それからの彼ら
コバヤシくんからメールが届いた。映画製作の準備が順調に進み、近く、実際に撮影が開始されるという連絡だった。私たちへの感謝の言葉も、しつこいくらいに盛り込まれている。
隣に座っていたアキラに、「撮影始まるって!」と言いながらスマホの画面を向けると、「そのメール、私にも届いているから」と苦笑しながら、アキラもスマホの画面を見せるようにした。メールをよく確認すると、確かに宛先は私とアキラの二人になっていた。
「それよりここ。読んだ?」
アキラがメールをスクロールし、最後の段落を見せる。私はまだそこまで読んでいなかったので、アキラのスマホを覗き込んで、アキラが示す箇所を読んだ。
読んで、アキラの顔を見上げる。アキラは、口角を少しだけ上げた。
後日、コバヤシくんと約束をしたブックカフェに、アキラと二人で赴くと、そこにはコバヤシくん、イズミくん、ソウタくんと、会ったことのない男性が3人、集まっていた。
コバヤシくんが、「ご、ご無沙汰してます……」と言いながら、空いた2席を、私たちに勧めた。
席に着くと、コバヤシくんが、私たちの知らない3人を紹介してくれた。脚本家と、主演俳優と、それから。
「こ、この人が、その、問題の、解説員役の、み、ミナセさん、です」
「問題の、って、何それ?」
ミナセさんが軽くツッコミを入れてから、私たちの方を見て、「よろしくね」と、爽やかに笑った。
慌てて隣に座るアキラの顔を見ると、案の定、少し惚けたような顔をしていた。
やっぱり! アキラの好みのタイプど真ん中だと思ったんだよ! 心の中で頭を抱えて叫んだ。
コバヤシくんが、「そ、それで、メールでも、お、お伝え、したんですが……」と切り出したので、私は勢いよく立ち上がりながら、「はいはいはいはいはい! 私! 私がやります!」と、手を高く挙げた。アキラが、「え?」と、驚いたように私を見上げた。
「ハルカ、演技なんて恥ずかしくてできないって、言ってたじゃん。今日は二人で話を聞いて、誰かやってくれそうな人を探して紹介しようって……」
「気が! 気が変わったの!」
アキラの言う通りだったけど、慌てて否定する。
アキラに任せるわけにはいかないと、必死だった。アキラが、好みのタイプど真ん中の人と、映画に出演だなんて! しかもミナセさん演じる解説員に恋心を抱く役だなんて、絶対、やらせるわけにはいかない!
「ハルカ先輩って、面食いなんですね」
マツダさんが、ストローを咥えたまま、人の気も知らないでのんびりと言ったので、思わず睨み付けてしまうと、ビクッとしてから小さくなってしまった。
私たちが注文していたカフェラテを持ってきた、カフェの店長の女性が、マツダさんの頭にごく軽い手刀を入れて、「そういうとこやぞ、マツダくん」と言った。
幸い、私達に打診された役は、私達のどちらもイメージからは大きく外れていないということで、勢いよく立候補した私が、その役を演じることになった。
「これが、だ、台本で、こっちが、撮影、スケジュール、です。ハルカさんに、え、演じてもらう役が……」
コバヤシくんが丁寧に説明をしてくれる。1回の登場時間は長くはないが、複数回登場することもあり、撮影は数日にわたると説明された。スケジュール表の、私が撮影に参加する日に蛍光ペンでマーキングがなされた。幸い、大学は長い春休みに突入していたし、バイトの予定とも、うまく被らずに済みそうだった。
私の横で、一緒に説明を聞いていたアキラが、「面白そうだから、見学に行こうかな」とポツリと口にして、コバヤシくんが、「ぜ、是非どう……」と言いかけたのを、「ダメ!」と遮るようにして言った。
アキラが意外そうな顔をして、「え、ダメ? どうして?」と聞いたので、「……知り合いが、見てると、恥ずかしくて、集中できない……かもしれない」と、我ながら苦し紛れに言った。それでもアキラは、「そっかぁ」と、残念そうだが納得したようだったので、ほっと胸を撫で下ろした。
店長の女性が小さな声で「マツダくん」と呼び、唇のチャックを閉めるジェスチャーをして見せて、マツダさんが開きかけの口をそっと閉じたのが、視界の端に見えた。
