ポラリス

◆電子書籍『午前四時のメイクアップ』掲載作品



 世界で一番大切なものは何かと訊かれたら、わたしは迷うことなく、きみだと答えた。


 ゴインゴインゴインゴイン。

 むき出しの鉄骨階段は音が響くから好きじゃない。おまけにピンヒールでのぼると尚のことテンションを上げてくるから、もうこいつはドMと思って間違いないだろう。うちの部長と一緒だ。この前経理の水口さんが、うちの部長もピンヒールで踏むと大声を上げるって給湯室で言っていた。

 ゴインゴインゴイン。

 甘え上手なのに実はサディストな水口さんは、部長が叫ぶと嬉しいらしい。だけどわたしはそういうプレイに興味はないから叫ばれるのは正直どん引くし、そもそも今踏んでいるのは部長ではなく階段だし。階段の大きな音は、部長の存在並みにうっとうしくて邪魔だ。

 ゴインゴイン。

 もうこの階段ほんと腹立つから絨毯でも敷こうかな。って、前に言ったことがある。そしたらきみは「ピンヒールを履いて来ないというとても簡単な手があるよ」って答えたけれど、甘すぎる。甘すぎて笑える。童貞のごとく女を知らん奴め。忘れたのか。

 12センチのピンヒールは女にとっては伝説の剣よりずっと強力な武器なのだ。踏みつけるためとかじゃなく、もっと、心の外側に分厚い鉄の壁をつくるみたいな。真っ直ぐに、誰より強く生きるための武器。

 脱ぎ捨てることは出来ない。まだ、もう少しの間は。

 ゴイン。


 二階の一番奥の二〇五号室。表札には、いつかわたしが書いたヘタクソな文字が今も少し掠れて残っている。インターホンを鳴らすと「はい」と小さな四角から声がした。

「お届け物でぇす」

 鼻を摘まんで返事をすると、一瞬の沈黙があった。のち、ガチャンと通話の途切れる音。同時に部屋の中から足音が聞こえたから、覗き穴を塞いで待っていれば、しばらくして、ドアの鍵が開いた。

「やあ、しゅう。ごきげんよう」

「どうしたの、椿つばき

 玄関から顔を出した柊は、自慢の男前も台無しの不細工なしかめっ面でわたしを出迎えた。まったくなんなんだその顔は。せっかくこっちはとびきり可愛いお顔でご挨拶してやっているというのに。本当に無粋な野郎だな。

 だがしかしそれはともかくとして柊はまだあのだらしない部屋着には着替えていなかったようだ。非常に好都合。

「ねえ椿、来るときはさ、連絡入れろっていつも言ってるじゃん」

「言ってるね」

「言ってることをわかってるなら、ちゃんと実行してくれないかな」

「何そんな怒って。まさか女でも連れ込んでるんじゃあるまいな」

「怒ってないし連れ込んでないし。連れ込みたくても、お前がこうして突然来るから連れ込めないんだよ」

「残念だね」

「まさにね」

 ふう、と柊がため息を吐く。怒ってないって言ったわりには視線は鋭くて、でもちっとも恐くなんかないのはその顔が長くは続かないことを知っているからだ。いつものこと。誰よりきみはわたしに甘いもの。わたしがわがままなのはいつだってわたしを甘やかすきみのせいだから。

 ほら、今だってもう思ったとおり、そうやって、あっという間に、八重歯を見せて呆れたように笑うでしょう。

 可愛いわたしの弟。

 一緒に生まれた、双子の弟。


「とりあえず中に入って。ここ寒いでしょ」

 外で立ちっぱなしのわたしに、早く入れと言わんばかりに柊が大きくドアを開ける。しかしながら部屋に入る予定は特に無いため、わたしは山のごとく動かないまま。柊が首を傾げる。

「どうした?」

「柊。海に行こう」

「は?」

「海に行こう」

「や、聞こえなかったわけじゃなくて」

 三秒くらい間が空いた。それから柊は右手で目頭を押さえて、何かを確認するように薄目でわたしを見た。「今から?」「もちろん」「だよね」

 さっきよりも少し大きくなったため息が吐き出された。断らないことはもうわかっている。柊はわたしに背中を向けると「ちょっと待ってて、上着取ってくる」と言った。

「行ってくれるんだ」

「言うこと聞かないとお前帰りそうにないし」

「さすが、わかってるね」

「あと椿、マフラーどうした?」

「してないよ。もう三月だし」

「まだ三月なんだって。これだけ寒いのに風邪でも引いたらどうするの。もう、ほんとお前、大人なんだからちゃんとしろって言ってるのにさ」

 ぶつくさ悪口を言いながら部屋に入っていく背中を、コートのポケットに手を突っ込みながら見ていた。ドアの隙間からの、部屋の暖かさに触れて、確かに寒いなと、今気付いた。

