後輩の記録(2) 認めがたい覚悟

 少し時間を遡って、一週間前。


 先輩が亡くなってから三日後に、旦那さんから電話がかかってきて、今後のことを教えてもらった。

 自分自身もまだ妻の死を受け止めきれていない。

 でも、自分は父親である以上立ち止まっているわけにはいかない。

 家族皆で少しずつ傷を癒しながらやっていくと。

 また、子どもたちが変に気を張ってしまわないようにするため、葬儀はできるだけ小規模に抑えて執り行うとのこと。



 この人は、本当にできた人だと改めて思う。流石は先輩の選んだ人だ。

 心配はしてしまうが、大丈夫と言える。それだけの安心感はある。



 ただ、お姉ちゃんのほうが少しばかり気がかりだそうだ。



 目を離すとふらふらっとどこかへ行こうとしているらしい。

 あのくらいの年齢の子なら特別おかしいことではないけれど、まるでどこかから誘われるように歩いていって、自分ではいけない場所まで消えて行ってしまいそうで怖いとのこと。

 私は父親ではあれど女の子を育てた経験、ましてや子育てだって初めてのことだ。

 どうしたらいいか分からないことだらけ。

 だから、時間があるときでいいから娘と話をしてほしいとお願いされた。

 女同士なら話せることもあるかもしれないからと。



 なので、この日。私はお姉ちゃんと、私の自宅で小さな女子会をしていた。

 私にできることは数えるほどもないけれど、ほんの少しでもいいから気が晴れてくれればと思っていた。

 しかし、事態は予想よりも深刻で、想定よりも前向きだった。



 この女子会で私がお姉ちゃんに驚かされたことが二つある。

 一つは、一人で私の家まで来たこと。

 元々は旦那さんが車で送り迎えをしてもらう予定だったのだが、自分で行くと言って聞かず、電車を乗り継いで、行き交う都会の人々に道を尋ねながらここまで無事に来たこと。

 先輩の自宅から私のアパートはそこまで遠いわけではないが、子どもが一人で行って帰るには出口が多かったり乗り換えがあったりと複雑だ。

 そこをお姉ちゃんは乗り換えも時間も自分で調べてきたそうだ。

 それだけでも大人の私は驚きだけど、お姉ちゃんは私をもっと驚かせる。







 お姉ちゃんは、先輩の、母親の死を理解していた。

 年端もいかず、小学校にも通う前の女の子が、母親の死を理解していた。

 一種の怖さが、私を襲った。

 僅か四歳の女の子は、現実から逃げない、悪夢を受け入れる覚悟をしたのだ。




――――――――――――




「ママはもう帰ってこないんだよって、赤ちゃんには言いたくない」



 台所でオレンジジュースをコップに注いでいるとき、不意にそんなことを言われた。

 丸いローテーブルに置いてあるドーナツには些か興味がないようで、視線は向いていても意識は向いていない。

 今、この子は頭の後ろの奥の、遠い方に自分がいる。





 ……なんと答えればいいのだろうか。




『そうだね』と同意するべきなのか、『そんなに気にしなくていいんだよ』と慰めるべきなのか。

 私も、二十数年生きてきて何度か葬式にも行ったし、死に際にも立ち会った。

 どんどん衰弱していく人間の老いと、命の枯れていく様は見てきた。

 大人になっても、死なれることにも慣れないし、死んだ後の心の気持ち悪さにも慣れない。



 それなのに、親が死んだ子どもに対してかける言葉なんて、思いつくわけない。

 毎日抱いてボロボロになるまで一緒だった人形と別れるよりも早く。転校で仲のいい友達と別れるよりも前に。愛するペットと別れるよりも前に。




 少女は、母親と別れたのだ。




 これから長い間、少女のお手本で憧れで、敵で味方で目標で身近で、最初に信頼できる他人で、家族でお母さんが、お姉ちゃんにはもういない。

 それは旦那さんにも。生まれたばかりの赤ちゃんにも。




「もうすっかりお姉ちゃんになったね。生まれたばかりの弟君のことを考えるなんて」




 適当と思われる言葉と表情で取り繕っても、動揺した心境はさらに震えていくばかり。

 ブレそう声の音を力ずくで引き延ばして、不安を見せないように演じる。





『大人が不安になれば、子どもはもっと不安になる。だから怒るとき以外は笑ってなきゃ』





 生前に先輩が、挨拶よりも大事にしていた言葉だ。

 だから、上手くできているかは分からないけど、私は今も、精いっぱい笑っているつもりだ。

 それが、この子の母親の教育方針で、愛し方だから。




「でも、赤ちゃんもパパもママが好きだから、ママにいてほしい」



 涙を見せず、口も曲げず、少女は堂々と、自分の答えを口にする。



「だから、ハナビはもうお姉ちゃんやめる。みんなのママになる」







 それは少女の。







 大きな覚悟は重過ぎる選択であり、捨ててしまった存在は振り返らないための勇気だった。






「ハナビちゃん。前向きなのはいいことだけれど、無理矢理変わることはしなくてもいいんだよ?」



 目を見て話す私の瞳を、少女も離さない。





「うん。もしママがいたらおねえさんといっしょのこと言うとおもう。でもママはもういないから。だからもう自分で決めないとダメだから。ハナビは自分でママになるって決めた」




 もう、如何したらいいか分からなかった。どうするのが最善か分からなかった。

 この子は勇敢だ。でも、勇敢だから。勇敢なせいで迷えなくなっている。

 この子はもう覆らない。覆せない。

 純粋な優しさが救いきれない選択をさせてしまった。

 改変不可能な選択の存在を教えてしまった。




「まだ、早いよ。だってハナビちゃんはまだ学校にも行ってないんだよ?」





 一人で電車を乗り継いで出かけることが出来ても、この子はまだ四歳だ。

 外で遊んで、お家でお絵描きをして、たくさんご飯を食べてたくさん眠る。

 それがこの子たちの『やるべきこと』のはずなのに......





「だからね、今日でお姉ちゃんはおしまいにする」




 少女は確かに進む。




「最後に、ママみたいにぎゅーってしてもいい」




 無言で頷いて、両の腕をだし、胴を開ける。

 ゆっくりと近づいて、ゆっくりと顔を埋めて、ゆっくりと手を回す。

 私は、先輩と同じお母さんではない。恋愛も、誰かの恋人も経験したこともない。

 いつもいつも、人の事ばっかり気にしては生きていない。

 自分の事なんて後回しで、助けてばっかりの人生は送れない。

 先輩みたいに胸はないし、どうあがいてもこの子の母親にはなれない。

 体温を共有する。そんなことしかできない私は、














 無力だ











「う、う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁアああ!!!!! アっ!!ッッッッ!! あッ! あッあああああああああああ!!!!!」












 服を握りしめて、少女は悲壮な未来を選んだ。

 大人になっても、子どもを先に経験していても助けられないことは山ほどある。

 武力による弾圧。巨大な組織ぐるみの陰謀。

 手の届かないところにある悲鳴。知りえない心境。

 覚悟を決めた者が諦めた、ありとあらゆる希望。

 この世には、救えないものが多すぎて、大きすぎる。

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