「これで主要な出演者は決まったんですけど、他にも何人か、台詞は少ないけど、人手が必要で……」
イズミくんの言葉に、「分かった。大学で声をかけてみようか」と、アキラが先に答えると、「ありがとうございます」と、イズミくんが、コバヤシくんとソウタくんも、深々と頭を下げた。
一通り説明が終わった後、イズミくんからの、「今からロケハンに行くんですけど、もし良かったら来ますか?」という提案があり、お断りしようとしたところ、「行く行く!」とアキラに喰い気味に言われた。しまった、先を越された。
恨みがましくアキラを見やると、「今日はまだ演技しないんだし、良いでしょ?」と笑顔で言われてしまい、そう言われると頷くしかなかった。
総勢8人で、ぞろぞろと店を出る。店長の女性が、「一気に静かになってまうわぁ」と、大袈裟に悲しげな顔をして見せた。
ソウタくんが、外に繋いでいた犬のリードを手に取った。犬は立ち上がってから大きく前後に伸びをした。
「お店に入るときから気になってたけど、ソウタくんの犬だったんだ?」と聞くと、ソウタくんは頷きながら、「チャタロウっていいます」と教えてくれた。
「時々連れてきてるけど、店の前で留守番ばかりで、ふてくされてないのかな」と、マツダさんが言うと、ソウタくんは、「そうかも……」と眉尻を下げた。
そこでミナセさんが、「でも、これから行く場所なら、チャタロウくんも喜ぶんじゃないかな」とフォローを入れた。
「そういえば、これからどこに行くんですか?」と、アキラがミナセさんに質問する。
「ほら、近くに川があるでしょ? その河川敷だって」
「へえ、あそこも登場するんですか。本当にこの辺りだけを舞台にするんですね」
「そうそう。コバヤシくんたちが、この辺りをたくさん見て回って、色々と候補になる場所を探してきてくれたらしいよ」
「そうなんですか。私もあの川には行ったことあるけど、全然普通の川だから、そういう風に見たことも考えたこともありませんでした」
「僕もそうだよ」
ミナセさんが相変わらずの爽やかスマイルで言って、アキラの頬が少しだけ赤くなった……気がした。思わずムッとして、大して広くはなかった二人の間に、割って入るようにした。アキラは少し驚いていた。
「……ミナセさんって、なんのお仕事をしているんですか」
不機嫌さを隠さずに聞くと、ミナセさんは微塵も気にした風もなく、「ほら、あっちの方に科学館があるの知ってる? あそこの解説員」と、答えてくれた。よし、あそこの科学館に、アキラを近づけないように気を付けよう、と、密かに決意する。
そんな私の様子を見ていたアキラが、私の袖を軽く引っ張り、私をミナセさんから離すようにした。ミナセさんから距離を取ってから、私の耳に口許を近づけ、小さな声で言った。
「ハルカ、まさかミナセさんのこと、気になってる?」
思わず、「ちゃうわ!」と、似非関西弁が飛び出してしまった私を、許してほしい。
*****
脚本は書き終わっていたので、俺が付いていく意味はないかと思ったけど、コバヤシくんに、「お、お時間が、あれば、い、一緒に、来て、もらえますか……? マツダさんの、中の、い、イメージと、かけ離れていないか、見てもらいたく……」と言われ、特に帰ったところで急いでやるべきことがある訳でもないので、散歩がてら付いていくことにした。
目的の河川敷に向かって土手の上を歩く皆の後ろを、のんびりと歩いていると、ふとソウタくんが振り返って立ち止まり、俺が追い付くのを待つようにした。追い付いたところで、横に並んで歩き始める。
「マツダさん。聞きたいことがあるんですけど……」
横に並んで歩きながら、ソウタくんが言った。全く心当たりがなかったので、頭の中に疑問符を浮かべながら、「何?」と聞き返す。
「あの、違ったら、ごめんなさい。でも、気になって」
ソウタくんが、モジモジと下を見ながら続ける。
「……あの、脚本書いたのって、マツダさんなんですよね?」
思わず、また盗作疑惑か、と、心の中に黒い塊が渦巻いた。もはやトラウマに近い。