 そのうち、マフラーをふたつ持って戻って来た柊が、「何にやにやしてんの?」と、不思議そうにわたしに訊ねた。


 400㏄のドラッグスターは、二年前に知り合いから安く譲り受けたものだ。黒光りした車体は今も新品みたく綺麗で、物にあまり執着のない柊が珍しく大事にしていることはマシンを見ればよくわかる。

 玉に瑕なのは、前に乗っていたバイクよりも二人乗りがし辛い形だったこと。だけど乗り慣れた今となっては、家の座椅子にでも座っているような気分で柊の後ろに乗っている。

 十一時過ぎの県道は、少しずつヘッドライトの数を減らしていた。海までは、のんびり走っても三十分で着く。平坦で真っ直ぐな道のりだ。

 柊はハンドルをゆるく握って、暗闇にぼんやり浮かぶ道路を海に向かってなぞっていく。

 元々、バイクに憧れていたのはわたしのほうだった。

 いつか免許を取ったら、ずっと遠くまで大きなバイクで走っていきたいと思っていたのだけれど、のちのち発覚した事実──原付ですら上手く乗りこなせないあまりの技量の無さにより、バイク乗りへの夢を泣く泣く諦めたのだった。

 柊は、そんなわたしを尻目に、自分だけあっさり免許を取った。そのお祝いにわたしが唇を噛みながらグローブを贈った次の日、柊が用意していたのは、わたし専用のヘルメットと、タンデム中でもおしゃべりできるインカムと、憧れていた大きなバイク。

「さあ椿、これでずっと遠くまで行けるね」

 差し出されたメットを受け取るのよりも先に柊に抱きついたのは、もう懐かしい思い出。あれから数えきれないくらいに何度も、柊は、わたしのためにわたしを乗せて、大きなバイクを走らせた。


 夜の暗闇の中、街灯が、リズムよく後ろへ流れていく。

「ねえ柊、サイドカー買ってよ」

 ヘルメットを、柊のモコモコのマフラーに埋めながら言った。メットのおでこのあたりが、ゴツンと柊のとぶつかった。

「サイドカー? バイクの?」

「うん」

「買ってどうすんのさ」

「わたしが乗るに決まってるじゃん。夢なんだよね、サイドカーに乗るの」

 ぷすっと笑われたのがわかった。くだらない夢だなあって、柊が本当にくだらなそうに呟く。

「本気なんだよ。あれってさ、たまに犬とか乗せてるおじさんいるじゃん。犬乗せるくらいならわたしを乗せてよって思うよね」

「はいはい。いつか叶うといいね」

「だから柊が買ってくれたら叶うんだって。いつでも、好きな時に乗れるしさ。ねえ買ってよ」

「そんなの持ってたってお前以外使わないよ。もったいないだろ」

「わたし以外使わなくていいよ」

「椿専用ってこと?」

 うん、と答えると、柊はほんの少しだけ黙った。メットの隙間から、伸びた髪が先の方だけ覗いていた。固い髪質なのはお揃いだ。女の子らしくないのが嫌いだったけれど、きみと同じなのが好きだった。

 赤信号で止まったとき、柊が前を見たままで言う。

「だったらなおさらもう駄目だ。お前のためには、買ってやらない」

 バイクがまた走り出す。エンジンが大きく響く。わたしは、落ちないように柊のお腹をぎゅっと抱き締め直す。

「……いじわる」

「何とでも言え」

 吸い込んだ冷たい空気には、きみの匂いも混ざっていた。何よりもわたしの心を落ち着かせる匂いだ。小さい頃から、いや、きっと、もっとずっと前から側にあったから。

 いじわる、と、もう一度言った声は、たぶん聞こえていなかった。


 潮の香りと波の音。真っ黒に染まった海は水面が時々きらめいて、まるで宇宙が落っこちてしまったみたいに見えた。

 この間テレビで見たダイオウイカを思い出す。こんな得体の知れない真っ暗な海であんなものに出会ったら、わたしは確実にショック死するに違いないと、防波堤に座りながら思った。

