母親の断片(2)凄惨な記憶
「血圧下がってます! 輸血が足りません!」
病院内に荒々しい声が響く。
あちらこちらから看護師さんやら手術着を着た先生やらが駆け回っては、分娩室の中へと消えていく。
そして、その分娩室の中には、先輩がいる。
あれから時間が経って夕方。今晩の夕食の材料を買い終えて家に着いた途端、右ポケットに籠っていた携帯が鳴った。
先輩の番号から聞こえてきた声は、必死に焦りを噛み殺す、男性の声だった。
男性は、先輩の旦那さんだった。
分娩が始まった直後、先輩が大量に出血したという。
もしもの、『〝最悪〟』が起こる可能性があるから病院に来てくれとのことだった。
食材の入ったビニール袋が手から離れて、床とぶつかって鈍い音が鼓膜を揺らすより前に、私は家から飛び出していた。
気が気じゃなった。心臓がずっとバクバクして変な汗をかいて、頭の中が嫌なイメージばっかりで埋め尽くされて、それを認めまいとするのに必死だった。
息を荒げて、走って、全身を熱くしていないと、血の上った頭に全部持っていかれそうだった。
色んな感情と汗をかきながら病院に着くと、先輩の旦那さんは私に上の子を預けて、すぐに分娩室へと消えていった。
小さな女の子は、泣きそうなのをぐっと堪えて、私の服の裾を掴んでいた。
そうだよね。私も病院の人たちも、先輩の旦那さんも、みんな先輩を心配してる。
けど、この子が一番、姿の見えない、訳の分からない恐怖と戦ってる。
大人の私が、この子の前であたふたする訳にはいかない。
「大丈夫、お母さんもお父さんもあなたの弟君も、みんな元気に戻ってくるから!」
必死の強がりだった。それしか私には言えなかった。できなかった。
「だから、怖がりな私と、一緒に待っていてくれる?」
こくんとうなずいてくれた彼女は、きっと先輩と同じ強い子だ。
だからきっと大丈夫。お姉ちゃんがこんなに強い子なんだから。
この子の弟も、お母さんも、きっと強いはずだから。
ぎゅっと握られた手を、私もぎゅっと握り返す。
小さくて、細い手はとても暖かくて、勇気で一杯だった。
大丈夫。大丈夫。
そうやって、私たちは待ち続けた。
先輩が死人となって、分娩室から出てくる時まで。
・ ・ ・ ・ ・
深夜。日付が変わるか変わらないかの折、部屋の使用中を示す明かりが消える。
お姉ちゃんは疲れ切って、私の膝に頭を預けて寝てしまっている。
分娩室から最初に出てきたのは、ヨレヨレの手術着を着た、男の執刀医らしき人。
その後ろに、女性の看護師さんと助産師さんが数人。
そして、下を向いて、前髪を持ち上げながら出てくる旦那さん。
こちらに気づくと、ありがとうございます。と一瞥をして旦那さんは私の膝で寝ていたお姉ちゃんを抱き上げて、ぎゅっと抱きしめる。
まるで、生きている存在を確かめるように。
『無事に、お腹の子は産まれてきました。』
背中越しの声は、もう止められない感情の波を必死に理性の堤防内で留めている。
『妻は、その子を産んで、命を終えました』
最悪は、前振りなく訪れて、何事もなく、事実を残して去っていく。
まだ幼いこの子たちには、残酷すぎる別れだ。
『急に呼び出しておいてすいませんが、今日は休ませて下さい。この子にどう伝えるか、考えないといけませんから』
旦那さんは、こんな時も必死に笑っている。
感情を表に出すのが好きではない人だと、以前先輩から聞いた。
でも、出さないだけ。人よりも感情的で優しさと愛情でいっぱいの人だと。
旦那さんの話をすると、先輩はどんな思いでも笑って話す人だった。
愛される旦那さんも、愛する先輩もどっちも綺麗で、その心は昨日も今日も、明日になっても尊いものだった。
産まれてきた子と、人が亡くなった時に書かなければいけない書類の説明を看護師さんから聞いて、旦那さんとお姉ちゃんは病院を後にした。
二人の乗ったタクシーが発進するのを見送って、私は小さな売店の前にあるロビーソファで、抜けきらない緊張を抱えたまま、項垂れる。
先輩の二人目のお子さんが無事に産まれた。そして先輩は、その子を産んで、自分は死んだ。
先輩は、
死んだ
本当に? だって、死んだところ私まだ見てない。
今日だって、お見舞いに来たときはあんなに元気だった。
顔色も良くて食欲もあって、いつもみたいに私と談笑してた。
先輩が恵まれてるって話もした。
人生で大事なものは全部あったって感謝してた。
今までに、先輩は感謝してた。自分の人生を、誰かのおかげって自慢してた。
私にも、旦那さんにも、子供たちにも先輩は感謝してた。
恩返しがしたいって。
相変らずお人好しだってからかったら、ちょっと恥ずかしそうで。
でも嬉しそうに笑ってた。楽しそうに笑ってた。
あんなに綺麗な人が、どうして。
「せんぱい・・・・・・なんで、しんじゃうんですか・・・・・・」
なんで、もうお見舞いに来れなくしてしまってんですか。
なんで、おめでとうございますって言わせてくれなかったんですか。
なんで、生まれた子を抱っこさせてくださいって、言わせてくれなかったんですか。
なんで、出産祝いを手渡しさせてくれなかったんですか。
なんで、私にもっと、ありがとうって、言わせてくれないんですか。
ねぇ、先輩。あなたはどうして。
『死んでしまったのですか』
―――――――――――――
「当然の結末を迎えただけなのに。何をそんなに悲しんでいるんですか?」
聞き慣れない声の主は、病院では見慣れない真っ黒な格好をした若い男性だ。
髪がもじゃもじゃしていてスラっと背が高い。
にこにこと笑っているけど、笑顔らしさがない。
ただ単に笑顔という仮面が張り付いただけ。そんな風に見える。
「あれ、あんまり驚きませんね。先輩から聞いた話と違うな~。まぁ、あの人適当で有名だし。しょうがないか~」
先輩? その先輩は、どの先輩の事?
「あぁ、その先輩はあなたの先輩じゃないですよ」
こちらの考えていることを見透かしたように完璧な答えを告げて、真っ黒な彼は不気味に笑い続ける。
「あの、どちら様ですか?」
思考が止まる理由は二つ。
1. 何かに焦って頭の中が真っ白のなる。
2. 考え込みすぎて堂々巡りに陥る。
今回の私の場合は後者だ。
そして、思考が止まった時の出るセリフは、大人になったら勝手に話せるようになってしまうセリフだ。
一般的な言い方をするなら、社交辞令と呼ぶのだろうか。
「おっと、これはこれは失礼。私は死神。あなたをお迎えに上がりました」
事件というのは必ず後付けだ。調べて証拠を見つけて、人為的と判断されて初めて事件と呼ばれる。
私が死神と出会ったのは、少なくとも事故ではない。
だが、事件でもない。
なぜなら、そこに誰かが入り込む隙も暇もタイミングもなかったから。
だから別の言い方をしよう。事件でも事故でもない偶然の概念。
それは、轍だ。
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