まあ待て、相手は小学生だぞ、落ち着け、と自分に何度も言い聞かせてから、「……なんで、そう思ったの?」と、聞き返した。
努めて冷静に言葉にしたつもりだったのに、ソウタくんは、「そ、そうじゃなくて」と、慌てて首を振った。
「その、最初に読んだお話より、今回の方が、すごく、上手だと思って……短期間で、こんなに変わるなんて、すごいなと思って……」
進む先を見つめて、「……もしかして、僕たちみたいに、アドバイザーがいるのかな、って思って」と、申し訳なさそうな顔をしながら言った。
そこでようやく、合点がいった。安堵の溜め息をつきながら、告げた。
「ああ、そういうことね。そういう意味でなら……うん、いたね、アドバイザーが」
「そのアドバイザーって、まさか」
「そのまさか。ヨシノだよ」
脚本執筆を引き受けた晩、久しぶりにヨシノに会って、一応の和解をした後、メールの意味を聞かれたので、映画の脚本を頼まれたこと、それを引き受けたこと、ヨシノも候補には挙がっていたけど、先に声が掛かったのは自分だということを、やや胸を張って説明した。
ヨシノは、「お前がそういうの引き受けるなんて、なんか意外だな」と、驚いたように言った。引き受けなければ次はヨシノに依頼が行くのだと思うと、悔しくて、負けたくなくて、半分意地のようなもので引き受けたのだ、とは、言わなかった。
「でも、大丈夫なん? お前、自分の作品を顔見知りに読まれるのも、感想を言われるのも、苦手だろ」
さすが、ヨシノは俺のことをよく分かっている。
「四の五の言ってらんないだろ。もう引き受けたんだから」
ポテトをつまみながら、ぼそぼそと返した。
「俺が、先に、読もうか」
ヨシノが、少しだけ遠慮がちに提案した。
「俺なら、今までもお前の小説読んできたし、そんなに抵抗ないだろ」
確かに、顔見知りの中で、小説投稿サイトでの俺のアカウントを知っているのは、ヨシノだけだ。”隠れガチ”だと知られたくなくて、サークル仲間にすら教えていない。サークル仲間は、サークルの冊子に載せた作品でしか、俺の文章を知らない。
今までの、自由気ままな制作とは違う。〆切は絶対に守らないといけないし、今までのように、クライマックス近くで全部消したくなってしまっても、そういう訳にはいかない。挑戦したことどころか読んだことすらない、映画の脚本という未知の分野で、商店街を舞台にするなどの制約も多い。失敗は許されない。
当然、書いた脚本の第一稿を読んでもらうのを、そして感想や指摘をもらうのを、恥ずかしがっている場合でもない。
「……もう、盗作だなんて、言わないなら」
嫌味を言うと、ヨシノは苦笑いして、「言わない。約束する」と頷いた。性格が悪いのは自覚しているが、こちらはこちらで、相当に悩んだし苦しんだので、少しくらい、良いだろう。早く、あの時のことを、笑い話として話せる日が来ることを祈った。
正直、一人で書くのは不安だ。ヨシノがいれば、自信がなくなって筆が止まってしまっても、書いた原稿を破り捨てたくなっても、重圧から逃げ出したくなっても、背中をバシンと叩いて、俺の目を覚まさせてくれるんじゃないか、という気がした。
ヨシノが、「エンドロールに、Special Thanks to ヨシノ、って載せるの、忘れんなよ」と、おどけて言った。
「分かった。ただし、フォントは8ptな」と返すと、「ちっさ! 誰が読めるんだよそれ!」と、ヨシノがツッコんだ。二人で声を合わせて笑った。
長い回想から、川沿いの土手に帰ってくる。横を歩くソウタくんに、「……ヨシノに見てもらって、こんなに良くなるんだったら、最初から、ヨシノに頼めば良かったな」と、言った。我ながら、呆れるほど、いじけた性格だと思う。しかも、小学生相手に。
俺と対照的に、ソウタくんは明るい顔で首を振った。
「全然! むしろ、最強だと思います!」
「最強?」
「脚本を頼みたい人、1位と2位に、力を合わせて書いてもらったってことだから。最強です!」
「最強かあ」
ソウタくんの、珍しく小学生らしい表現に、思わず笑ってしまう。