 放り出した足の下にはテトラポットがごろごろしていて、その隙間に弾けた海のかけらが見えた。落っことしたら大変だからと大事な靴は脱いでおくことにした。防波堤に置いた自慢のパンプスを見て、柊が少し顔をしかめた。

「で、ここに何しに来たの?」

 側にバイクを止めてから、柊が横に腰を下ろす。

「別に何も」

「何もないのにこんな時間にわざわざ俺を連れ出したわけか」

「そうだ」

「明日も仕事なんだけど」

「わたしもだ」

 ザアッと波が打ち寄せる。隣で柊が、寒そうに肩をすくませた。

 今日は満天の星空だ。だけど、たくさん見えてもどれがどれだかさっぱりわからない。星にはあんまり詳しくないのだ。

 唯一、自分が双子な影響で、ふたご座の星であるカストルとポルックスって言うのにだけは興味を持った。一等星と二等星の明るい星で、仲良く並んで光っているのだそうだ。たぶん、今も見えるはずだけど、やっぱりどれかはわからなかった。

 少しだけ、息が白く濁っていた。柊から借りたマフラーを、口元まで引き上げた。

「ねえ柊」

「何?」

「一生のお願い。手、繋いでて」

 いいよ、と一言返事があって、手袋を忘れた左手が冷たい温もりに包まれた。わたしのよりも大きな手のひら。細いけどごつごつ骨ばった指と、血管が少し浮いた甲。昔はおんなじもみじみたいな手だったのに、いつの間にかこんなにも違う形になった。

 指先だけでそれを握り返す。形はこんなに変わったけれど、温度だけは、昔から何ひとつ変わらない。

側に在ることが当たり前だった。自分のじゃない温もりは、自分のそれよりもずっと深く体の中に沁み込んでいた。産まれる前から隣に居て、同じ歩幅で同じ道を一緒に歩んできたわたしときみ。

 ぎゅっと手を繋いで、どんなときでもふたり一緒に。これまでずっと、長い間、ずっと。

「椿の一生のお願い、聞くの五百回目くらいだ」

 柊が笑う。わたしは振り向かずに、真っ黒いタイツの爪先を見つめる。

 知ってはいるんだ。わかってもいる。わたしたちはたったふたりきりの姉弟で、いつまでもかけがえのない家族で、それは何十年経ったって絶対に変わることのない繋がりだけれど。

 でも、いつかは、お互いに違った生き方をすること。大人になれば必ず、繋いだ手を離すこと。

「椿のわがまま、こんなに聞いたのは世界できっと俺だけだよ」

「柊」

「でももう、これきりな」

 繋いだ手を、離して。違う道を歩くこと。

 新しい家族をつくること。



 早く大人になりたかった。

 大人になればもっと強くなれると信じていたし、ひとりでだって誰より格好よく生きていけると思っていた。

 きみの手がなくても、きみに手を引かれなくても、きみが隣に居なくなっても、生きていけるんだと思っていた。


 小さなわたしにとって大人な女性の象徴は、細長い足の下で凛と立つ、ピンヒールのシューズだった。

 街で見かける美人なお姉さんはみんなそれを履いていた。黒、赤、ベージュ。ストラップ付きのものやオープントゥ、コサージュが付いているものなど色も形もそれぞれだけれど、共通していたのは、それを履いていた誰もが、恰好よく、そして誇らしげであったことだった。

 当時まだ、汚れたスニーカーしか持っていなかったガキのわたしは、その靴に強い憧れを抱いた。あの靴を履けば自分も大人に近付けると思った。靴音を軽やかに鳴らすお姉さんたちみたいに、わたしも恰好よくて強い女の人になれる。そう思った。

 普段ヒールの高い靴を履かない母が、何かのときのためにと一足だけ下駄箱の奥にピンヒールのパンプスを仕舞っていることは知っていた。わたしは母が出かけている隙を狙って、それをこっそり取り出し、意気揚々と履いて玄関を出た。


 三歩で転んで手と膝を擦りむいたのは言うまでもない。玄関先で派手に倒れた音とわたしの泣き声を聞いて、柊が慌てて部屋から飛び出してきたのを今でもよく覚えている。

 柊は、ひと目見てすべてを把握したようだった。転げたパンプスを下駄箱に戻してから、鼻水だらだらで泣きじゃくるわたしの手を引いてふたりの部屋に戻った。

 血を洗い流した膝は、代わりに赤チンで真っ赤に染まった。

「絆創膏は貼らなくていいか。服に付かないようにね」

 痛みと悔しさでわたしがわんわん泣くしかなかった間に、柊はてきぱきと(わたしの抗議と愚痴を無視して)わたしのケガの具合を見ていった。擦りむいたのは両膝と左の手のひら。手の傷は、女の命である顔を守るために負った名誉の負傷だった。

