おつかれのようですね 『手乗り怪獣「みにた」と私』
【作品情報】
『手乗り怪獣「みにた」と私』 作者 辰井圭斗
https://kakuyomu.jp/works/16817330649162966779
【紹介文】
なし
読了後、『しねばいいのに』というタイトルのボカロ曲を思い出した。殺意はない。ただ、自身のあずかり知らぬところでしねばいいのに。そういった願いは、全肯定とまでは行かずともそれなりに共感できるものとして広く受け入れられがちであるように思う。
個人であれ組織であれ、特定の対象に危害を加えたいという欲求は、捉えようによっては非常にポジティブである。障害となるものを排除して、視界をクリアにしたいと考えているわけだから、前向きか後ろ向きかで云えば前者だろう。怒りの感情が問題解決能力を高めるとは、つまりそういうことなのだと思う。
しかし、自身の行動が大前提とされるそれを達成するためには、当然エネルギー消費が伴う。そんな余力はない。加えて、危害を加える対象を絞るという行いも絞っているうちに一体この時間は何なんだと我に返ってしまったり、そんな自分を陰気臭いと判じて厭になってしまったり、絞り終えた時点でもはや復讐心より眠気が勝る程度の満足感が得られてしまっていたりする。
自分ではない何かしらが、いっそ全部を壮大に破壊しつくしてくれないものか──。
とどのつまり、「何もかも滅茶苦茶にしてやるぜ~」というエネルギッシュなそれではなく、生きるのがなんだかしんどい、人生に手詰まりを感じるとき、僕らは「怪獣」を求めるのかもしれないなぁなどと思った。人はみな心にいつ怪獣になるともしれない「みにた」を飼っている(書いていて思ったが「怪獣飼ってた人を責めるマン」の中には、現れたみにたにゴキジェット吹きかけて、普通を選んだ人もいるかもしれない)。
結局、みにたと"私"は「言葉が通じてるんだが通じてないんだか、よく分からなかった」関係に終わるのだけれど、個人的にこれはそうドライな展開とも思えない。ここでみにたと"私"が通じ合っていると明らかになれば、必然みにたは"私"のためを思ってこの惨状を招いたのではないかという懸念がより色濃くなってしまうので。だから、通じてるんだか通じてないんだか、よく分からないくらいがきっとやさしい。
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