少年少女、幸福論

 例えば、わたしがお母さんの股の間から「おぎゃあ」と元気に産まれてきた瞬間から、今現在こうしてぬくぬく生きている間に、失くしてきたものと得てきたものを比べたら、一体どちらが多いんだろう。

 わたしが生きてきたこのたった十余年の間、そこそこ大変な事件やら出来事やらが起きてきたのだとは思うけど、まあ地球規模で見ればそう大して世界は変化していない。だがしかし。

 わたし規模で見ればその間の変化は多大なるもので、そりゃもうまさに白黒ザーザー分厚めテレビがデジタル薄型ハイビジョンに変化するのと同じくらいの変態を遂げてきたわけだ。

 その過程で、一体わたしは何を手に入れて、どんなものを失くしてきたのだろうと。

 考えてもそんなもんわかるわけないから、じゃあアバウトにどちらが多いのだろうと本気出して考えてみたけれど、それでも答えが出なくて、というか、得たもののほうが多い、と自信を持って言えなくて。

 そしてわたしはまだまだ底なしの水たまりのようなアラウンド思春期をうろうろしている若者で、つまりこれから先もさまざまな何かを経て大人へと変わっていくわけだ。

 その間で、さらに何を経て、そして何を失くし続けていくんだろうと。

 考えれば考えるほど、なんだか泣きそうになって、わたしはなぜだか家出した。

 自宅の自転車で走りだす、15の夜。


 家出と言ってもほんとに遠出なんてする度胸も金もないので、愛車のママチャリでやってきたのは小さい頃からよく遊んでいる近所の狭い公園だ。

 それって家出って言わないんじゃねえの、って言われたら確かにそうかもしれないけれど、でも文字通り家は出ているのでやっぱりこれは家出だろうと自分で自分に言い聞かせてみる。

 小さなジャングルジム。もとは真っ青だったはずだけど、半分くらいペンキが剥げて錆びた鉄の色をしている。

 いろんなところに頭をぶつけながら、そこの一番上にのぼる。街灯の少ない夜の公園は暗くて静かで、ひとっ子ひとりいやしない。

 いるのはわたしと、犬の散歩させてるおじいちゃんと、夜空にきらめくお星様だけ。

 なんかこういうところにいると、世界でたったひとりきりになってしまったような気になる。レジェンドだ、わたしはたったひとりの生き残り。

 まあ、んなわけないんだけど。犬の散歩させてるおじいちゃん、ふつうにいるし。

 だけどそんな気になって、無性に悲しくなる。

 わたしはこれからいろんなものを得るだろうけど、それ以上にたくさんのものを失くしていって。失くして失くしてこれでもかというほど失くして、忘れて、失くして、ほんとにすべてを失くしてしまうんじゃないかって。

 ああ、だめだ、ネガティブ。

 こんな気持ちになるのはひとりだからいけないんだ。自分で家出してこんな場所に来たくせに何言ってんだって感じだけどまさかこんなにも自分がネガティブになるとは思わなかったもので。

 でもよくよく考えればこんな夜中にひとりでジャングルジムなんてのぼってたらそりゃ思考もおかしくなるわ。

 そもそも最初からおかしくなけりゃこんな夜中にひとりでジャングルジムなんてのぼらない、

 あ、そうだ、電話しよう、誰かと繋がろう。

 そう思って上着のポケットに手を突っ込むけど、あそうだ、ケータイ落として失くしたんだった。

 もうどん底。泥沼。お星様の光すら届かない暗闇。

 ジャングルジムの上で器用に体育座りしてひざに顔を埋める。ああもうこのまま一万年くらい過ぎて化石になってなんかおしゃれな博物館とかに飾られたらいいのに。

 そしたらきっとわたしもう何も失わないでしょ、得るもんもないけど。

 いいんだ、それで。どうせわたしごとき得られるもんなんて悪玉コレステロールとかそんなもんだけだと思うし。

 もういいんだ、このまま眠らせて、わたしこのままジャングルジムの妖精になるから。

「なにしてんだ、お前」

 なんもしてねえよ、寝てんだよ、話しかけんな、妖精は人間と関わっちゃいけないって設定よく見るだろ。

 顔をひざにこれでもかというほど埋めてるせいで顔がみえないからどこの誰だかわかんないけど、わたしはひざを抱えたままその謎の誰かに向かって言う「お気になさらず」わたしって意外と礼儀正しい。