 柊が、手のひらの傷に赤チンを塗りながら言う。

「ああいう靴はさ、椿にはまだ早いって」

 その言葉にちょっとむっとしつつも、今主導権を握っているのは向こうだ。怒鳴ることはできない。

「だって……アレ履けばわたしも恰好いい大人になれるし」

「なれてないじゃん。ケガしてべそかいて、これが椿の思う大人なわけ?」

「これは……ちょっと油断した」

「馬鹿だなあ、もう」

 はい終わり、と柊が言って、救急箱をパタンと閉めた。わたしは真っ赤になった手と膝を見て、これはこれで誇らしいな、とあほなことを思った。

「大人になんか、そのうちなるから、待ってればそれでいいんだよ」

 まだ、座っても立っても同じ目線の高さの柊が、呆れた顔で呟く。

「でも早くなりたいの。わたしは強くて恰好いい大人になりたい」

「なんで? この間六年生の長野くんにケンカで負けたことまだ根に持ってんの?」

「あんなあほ関係ないよ。あいつの話は二度とするな。そうじゃなくて、わたしは」

 赤チンの付いた、自分の手のひらを見つめた。小さな手だ。とても心許ないうえに傷だらけで。こんな手で、一体何が掴めるんだろうととても不安になる。だけど、それでも、ひとりで歩かなきゃいけないから。

「わたしは柊が居なくても大丈夫なように、早く、大人になりたいの」

 ぎゅっと手のひらを握り締めると傷口が沁みた。短い爪の先に赤い色が付く。

「何それ。俺は椿の側に居るよ」

「知ってるけど、いつまでも一緒には居られないじゃん」

「俺と離れたいわけ?」

「そうじゃなくて」

 そうじゃなくて。絶対に、離れたくはないんだけれど。ずっと一緒に居られたらそれが一番なんだけれど。

 知っているんだ。それでもいつかは離れていく。わたしは柊じゃない誰かを、柊は、わたしじゃない誰かを選んでその人と一緒に新しい道を進む日が来る。

 今のわたしは柊無しじゃとてもまともに歩けないけど、それでもひとりで大丈夫なように、柊が、安心して、自分の道を行けるように、わたしもいつかは歩いて行かなくちゃいけない。

 だから。

「ちょっと待ってて」

 柊が立ち上がって部屋を出て行った。わたしはその場に取り残されたまま、びよんと伸びた鼻水をすすっていた。しばらくして戻って来た柊は、その手に、母がいつも使っているものを持っていた。

 真っ赤な口紅。

「……何それ。お母さんのじゃん。柊ドロボー」

「椿が履いてた靴だってお母さんのだ。ねえ、ハイヒールは無理でも、これならケガしないでしょ」

「口紅なんてわたしまだつけられないよ」

「ハイヒールだって履けてなかったじゃない。ほら、俺が塗ってあげるから」

「似合うかなあ」

「どうだろうね」

 柊に言われて目を閉じた。上唇の右端から、ねっとりとした感触が順になぞっていった。舌べろの先で少しだけ変な味がする。なんだこれ気持ちわる、そう思っている間に「はいできた」と柊の声がして、わたしは目を開いた。

