答え合わせ

 海にざぶんと手を浸す。これといって掬い上げてやろうという気概もなかったが、両の掌で椀をつくれば指の端に引っかかってしまうものがいくつかある。

 

 私は小説にしろ音楽にしろ、誰かの救いになる作品なんて存在しないと思っている質なのだけれど、ふとした拍子「あれ、どんな話だったっけ?」と。

 人を何かしらの行動に結びつける、現世に繋ぎ止める文章の集合はあり得るし、あり得ていいと思っているので。

 別段これを書いている私に"そういった念慮"は(今のところ)ないが、「ふと読み返したくなる」というがあってもいいなと思った。


 自論だし異論も認めるが、人はなりたいものになっても幸せにはなれない。

 だからなのか、あれは言葉にして良かったのかと偶に思う。


 ──それを踏まえた上で、私は当の作者に××になってほしいと思っている。


 これもまた呪いのひとつとなりはしないだろうか。


 もし、あなたが読者の存在に活路を見出す類の書き手であれたなら、これから記すことはもっと単純明快でいい。というより、そんな書き手であれたなら、そもそもこんなものあなたは必要としていない。きっと、欲していない。

 もしかしたら、あなたはそこに括られることを拒むかもしれないが、どうかそういう一面についてはもう受け容れてしまってほしい。

 止まるかもではなく、止まるのだ。何か──そういうまじないの一つでも、お守りの一つでもあった方がいい。

 薄氷の上。こんなもの一つの視界に収まっていいではないだろうと思いながら、それでも目を背けることだけはできないでいる。「君を死なせない」という響きは秀逸だ。

 だって、こんなものせいぜい死なせない程度の効力しかあるまい。

 

 ──だって、作家になったところで多分〈それ〉は良くならない。


 魔法は、もうとっくに滅んでしまった。

「でも、あなたも私も生き残るし、生きていくのだ」

 魔法はもうどこにもないと知りながら、それでも──拒絶を露わにするあなたも、差し出された手を取る気がないあなたも、手に縋る振りをして引きずり込もうとする声さえも。

 連れ出す魔法を探している。

 薄氷の上。こんなもの一つの視界に収まっていい画ではないだろうと思いながら、それでもあなたのもとからは離れることができないでいる。


「結局、これぐらいしか思いつかなくて」

 砂浜と海。僕にとっての変わらない象徴。

 けれど、改めて見ると妙な感じがした。空が薄らオレンジ色に染まっているのに対し、海はそこまで夕映えしていなかった。昼間見るのと大差ない青磁の肌みたいな色をして、山肌むき出しの島を浮かべた、良くも悪くも日本の海だった。


 こんな──色だっただろうか。


 空も海も、もっと鈍いオレンジ色ではなかっただろうか。

「美醜を語るって難しいんですよね。好き嫌いを語るのは簡単なんですけど。人間の美醜ってどうしてもその人がこれまで見聞きしてきたことに左右されるじゃないですか。たとえば──ほら、一回腰を痛めて病院のお世話になると、途端整骨院や整形外科の類が目につくみたいな。人間は同じものを見ているようで、見たいものだけを見ているので。生き方によって、同じ景色でも注目する箇所が違い過ぎる。百聞は一見に如かずなんて云いますけど、それでも百回聞いた人にしか解らない一見の価値ってあるよねみたいな」

 ちょっと──話が逸れましたかね。

「だから、私は美しくないなんて言われちゃうと、正直あなたはそう思うんですねとしか云えないのですよ」


 論破なるお言葉がありますが、あれはこと一対一の場合、中々起こり得ぬ決着でして。というのも、片方が頑なに「自分は負かされていない」と主張し続ける限りは、決着しませんので。あれはぱっと見で「何だかこっちが勝ってそうで、こっちが負けてそう」と判断する聴衆がいて、はじめて起こり得る"状況"なのです。


「美しくあろうとして、美しいものになどなれませんでしたね──というあなたの結びをいやいやあなたは美しいですよで覆そうだなんて、それこそ魔法使いでもなければ土台無理な話で」

 此の人は、魔法使いではなかったのだけれど。

「ただ、ここまで絞られてくるとことって限られてきちゃうんですよね。それはもう清々しいくらい」

 ──美しくないものは嫌いだと言って、美しくあろうとして、美しいものになどなれませんでしたね。

 それでも。


「俺は、君の小説が好きだよ」


 海風が吹いた。

 これはもうここに宛てるほかないのではないかと、ある種の思し召しめいたものに誘われるがまま、ぽつねんとここに記す。

「これからさ、全部これから」

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