お互い切磋琢磨しあうような、ライバル同士だった二人が、手を組んだら、最強。よくある少年漫画みたいだけど、これはこれで、良いかもしれないな、と今は思える。
12ptくらいにしてやっても良いかな、と、心の中で呟いた。
*****
河川敷に到着すると、オオシマさんはすでに来ていて、僕たちに気づくと、「こっちこっち」と、大きく手を振った。動きやすそうな格好をして、帽子を被っている。今日も、ウォーキングをしてきた帰りなのかもしれない。
駆け寄って、「わ、わざわざすみません……」と言うと、「気にしないで良いよ。ここは帰り道だから」と笑った。
オオシマさんが、着けていたウエストポーチを背中側からお腹の方へと回して、中から取り出したものを、「はい、これ」と、イズミくんへと差し出した。イズミくんが、「ありがとうございます! お借りします」と言って、両手でそれを受け取った。
受け取ったのは、ホームビデオカメラだ。ハンディサイズだけど、少し古いものなのか、最近のものに比べれると、やや大きくてゴツい。
「それを使って撮るの?」
ミナセさんが、早速カメラの電源を入れて操作を始めているイズミくんの手元を覗き込むようにしながら聞く。
「い、いえ、これで撮るか、イズミくんのiPhoneで撮るかは、ま、まだ、決めてなくて……」
イズミくんが、「それで今日、試しに撮ってみようって話になって」と、僕の後を引き継いだ。
今日の天気は快晴で、綺麗な夕焼けが明日も晴れることを強く主張していた。この河原での撮影はもう少しだけ先になるけど、その日も晴れると良いな、と考えた。狙うのは夕方なので、時間帯は丁度良い。
撮影時、イズミくんは助監督兼カメラマン、僕は、一応、監督、ということになっている。
早速、撮影当日をイメージして、オオモリくんをカメラに収めてみたい。ビデオカメラとiPhoneの両方で撮ってみて、比較をしてみたい。実際に、役者と一緒に撮影現場に立つと、なんだかそわそわしてきた。
一人でカメラを弄って操作方法の確認を続けているイズミくんのそばで、オオモリくんは夕陽を反射する川面を、ぼうっと眺めていた。
そんなオオモリくんを少し離れたところから眺めながら、オオモリくんへの頼み方について少し迷っていると、僕の肩をちょいちょいと突かれた。振り向くと、オオシマさんだった。
「初めてオオモリくんに会った時から思ってたんだけど、なんだかコバヤシくんって、オオモリくんに遠慮がちだよね」
「そそ、そ、そんなことないですよ」
突然のことに、動揺してしまう。オオシマさんは、「コバヤシくんは監督なんだから、もっと偉そうにすればいいのに」と笑った。
「ぼ、僕なんかが、偉そうに、なんて、お、おこま、おこがましい、ですよ……」
「その謙虚さも、コバヤシくんの良いところだけどね」
オオシマさんが、ふと、「そういえば、コバヤシくんって、好きな映画監督とかいるの?」と聞いた。少し虚を突かれながらも、「そ、そうですね……特に、好きなのは……」と、目下一番尊敬している映画監督の名を挙げた。
「ああ、あの人ね。良いよね。僕も好きだよ。じゃあ、去年公開された最新作も観た?」
「も、もちろん、観ました」
「主演俳優の名前、分かる?」
「え? あ、はい」
名前を告げると、オオシマさんは調子はそのままに、「君の尊敬している監督が、彼に、ペコペコしている様子を想像してみて。どう?」
「……」
……なんだか、嫌な気分になった。オオシマさんが、ね?、と同意を求めた。
「コバヤシくんの謙虚なところ、すごく良いと思うから、それは普段のコバヤシくんの長所ってことで、さ。監督スイッチを入れた瞬間、もう少しだけ、偉ぶってみたら?」
「監督スイッチ……」
「そうそう。スイッチを入れた瞬間、人が変わるのって、なんか芸術家っぽいし。もちろん、無理にとは言わないけどね。世の中の監督全員が、グイグイ系じゃないだろうし」と、なんとも無責任に言った。
その時、イズミくんが、「オオシマさん、ちょっと良いですか?」と言って、手を上げた。オオシマさんと並んでそちらへと歩きながら、オオシマさんからのアドバイスを心の中で復習してみる。