「お母さんが前に言ってたよ。真っ赤な口紅は、大人の女の証だってさ」

 じっと、瞬きもしないまま、小さなドレッサーの中の、もうひとりの自分を見ていた。

 いや、違う。そのときにわたしが見ていたのは自分の顔じゃない。だってそこに居たのはわたしじゃなかったから。

 小さな鏡の中で、同じくこっちを見つめ返していたのは、真っ赤な唇の、初めて出会った女の子。

 衝撃的だった。魔法にかけられたのかと思った。だって口紅ひとつでこんなにもすべてが変わるんだもの。そんな不思議、魔法以外に考えられない。

 一体柊はいつからこんなすごい力を身につけていたんだろう。こんな……見ている景色が、それこそ自分すら、鮮やかに変わってしまう特別な魔法。

「感想は?」

 柊が言う。「とびきり可愛すぎて人生で一番驚いてる」わたしは答える。

「そうかなあ。椿にはまだ全然似合ってない気がするけれど。なんだかちぐはぐな感じ」

「うるさいなあ。いつかは似合うようになるもん」

「あ、似合ってないのは自覚してるんだ」

「わたしだって十年もすればね、ボインのビジョになるんだからね」

「そうだね」

 鏡の中、隣に映る柊が笑っていた。

 それを見て、ああ、わたしはやっぱりまだ大人にはなれないなと気付いた。

 だってほら、まだ無理そうなんだ。わたしはきみが居なくちゃどうしようもなくて、ひとりだと、どうにも心許なくて。だから。

「ゆっくり大人になろうよ、ふたりで一緒に」

 だからわたしはまだ、きみと手を、繋いでいたい。 

「いつかさ、この口紅が似合って、高い靴も履けるような、誰より強くて格好いい大人になれるまで。ね、椿」



 ──エンジンを鳴らして車が一台通り過ぎた。

 そのあとにはまた、どこまでもさざ波の音。わたしがひとつくしゃみをすると、うつったみたいに柊がわたしより可愛いくしゃみをした。鼻水をすすって「寒いな」と呟くから、「寒いね」と答えた。

 真っ黒な海が風でうねっていた。向こうの岸の町の明かりがチカチカ小さく光っていた。遠く、見えない、人工衛星を探して、わたしは空を見上げた。

「なあ椿。どうしたの」

 繋いだ手は繋がれたまま。マフラーで覆った首元よりも、握られた手のほうが温かい。

「どうもしてない」

「どうもしてないわけないだろ。俺をごまかせるとでも思ってるの?」

「思ってない」

「そこは正直なんだな」

「わたしは世界のすべてに嘘を吐けても、柊だけは欺けないよ」

 ぎゅ、と大きな手を強く掴んだ。見上げても人工衛星は見つけられない。知らない名前の星がたくさん、動かないでそこに居るだけ。何かの目印みたいに。小さな小さな、誰にも知られていないけど、誰かが知っている星が、確かに、そこで、光っている。

「柊」

 強く唇を噛んだ。名前を呼ばれた柊は、不思議そうにこっちを見たけど、わたしは我慢して、口紅の落ちた唇を結んでいた。

 そうしなきゃ今、言っちゃいけないことを言ってしまいそうだったから。

 言わないって決めたこと。もう、絶対に。


 ずっと側に居て。

 わたしの側に居て、柊。


 思いもしなかった。子どもの頃のわたしは、赤い口紅を塗れるようになれば、ピンヒールを履けるようになれば、強い大人になれば、ひとりでも歩いて行けるんだって信じていた。

 大人になってもまだ……むしろ大人になればなるほど、きみと強く繋いだ手のひらを離せなくなるなんて、あの頃には、思いもしなかったんだ。

 だけど、もう。もう離さなくちゃ。

 わかっていた。いつまでも一緒には居られないこと。いつかは別れ道があって、別々の扉を開けて前へ向かうこと。その先へ。違う道へ。

 その一歩を踏み出すとき、隣に居るのは、柊じゃない、誰か。


「なに、椿。マッリジブルー?」

 横で小さく笑う声がした。わたしは振り向かずに、そっと息を吸う。

「んなわけないじゃん。超楽しみにしてるんだから。そんなものなる奴の気が知れないって」

「そう、ならいいんだけど」

「ドレスもすごく可愛いの着るし」

「ドレスが可愛くても椿が仏頂面じゃあね」

「誰より可愛い顔するわ。柊こそ、だらしない恰好で式来ないでね」

「わかってるよ。誰より格好いい姿で行くよ」

「花婿より目立つのやめてね」

「それは、どうかな」

 柊がまた笑うから、つられてわたしも下手に笑った。同時に、目頭がじわっとくすぐったくなる。慌てて俯いたけど遅くて、お気に入りのショートパンツにぽつっと格好悪い染みができた。

 気付かなきゃいいのに、柊はそれに気付いて、そのうえ、気付かないふりをするんだから。性格悪い。本当、なんでそんなに。

 きみは誰より、わたしのことをわかっているの。

「柊」

「ん?」

「わたし、ちゃんと歩いて行く」

「うん」

「柊が隣に居なくても、頑張ってみる」

「うん」

「ちょっと不安だけど」

「大丈夫だよ。ひとりじゃないだろ?」

 顔を上げるときみが居た。いつだってそこに居てくれた。でもこれからは居ない。

 わたしはきみの手を離してきみが隣に居ない道を歩く。きみじゃない人と手を繋いで、新しい家族をつくって、これから先、どこまで続くかわからない道を、どこまでも。

「じゃあ、椿、確認」

 柊がわたしから手を離した。少しだけ高さの違う目線を真っ直ぐに合わせて、あの頃と変わらない顔で笑う。

「椿の、世界で一番大切なものは何?」

「……柊」

「じゃなくて?」

「……秋吉あきよしさん」

「正解」

 ぎゅ、と抱き締めてくれたのは、答えを当てたご褒美だろうか。聞こえる鼓動は穏やかで、わたしの全部を包み込む。それは、産まれる前から、ずっと側にあった音。わたしに寄り添ってくれていた音。心の底から安心する音。

