宇宙すべてを繋いできみへ
もう、二度と会えないとわかっていた。
この命が消える瞬間、僕の側に、きみは居ない。
「あの星を、この手で掴むのが夢なの」
きみがよく言っていたこの言葉を、僕は今でも覚えている。
透明な黒い空に、少ない星が浮かぶたびに、きみは遠くのそれに向かい白く小さな手を伸ばしていた。
風に触れる指先は撫でるように宙を捕らえて、けれど開いた手のひらは空のまま。きみが掴もうとしたあの星は、きらきらと宇宙で光ったまま。
届く訳はないと分かっている。掴めるはずもないと分かっている。
それでもきみは手を伸ばし、心が叫ぶ夢を僕に語る。
年端もいかない子供が見るような幼稚な夢だった。
それを、すっかり美しくなったきみは、まるで遠くの誰かに聴かせるように僕に語るのだ。
「いつか、掴めるといいね」
「馬鹿じゃないの。掴めるわけないでしょう」
「きみが言ったんだよ。掴みたいって」
「ここに居たって、届く訳ないよ」
からからと、きみの笑い声に合わせて、宇宙と同じ色をした長い髪が揺れる。
もうこれまでに、何度も何度も繰り返した会話だ。
今さら呆れることも出来ずに、僕は風に乗ったきみの髪を目で追いかける。
きみの髪は、本当に、宇宙と同じ色だったから、僕にはまるできみが少しずつ宇宙に染まって、溶けてしまっているみたいに見えた。
何度も何度も繰り返した会話の後。
きみは、これまでに一度もしなかった、その続きを口にした。
「ねえ、だからわたし、星を掴みに行くことにする」
きみはあのとき、僕を見ていただろうか。
僕は、きみを見てはいなかった。
きみの髪が溶けていくあの透明な空を、僕はただ、何かを探すように見つめていた。
今の季節の空は、高くどこまでも透き通っている。
だけど僕らの町からじゃ、星はあまり多くは見えない。
「ねえ、わたしね、宇宙に行くのよ」
比喩でも希望でも、冗談でもなかった。
きみは僕に事実を告げた。
きみが、僕に出会う前から、ずっと抱き続けていた夢を叶えるために。
届くことのなかったあの星へ、触れる夢を叶えるために。
きみは、あの透明な空の彼方へと飛び立つことを決めた。
「きっともう、ここへは戻って来られない」
遥か。いつか月に辿り着いたアポロが旅した道のりなど、散歩がてらに思えるほど、遠く遠くの彼方まで。
果てのない宇宙のすべてを巡る、悠久に続く旅へ。
「戻って来られたとしても、きみは戻っては来ないでしょう」
「よく分かっているね。そのとおり。素晴らしい」
「馬鹿にしないで。きみのことは、何でも分かるよ」
小さく笑って瞼を閉じた。
不透明な暗闇に、星はひとつも浮かばない。
悲しくはなかった。
寂しくもなかった。
きみがいつかこの場所を離れ、あの遠い宇宙へ行ってしまうことは、きっと、きみよりも深くわかっていたから。
「ねえ、あなたも一緒に行かない?」
この永遠の宇宙の中、一瞬でもきみと出会えただけで、僕は幸せだった。
きみの白い小さな手は、僕の手に、僕のものとは違うぬくもりを与えてくれた。
「行かない」
「ほんとに?」
「僕はここを離れることは出来ないよ」
「わたしとは離れてしまうのに?」
「そうだね。僕はここで、きみのいる宇宙を眺めている」
「薄情なのね。知っていたけど」
「きみほどじゃない。僕を置いて宇宙に行くんだろ」
「まあね。わたしは薄情者だ」
きみは笑う。僕はやっと、きみを見つめる。
向き合ったきみは、驚くほどに綺麗で、だから僕も、きみと同じように、笑った。
もう、二度と会えないとわかっていた。
この命が消える瞬間、僕の側に、きみは居ない。
それでもいい。
側に居られなくても、側に居るから。
この宇宙のどこかできみが笑っているのなら、それだけで僕は、この場所で、立っていられる。
「きみに、お願いがある」
僕は宇宙の彼方に手を伸ばす。きみよりも大きな手のひらで、星を掴んでみようとしたけれど、やっぱりその手は空のまま。
何も掴めない手は、それでも、きみと分け合ったぬくもりを知っていた。
「決して、自分の信じた道に迷いを持たないで。真っ直ぐに、前だけを見て歩いていて」
「それは、約束?」
「約束じゃない。お願いだ。だから守らなくてもいいし、忘れてもいい」
「そんなこと言ったら、わたし本当に忘れちゃうよ。薄情だから」
「知ってる」
誰よりも、きみのことを知っている。僕の心にきみは居る。
だからもう、ひとりじゃない。
きみがいつでもここに居るから。
いつか寂しくなったら。いつか涙が出たら。
手のひらを眺めて、きみに触れたいと思ったら。
それがきみが側にいる証になる。
「元気でいてね。会えてよかった」
僕はここできみの背中を見送る。
だからきみは怖がらず、前だけ向いて、歩いて行って。
きみの思う場所へ。
どこまでもずっと。
「さよなら」
そのきみの声は、今まで聞いたどんな声よりも、凛として美しい響きだった。
さよならの瞬間に、それ以外の言葉はなかった。
それ以外の言葉は必要なかった。
きみは一度も振り向かず、僕の前から旅立っていった。
宇宙の彼方へ旅立つきみを、僕はここに立って、見えなくなっても見送っていた。
さよなら、と。
もう一度心で呟いたとき、きみはとっくに居なかったけれど。
さよなら、と声がした気がして、僕はそのときだけ、涙をこぼした。
・
あの日から毎日、僕はきみを捜して宇宙を見ている。
広い宇宙にはきみと見た星が浮かんでいるばかりできみの姿はいまだに見つけられないけれど、それでもきみの姿を追いかけて、僕は宇宙に声を送る。
気を付けて。時々は、思い出して。
僕のことを忘れたら、それでも構わないけれど。
もしもどこかで再び会えたら、そのときはまた声を掛けて。
僕はいつかのその日まで、きみのぬくもりを大事に掴んで、遠くの宇宙を見上げているから。
どうか、元気でと。
この宇宙のどこかに居るきみへ、この声が届くように。
いつまでも側に居る。きみに会えなくても、繋いだ手が離れても。
僕はきみの側に居る。
この声は、届くだろうか。
届けるよ、必ず。
宇宙すべてを、繋いできみへ。
【宇宙すべてを繋いできみへ】おわり
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