよ。亡くなった龍介りゅうすけさんに代わって、俺がやるんだ」

「そうなのか。でも、何で加納子さんは父さんを選んだのかな……。加納子さんは若い子が好きって奈緒が言ってたし」

「家事が得意で、ある程度経験のある人が欲しかったようだからね。即戦力そくせんりょくだよ」

「そうだよね、愛は無いって言っていたし」

「ま、一言で言うなら契約けいやく結婚だな」

「そう言う事ね。それで、何を作っているの? 父さん」

「麻婆豆腐と、中華スープ。それから、大根サラダだ」

「給食の仕事の経験を活かして?」

「まあね」

 父さんは淡々たんたんと、夕飯の調理をしていった。

 僕はテーブルの上で、黙々と課題をこなす。非常に難しい。投げ出したくもなる。けれどもやるんだ、奈緒の後輩として、弟として、恥ずかしくないように! 奈緒に落ちこぼれる姿を見せない為に!

 ……って、何だこの問題は。とら…くち……けねぇ! 解けねぇぞぉぉぉぉ!!

「解けねぇ、解けねえぞこの問題!! ヒィィィィィィッ!!!!」

 僕は思わず大声を上げてしまった。

「そ、颯太っ……?」

 父さんが心配して声をかける。

 そんな中、階段から足音が聞こえた。まだ足音で判別がつく程、三人の違いが分からない。でも、霊感れいかんだけど、多分……

「おい、颯太。うるせえな、大声上げて!」

 思った通りだ。リビングルームのドアが開き、奈緒の怒鳴どなり声。うるせえな、と言いつつ、多分僕のわめき声よりもうるさい。

「奈緒、来てくれたんだね!」

「嬉しそうだな、お前。怒鳴られて喜ぶタイプなのか?」

「んな訳無い、訳無い。これを見て欲しいんだ、国語は得意でしょ?」

「ああ、一番得意な科目だ。どれどれ……」

 奈緒は僕に近づき、課題の答案を見てくれた。

「ああ、『虎穴こけつらずんば虎児こじず』か。リスクをおかさねば大きな利益は得られない、と言う意味だな」

「ありがとう。でも、読みと意味だけで無く、言葉のシチュエーションで例文を書けとまで……。理不尽りふじんだよ、この問題」

「例文? それならば簡単だろう。お前に好きな奴がいたとする。想いを告げたら逆に嫌われるかも知れない。でもどうしてもそいつを彼女にしたい。そんな時、お前ならどうする?」

「えっ? えっ? えええっ?」

 例えが不適切だ!

 これって要するに……僕の奈緒に対する感情そのものじゃないか! そんな時、僕は、僕は………

「何もしない! だって、嫌われたくないし!」

「お前の気持ちはよく分かった。ではこれはどうだ? 危険なジャングルには財宝ざいほうが眠っている。ジャングルにもぐらなければ財宝は得られない。その場合、危険をおかして財宝を取りに行くか、財宝をあきらめるか」

「ああ、分かりやすい例だ。ありがとう」

 僕は『危険なジャングルに入らなければ、そこに眠る財宝は得られない』と、書いておいた。

「それと、次……。読みは分かるんだけど、どう言う意味なの? 教えてくれない?」

「五十歩百歩、か? 分かった、教えてやる」

「うんうん、教えて」

「お前は身長一五八センチの男をどう思う?」

「一五八センチぃ? ちっちゃ!」

「そう言う意味だ」

 奈緒はクスクスとわらっていた…………って、おいっっっっ!

 思い出したよ、『五十歩百歩』の意味を!!!!

「奈緒っ! 確かに僕はちっちゃいけど……ちっちゃいけど……ちっちゃいな……」

 一度は激高げきこうして反発して見せたが……『ちっちゃい』に対抗し得る材料が見付からず、へこむ僕だった。

 ちっちゃい上に、顔も子供っぽい。ガリガリと言って差し支えない程せていて、声まで高い。変声期へんせいきは過ぎている筈なのに。

 と言うかついこの前、小学生に間違えられた。それくらい、外見が幼い。コンプレックスなんだ、ちっちゃいのは。

「分かっただろ」

「うん……。一六三センチ、一六三センチ、一六三センチ……」

「何の呪文じゅもんとなえているんだ?」

「僕の身長だよ」

「知っているわ」

「ねえ、どうしたら身長伸びると思う?」

「知らんな。ただ、男は二十歳までは伸びるという話を聞いた事がある」

「マジでぇ?」

 こうなったらいてもたってもいられない!