 だけどそれに応えるみたいに聞こえたのは大きなため息で、ついでにガヨンガヨンとジャングルジムが揺れる。

 揺れるのにその上で微動だにせず体育座りし続けるわたしって結構すごいやつな気がする。

「おい、カナ」

 すぐ近くで声がした。

 その声がわたしの名前を呼んだので、さすがに顔を上げる。

「あ、ヒロ」

「あ、じゃねえよばか」

「何してんのこんなところで」

「それはこっちのセリフだっつーの」

 そうなのか。

 だけどやっぱり何してんのこんなところで。まさか近所で良い子と評判のお前まで自宅の自転車で走りだし家出か。

「おばさんに、お前が散歩に出かけて帰らないって言われたから、捜しにきたんだよ」

 なーるほど。

 ヒロはジャングルジムの外側に足を掛けて、一番上を陣取るわたしと目線を合わせて立っていた。

 日頃ふわふわしている猫っ毛は、めずらしくしなしなしている。お風呂上がりらしい、湯冷めしなきゃいいけど。

「だいたいお前ケータイどうしたわけ? 全然繋がんないんだけど」

「失くした」

「はあ?」

 ヒロがほんとに呆れたような顔をするので蹴飛ばそうと思ったけどここがジャングルジムの上だと気付いて考え直した。

 しょうがないのでまたもそもそとひざを抱え直し、そこにこれでもかと顔を埋めてやる。

 もう貝になります、きれいな真珠作るすごいやつになります。

「カナ、おい、こんなところで寝るなよ、風邪ひくぞ」

「……ヒロこそ、お風呂上がりに外出たら風邪ひくぞ」

「俺はいいんだよ」

 よくないよ。

 お前が風邪ひいたら心配で夜も眠れやしない。

「なあ、どうしたんだよ、お前」

 どうもしてない、どうもしてないんだ。

 ただ、失くしてしまっただけなんだよ。


 人間のキャパは一定だ。

 何かを得るためには何かを失くさなければいけないし、そこは割り切ってわたしたちは大人になるわけだから、少しずつ少しずついろんなものを捨てていくことに、いちいち心を痛めてなんていられない。

 だってわたしたちはこれからうまくいけば70余年くらいは生きて行くわけで、忙しく過ごしてしわしわイケイケのおばあちゃんになって拾えるもんは拾いまくって捨てるもんは捨てまくってもうそろそろ落ち着いてもいいんじゃねえの、ってなるまで、そんなことを続けていかなくちゃいけないのだ。

 ただ、得るべきものがあるように、失くしてはいけないものって、あるんだと思う。

 それはひとそれぞれ、それぞれのどっか奥深くに潜んでいる大事なところで思っている、宝物みたいなもので。

 増えたり減ったりを繰り返す自分の人生の中身のなかで、だけどそれだけは決して微動だにしない特別なもので。

 ポケットに入れていたはずの500円玉とか、耳かきとか、テレビのリモコンとか、そんなのも失くしたらそこそこ困るしイライラもするけど、そういうものよりもずっとずっと、ぜったい何があったって、失くしたりしちゃいけないもの。