「お、オオシマさんって、い、良い上司って、感じですね」
心からそう思って言うと、オオシマさんは、「上司ではあるけど、良い上司、は、どうかなあ」と言って笑った。
川べりでカメラを構えるイズミくんに、オオシマさんが「もっと脇を締めて」と、アドバイスをしているのを視界の端で捉えながら、おずおずとオオモリくんに近づく。監督スイッチ、監督スイッチ……と、自分を守ってくれる呪文のように心の中で繰り返した。
「お、オオモリくん」
オオモリくんが、こちらに顔を向けた。
「ほ、本番を、想定して、ちょっと、撮影、して、みたいんだけど、い、良いかな」
「良いけど」
オオモリくんが、あっさりと答えたので、慌てて付け加える。
「だ、台本、覚えてる? ここ、セリフは、ないけど、か、川の中に、入って、立つ、んだ、けど……」
「覚えてる。別にいい」
オオモリくんが、靴と靴下を脱いで、裸足になった。長ズボンの裾を、くるくると器用にたくし上げていく。適度に筋肉がついて引き締まったふくらはぎが露になった。さすがサッカー部、と、妙なところで感心してしまう。
オオモリくんが、川の中へと、歩を進めていく。慌てて背中に声をかける。
「きゅ、急に、深くなってるかもしれないから、気を付けて!」
「分かった」
「あ、あと、足の裏、切らないように!」
「分かった」
「本番までに、マリンシューズ、用意するから!」
「いらない」
オオモリくんは、すり足で川の深さを確認しながらも、ざぶざぶと歩を進めた。それに気づいたイズミくんが、オオモリくんへとカメラを向けた。
「い、行けそうなら、もう少しだけ、進める?」
「分かった」
オオモリくんは、僕の出す注文に、黙って従ってくれた。
「で、夕日の方を、む、向いて、立ってほしい」
「腕は、自然に、下ろして、みて」
「足を、もう少しだけ開いて」
「開きすぎ」
「全身の力を抜いて」
「遠くを見て」
「表情、もう少しだけ、悲しそうにしてみて」
段々と、オオモリくんに注文を出すことに、抵抗がなくなってくる。
川の上を吹いた風が、オオモリくんのサラサラの髪を揺らした。オオモリくんが、少しだけ目を細める。
「もう少し、顔を上げて」
「眩しい」
「ほ、本番では、サングラス、用意します」
「なんでだよ」
オオモリくんが、こっちを見てクスっと笑ったので、ビックリした。オオモリくんが笑ったのを、初めて見た。今の表情、イズミくんはしっかり撮ってくれただろうか。撮影開始まであと何日、と、ずっと指折り数えながら緊張していたのが、急に撮影開始が楽しみになってきた。なんだか、ワクワクする。
「ら、ラストシーンでも、今みたいに、笑ってくれる?」
「やってみる」
川の中に立つオオモリくんへと、様々な注文を付けていく。イズミくんが、オオモリくんへとカメラを向ける。オオシマさんが、画面を覗きながら、アドバイスをしていく。
ソウタくんは、少し離れた場所からその様子を眺めている。ソウタくんが持つリードの先のチャタロウくんを、ハルカさんとアキラさんが、しゃがみ込んで嬉しそうに撫で回す。チャタロウくんは、広い河川敷にすっかりテンションが上がっていて、撫でられるとリードの許す範囲までダーッと駆けて行き、ダーッと駆けて戻ってきたところを再度撫で回されて、そして再びダーッと駆けて行くのを、飽きもせずに繰り返していた。
マツダさんとミナセさんが、土手に並んで座って、1冊の台本を一緒に覗き込みながら、楽しそうに言葉を交わしている。ミナセさんが出演する、科学館でのシーンの話をしているのだろうか。時折、笑い声も聞こえてくる。
ふと、この光景そのものが、映画、いや、物語のワンシーンみたいだな、と思った。
川の中に立つオオモリくんを見ていて、急に思い立つ。
「イズミ。イズミも川の中に立って、撮れる?」
イズミくんは、僕のやりたいことをすぐに理解したようで、「分かった」と言うと、カメラを僕に渡して、オオモリくんに倣って、ズボンの裾をたくし上げようとして、はたと手を止めた。
「……ごめん、今日は無理かも。当日はもっと動きやすい服を着て来る」