 僕は冷蔵庫から牛乳を取り出し、抱えた。父さんに一言断って、キッチンに入らせて貰い、マグカップを一個持ってくる。牛乳とマグカップを抱えて、テーブルまで戻った。

「なあ、お前、何する気だ?」

 奈緒が呆れたように聞いてくる。

「決まっているでしょ、身長を伸ばすの。二十歳の時には、奈緒を超える高さになってみせるんだからね!」

「…………アホだ」

 奈緒は僕を冷笑し、リビングルームを去ろうとする。

 全く、僕を虚仮こけにしやがって。

「あ、待って、奈緒さん」

 父さんは去ろうとする奈緒を引き留めた。

「何でしょうか、佳太郎さん」

 奈緒でも敬語使えるんだな。どちらかと言えば慇懃無礼いんぎんぶれいって感じだけど。

「もうそろそろ夕飯出来るから、ここにいて。それと、優奈さんと加納子さんを呼んで」

「ああ、分かりましたよ」

 そう言うと、奈緒は壁に掛けてある内線用と思しきインターホンのボタンを押した。そして言う。

「おい、ババア。そろそろ夕飯だ。姉貴も連れて来い」

 実母じつぼに対して何だこの態度は。

 余りにも目に余る言葉遣いだ。僕は奈緒に抗議する。

「奈緒、親に対してそんな事言って良いの?」

「奈緒さん、やめてくださいよ。加納子さんの気持ちも考えて……」

 父さんは僕に便乗びんじょうするかの如く、やんわりと苦言くげんていした。

「こうでもしないと、ババ…じゃなかった、母さんは来ないんですよ。怒鳴って呼ばなきゃ、ずっと書斎で本を読んでいますからね」

 言い聞かせるように、奈緒は言う。

 素で母親の事をババアって言っているんだな。本人にも、堂々と。そう言う所、嫌いじゃないよ。

「分かった、分かった、今行くよ!」

 インターホンから聞こえる、加納子さんの声。

 少し経ったら、階段を降りる音が聞こえた。

「お待たせ」

 加納子さんが来た。だが優奈はいない。

「あれ、優奈さんは?」

 僕は聞いた。

「優奈はね、声をかけたんだけど、今勉強しているって言うから……」

「ああ、分かった。優奈さんの分、取っておくよ」

 絶対嘘だ。

 奈緒もそれを察した顔をしている。これはゲームやったりしているのを、誤魔化しているな……。

 まあ、言わないでおいてあげよう。これで痛い目を見るのは、優奈ただ一人なのだから。


 僕は奈緒と加納子さんと、それから父さんの四人で麻婆豆腐を中心とした夕食を食べた。

 一つだけ、父さんに注文をつけておいた。今度作るなら、もっと辛く作って、と。給食センターに勤めていた長年の癖で、つい甘く作ってしまうようだ。

 奈緒と加納子さんも、父さんの料理は美味いと言ってくれた。これで新たな生活も、恐らく安泰あんたいだな。食べ終わったら、父さんは台所で洗い物をして、奈緒と加納子さんは別の部屋へと行った。

 さて、僕はこの部屋でテレビでも見ていよう。特に見たい番組がある訳でも無い、けれども、何てったって暇なんだ。僕はリモコンを片手に、テレビの電源でんげんを入れた。

「いやぁ、美味うまいねぇ。で、お値段ねだんは……九十円? やっすい!」

「つまんねぇ……」

 本当につまらない番組だな、これ。

 散歩して、そこら辺の店に寄って食べ歩き、店主や客と話す。何が面白いのかさっぱり分からない。

 でも見てしまうのは何故だろう、何かの魔力まりょく? 僕はこの番組に見入っていた。

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