 ──柊の音。

「椿」

「なに」

「誰より幸せになって」

 その声が、何かの合図だったみたいだ。ぼろぼろと涙が落ちて、もう隠すことはできなかったけど、柊はやっぱり気付かないふりをしてくれた。

「まかせろ」

 見えなかったけど、柊はこのときどんな顔をしていたかな。きっと、わたしと正反対の顔をしていたはずだ。だってどんなときでもきみは、わたしのために笑ってくれていたから。

 だから、これからはどうか、自分のために、誰より幸せに、笑っていて欲しいと思うよ。

 わたしが世界で一番に、大切だったきみ──。


     ・


 大安吉日の日曜。

 空は雲ひとつなく、穏やかな春の陽気が窓から降り注いでいる。

 控室の大きな鏡にはドレス姿のわたしが映っていた。これでもかというほど試着を繰り返して決めた至高の一枚だ。純白のウエディングドレスをここまで美しく着こなす女はわたしの他にはいないだろう。

 シューズはもちろん、12センチのピンヒール。ヒール部分に花飾りをあしらったとびきり可愛いものを選んだ。

 秋吉さんは、裾を踏んで転ばないかなと心配していたけれど、舐めるな、女はそんなヘマはしない。特に今日は、純白のドレスを赤チンで染めるわけにもいかないし。

 ノックの音がして答えると、開いた扉の向こうから柊が顔を出した。新調したダークグレイの細身のスーツは、背の高い柊によく似合っている。

「やあ、花嫁さま。今日はより一層見目麗しゅうて何より」

「柊こそ気合入ってるね。さすがわたしの弟、男前だわ」

「まあね」

 コツコツ靴音を響かせながら、柊は品定めでもするみたいに上から下まで視線を滑らせた。そして足を止めるのと同時に視線もわたしの顔の前で止め、僅かに眉を寄せる。

「……でもなんか、なんだろ。幸薄くない?」

 このめでたい日にそぐわない失礼極まりないセリフに、顔面を張り倒してやりたくなったけれどどうにか抑えた。仕方がない、そう思われる理由はわかっているんだ。

「まだ紅塗ってないの。だから幸薄そうに見えるんだよ。幸っていうか、メイクが薄いだけだけど」

「ああ、そっか、なるほど。でも口紅どうしたの? 塗らないで行く気?」

「違うよ。柊に塗ってもらおうと思って待ってたの」

 鏡の前に置いていた、愛用のそれを手に取った。二十歳になった日に初めて自分で買ってから、メーカーは一度も変えていない。鮮やかな発色の、真っ赤なルージュ。

 柊に渡すと、柊はほんの僅か手の中のそれを眺めた。「いいよ」と、答えは一言だった。

「まだ、女の武器は必要なんだね」

「当然。むしろこれからのが要るって」

「そう。じゃ、目、閉じてて」

 言われるがまま瞼を下ろした。ほんのひとつの呼吸のあとで、ねっとりした感触が唇の上をなぞっていく。舌べろの先の変な味にはもう慣れた。長い間、わたしはこうして、自分に鎧を纏って生きてきたから。そうして、これからも。

「はい、できた」

 目を開ける。鏡の向こうには、唇を真っ赤に飾ったひとりの女が立っていた。

 まだ子どもだったあの頃に見た顔とは違う、そこには居るのは確かにひとりで、凛と立つ大人の女。

「似合ってるね、椿。世界で一番綺麗だ」

 鏡の中、隣で柊が笑う。泣きそうになったけれど、涙はもう零さなかった。

 だって、ピンヒールを履いて真っ赤な口紅を塗った女は、この世で一番、強い生き物なのだから。

「行ってくるよ、柊」

「行ってらっしゃい、椿」

 だからわたしは誰より美しく、何より強かに。赤い唇で微笑んで、高いヒールで地面を蹴って、振り返らずに、歩いて行こう。

 どこまでも見えるよう、きみへ、大きく手を振って。



【ポラリス】おわり

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