雨、あるいは黒猫との記憶

椋畏泪

1

 暗い、夜。

 かなり長い間降り続く雨の中を私は歩いている。昨日から降り続いていると、先刻までは思っていたが、よくよく考えてみると、一昨日は家から一歩も外に出ていないので、『一昨日から降り続いた雨』というのが本当のところなのかもしれない。

 ともあれ、私は自宅付近の住宅街を、『月明かり』などという洒落っ気のある情緒的な光ではなく、ありふれた街灯の明かりを頼りに歩を進めるのだ。

 行く先など決めずに、家から持って出てきたのはビニール傘と、昼間にコンビニで弁当を買ったときに貰った釣り銭、二百三十円と少し。飲み物くらいなら買えるが、他に使い道も思い付かない程度の、金額。しかし、何かを買いに出たというわけでもないので、別段困るということもなかった。ビニール傘に雨粒が当たって弾ける音だけを楽しむという風な、気取った、自分自身の行動に酔いしれる夜にしてやろうと、日々の鬱憤を背負って繰り出したは良いが、深夜にも関わらず、存外車通りが多く、酔いしれるどころか跳ねる泥を避けることにのみ精神をすり減らしてしまうのは、本末転倒も良いところであった。いつものリュックを背負って家を出るか少々迷ったので、結果論であるが過去の自分を褒めてやりたい気分にもなる。そういえば、最近は誰かに褒められることも、感謝されることも極端に減ってしまったと思うと同時に、そんな自分の人間性の小ささが、どうしようもなく許せなくなってくる。

 二転三転する自分の中での考えが、出来の悪いB級映画の進行のようで、少々愉快になってきた。まだまだこの国が『夜である時間』は長い。そう思うと、少しではあるが希望が湧いてくる。

 歩みを進めていくと、幸か不幸か、雨は勢いを増すことも、反対に勢いを落とすこともしていないことに気がついた。家を出てどのくらい経過したか、その明確な時間はスマホを置いてきて近くに時間を確認できるものもないので、よく分からない。体感時間では一時間にはなっていない筈であるから、日の出はまだ先だと思う。

「つまらない」

 僕は誰にとはなく、無意識に呟いていた。最近、家でテレビを見ながら口にしてしまう、口癖。「何がそんなにつまらないのか?」と問われても、僕は明確に答えることができない。どんな時でも、心のどこかには「つまらない」と呟く冷めた自分がいる。友人と話している時も、飲み会の時でも、何時も冷めた僕自身が超越者の如き顔をして、笑っている僕を嘲笑している。

 と、電柱に傘が引っかかる。うざったいと思う反面、ようやく立ち止まることが出来たと、ありがたくも感じた。無理やり押し通すのではなく、優しく引いてやると、簡単に傘と電柱の問題は解消された。そのまま傘を持ち直すと、目の前を濡れた猫が通った。夜に溶けた妖怪のように、翠の双眸は僕を酷く釘付けにした。この天気のため、猫が濡れているのは当然ではあるのだが、それでも『濡れている黒猫』という存在に対して意識をさらに強く引っ張られる感覚がした。

 その黒い猫の毛が雨に濡れ、黒い色はいっそう深みを増し、周囲の夜の闇と調和して、漆黒の輝きを放ち、私の視界を覆い尽くしているかのように感じられ、それが不思議と心地よかった。その黒猫はそのまま私の目の前を通り過ぎる。なんのことはない、黒猫にとって私は、私にとっての黒猫ほど興味を惹かれる存在では無かっただけのことだ。去っていく黒猫の背を私は目で追おうとしたが、すぐに路地の闇へと溶けて、見えなくなってしまった。よほど見とれていたのか、傘の位置がずれてしまったらしく、私の右肩がじんわりと雨に濡れていた。

 やや頬にかかった雨は、心地良くスルスルとは流れてくれず、無精髭に引っ掛かりながら、少しずつ下ろうとしていた。こそばゆくなって、その雨粒を服の裾で拭い、帰ったら髭を剃ろうと思った。

 思い立ったことを実行しようと私は来た道を引き返し再び歩き始めた。道中にあるコンビニであたたかいコーヒーを買おうかと思い、ポケットに手を入れ、小銭を全て取り出してみると、百円玉三枚、十円玉二枚、一円玉四枚の、三百二十四円であった。どうやらお釣りの金額を勘違いしていたようだ。しかし、元思っていた金額よりも多く、少し得をしたような気がして、雨の日なのに清々しい気分であった。ビニール傘の骨が一本折れていることに今更ながら気がついたが、それもどうでも良い事と思えた。

 黒猫にとって価値のない僕。そんな今日の感情すら、眠ってしまえば忘れてしまうだろうと、この時の私は何故だか分からないが、確信していた。

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雨、あるいは黒猫との記憶 椋畏泪 @ndwl_2nd

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