 大切なものだ。


「カナ?」

 伏せた頭に、ヒロの大きな手が被さる。よしよしと撫でるその温かさは、まだヒロの手がもみじみたいに小さかったときから、ずっと変わらない。

 ずっとずっと、変わらない。

「ヒロ……」

「ん?」

「ケータイ、なくした」

「さっき聞いた」

 顔を上げれば、目の前でヒロがわたしの顔を覗き込んでいて、少しだけ笑ったその顔があまりにも優しすぎたから、泣けてきた。

 ぼたぼたと目玉から落ちるそれを、ヒロの手が受け止める。

「なにお前、そんなにケータイなくしたことショックだったの?」

「……ちがう、ケータイは、どうでもいい」

「どうでもいいことはねえだろうけどさ」

 今のご時世なにがあるかわかんないから、連絡できるもんは大事だろ。ヒロがそう言うから「でもわたしが変なおじさんに連れていかれたら、ヒロが助けてくれるんでしょ」って言ったら、「俺はヒロだけどヒーローじゃない」ってつまらんシャレを返された。

 そのシャレはほんとにつまんなかったんだけど、でも、そんなこと言って、お前はわたしが困ったときは、いつだって助けてくれるんだよ。

 知ってる。

「ヒロ」

「なに」

「あのね、ケータイと一緒に」

「うん」

「ヒロからもらったお守りも、なくした」

 鼻水をすすれば、きょとんとした顔でヒロがわたしを見ている。

 暗がりで見ても可愛い顔してんだ、その上かっこいいんだ。

 みなさん見てください、この人がわたしの産まれたときから一緒にいる幼馴染で、最愛の人なのですよ、って言い触らしたくなるけど、そんなことしたら怒られるからわたしは言わない。

 それに、いつまでだって、わたしだけのものであってほしいから。

「なにそれ、もしかして、だからお前こんなに落ち込んでんの?」

「だって宝物だったんだもん。大事にしてたんだもん」

「お守りっつったって、あれ、たかがお菓子のおまけのカードだろ」

「たかがとか言うな! ヒロからもらったものだもん」

 その他もろもろのもんと一緒にされちゃ困るのだ。

 わたしがあれをどれだけ大事にしていたかわかるのか。

 まあ失くしたのもわたし自身なので、そう大きな声でも言えないんだけど。

 でも、本当に大切なものなんだ。

 小学生のとき、ヒロが「カナが困ったときはいつでも助けに行く。これはその証」って言ってくれた、外国のヒーローの絵が描かれたカード。

 わたしは感動して、それをお守りだと思ってずっと大事にしていた。ケータイのカバーのポケットのところに入れていつでも肌身離さず持ち歩いていたのだ。

 間違いなく、わたしにとって、かけがえない宝物だった。

 と思うわたしの気持ちなんてきっと毛ほどもわかっちゃいないのだろう。ヒロは、くしゃっとした顔で笑う(その笑い方がわたしは死ぬほど好きなのだ)。

「だからどうした。俺がちゃんとここにいれば、なにも問題ないだろ」

 ヒロが飛ぶみたいにしてジャングルジムから降りていく。

 いくらこのジャングルジムが小さいとは言え、一番上のここから地面までは少し距離があって、そこから手を振るヒロとわたしの距離も、当たり前だけど離れている。

 でも、たぶん、きっと、ぜったい。

 1万歩分離れたって、間に太平洋挟まれたって、何光年も遥か彼方に行ったって。わたしたちは、いつまでもそばにいるんだろう。

「おいで、カナ。帰るぞ」

「うん」

 ヒロみたいに飛ぶようにはむりだったけど、のそのそとジャングルジムから地面に降り立ったわたしの手を、ヒロの大きな手が包み込む。

 そのてのひらの温かさを感じながら、わたしはもう、何もかもを失くしてもいいやと思う。

 ずっとずっと、きみだけが、わたしのなかにあってくれたらそれでよくて。

 ずっとずっとわたしが、きみのなかにあれば、それでいい。

「お守りは、そうだな、またなんか用意してやるから」

「うん」

「だからもう泣くなよ」

「うん」

 ヒロが言うから、わたしは笑う。

 そしたらヒロもうれしそうに笑うもんだから、わたしもうれしくて、なんだか少し、泣きそうになった。



【少年少女、幸福論】おわり

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