イズミくんが今日履いているズボンが細身のものだったようで、裾がたくし上げられないのだ。頷き、「じゃあ、僕がやってみる」と言って、渡されたばかりのカメラを再度イズミくんの手に戻した。靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げた。イズミくんからカメラを受け取り、川の中に足を入れた。川の水は、まだ少し冷たかった。この中にオオモリくんを立たせていたのかと思うと、今更ながら申し訳なさを感じた。ゆっくりと慎重に歩を進めて、オオモリくんの斜め後ろに立つ。水深が深くない川で良かった。
カメラを構えて、オオモリくんに向ける。オオモリくんの表情を捉えつつも、沈みゆく夕日も収めることができる。
河原に立って、オオモリくんの横顔を撮るのも良かったけれど、こっちも良いな。どっちにするかは、本番までに決めよう。
そんなことを考えながら、折角足を濡らしたのだから、真後ろからのアングルでも撮っておこう、と思って、またそろそろと移動を開始した、その時。
「あ! こら! チャタロウ!」
その声に上半身を振り向けると、テンションがゲージを振り切ったのか、チャタロウくんが川の中へとダイブするのが見えた。リードがソウタくんの手から離れてしまったのも見える。
犬は嫌いじゃない。むしろ好きだ。でも突然のことに驚いて、しかも川の中で移動中、少し変な姿勢の時に驚いたもんだから―――
「わっ!」
川の中で、完全にバランスを崩してしまった。周りの景色が傾いていく。尻もちをつくように転びながら、僕の頭の中には、「カメラ!!!」のその文字だけが占めていた。
転んでみて分かった。膝下くらいの水深というのは、転ぶと、十分に胸まで濡れる。なんなら勢いが良すぎて一瞬頭まで水の中に入った。
すぐに顔を水面に出した。左手はずっと高く掲げながら転んだから、左手に持ったカメラはなんとか濡れずに済んだ、はずだ。まるでボクサーの勝利のポーズみたいだと思った。
ゲホゲホ言いながら目を開けると、驚いた顔をしたオオモリくんが、こちらへと近づいてくるところだった。手を差し伸べてくれて、僕を立たせてくれようとするので、その手にカメラを押し付けながら、「カメラ! カメラ持って!」と訴えた。
気圧されるように、オオモリくんがカメラを受け取った。一先ず、安堵の息をつく。
イズミくんが、靴やズボンが濡れるのも厭わずに、ザブザブとこちらへと歩み寄ってくる。熱い友情に感動していると、近寄ってきたイズミくんへと、オオモリくんが無言でカメラを手渡した。僕を引っ張り起こすつもりだったのだろうイズミくんは、少し驚きつつも、カメラを受け取った。
両手が空になったオオモリくんが、改めて手を差し伸べてくれて、川の中で尻もちをついたままだった僕を、引っ張り起こしてくれた。「あ、ありがとう……」とお礼を言うと、オオモリくんはただ頷いた。
その時、「コバヤシさん! うしろ!」と声が掛かり、振り向く前に背中がドンっと押された。見ていないけどなんとなく分かった。多分、チャタロウくんが、背中に飛びついたのだ。
押された勢いで、僕を引っ張り起してくれたばかりのオオモリくんを押し倒すように、前に倒れこむ。僕の口から漏れた情けない悲鳴は、すぐに大音量の水音にかき消された。飛び散る水しぶきからカメラを守ろうと、イズミくんが体でかばうようにしたのが、最後に見えた。
「……」
「……誠に……申し訳……ございません……」
「……」
仰向けに倒れこんだオオモリくんの両脇に手をつき、至近距離で見つめあう構図は、男性が女性をベットの上に押し倒す時の構図に似ていた。目の前にあるオオモリくんは、眉根を寄せた、とても不機嫌そうな顔をしていた。とてつもなく、気まずい。
万が一にも巻き込まれないようにだろう、イズミくんがカメラをお腹のあたりに持って体で庇うようにしながら、そそくさと河原へと引き上げていく。……まあ、今はカメラの無事が最優先だから、良いんだけど。
「あの……」
「どいて」
「アッハイスミマセン」
慌てて体を起こした。オオモリくんも立ち上がる。お互い、髪から服までびっしょり濡れてしまった。オオモリくんが濡れた前髪をかき上げた。元が整っているから、濡れても、いや濡れたら余計に、良い男っぷりが増していた。男性アイドルのグラビア撮影みたいだと思った。僕の天パは、濡れてどうなってしまったんだろう……知りたくなくて、すぐに考えるのをやめた。
オオモリくんが、足元にじゃれついてきたチャタロウくんを、軽く取り押さえるようにして、「これ以上させないぞ」と優しく笑いかけた。そうして軽々とチャタロウくんを抱き上げると、両腕で抱っこをする。安定感のある抱き方で、チャタロウくんは舌を出しながら、まだハッハッと息を荒げていたけれど、ようやく、超・興奮状態から、徐々に落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
随分と手慣れた仕草だった。チャタロウくんを抱いたまま、オオモリくんが河原に向かってザブザブと歩き始める。その後を付いていきながら、「犬、好きなの?」と聞くと、「好きだし、飼ってた」と頷いた。
知らなかった。いや、尋ねたことがないから当然か。そういえば、僕は、オオモリくんのことをほとんど知らない気がする。
今日だけで、色々なオオモリくんの表情を見ることができたし、知らなかったことを知ることもできた。これからの撮影期間で、もっとたくさん、オオモリくんのことを知ることができるだろうか。
オオモリくんの斜め後ろからの顔を眺めながら、ぼんやりと考えた。
河原に着いたオオモリくんが、チャタロウくんをゆっくりと腕から下ろした。チャタロウくんが体をブルブルと振って、水を飛ばす。何度も何度も謝り続けるソウタくんに、オオモリくんがリードを手渡した。
水を滴らせる僕たちに、オオシマさんが慌てた様子で、「早く体を拭かないと、風邪を引くよ」と言って、そこでロケハンはお開きとなった。
ここから程近いアパートに住んでいるというハルカさんからの、「お風呂、貸そうか?」という提案は、女性一人暮らしの部屋に上がってお風呂に入る勇気なんてなくて、丁重に断った。……あと、オオモリくんがお風呂に入っている間、どういう風に待ってたら良いのか、分からないし。勿論、二人でお風呂に入るなんて選択肢は、断固としてない。
ハルカさんが、「じゃあタオルだけでも貸すよ」と再提案してくれて、そのお言葉には甘えることにした。河川敷で皆と別れて、オオモリくんと二人、ハルカさんの後ろについて行く。
ハルカさんのアパートの前で、オオモリくんと僕に1枚ずつ、バスタオルを貸してもらった。「あ、洗って、撮影の時に、か、返します」と言うと、「いつでも良いよ。減るもんでもないしね」と、ハルカさんはヒラヒラと片手を振った。
ハルカさんにお礼を言って別れて、借りたタオルを肩にかけ、体を拭きつつオオモリくんと並んで歩いた。オオモリくんにどこに住んでいるのかを聞いて、返ってきた答えを頭の中の地図に落とすと、どうやらかなり先まで一緒の道となるようだった。
住んでるところを聞き終えた途端、早くも沈黙が降りてきて、なんだか気まずい。多分、気まずく思っているのは僕だけだろうけれど。オオモリくんは、そういうの、全く気にしない気がする。
全身をぐっしょりと濡らした高校生二人が、水を滴らせながら並んで歩く姿に、すれ違う人の多くが驚いているのが、よく分かった。
しばらく黙って歩いたあと、やっとの思いで口を開いた。
「あ、あの、お、オオモリくん、さ、さっきは、あ、ありが、とう……」
オオモリくんは、チラリと僕を見て、「何が」と言った。
「か、川で、手を、引いて、た、立たせて、くれた、でしょ」
「そんなことか」
オオモリくんは軽く言ったけれど、僕が初めに転んだとき、すぐに近寄って手を差し伸べてくれたし、カメラをイズミくんに渡してから、改めて引っ張り起こしてくれたのを、忘れていない。
「あと、ご、ごめんね、お、押し倒しちゃって……」
「その言い方やめろ」
「アッハイスミマセン」
「それに、濡れたのは、チャタロウのせいだし」
「そ、そういえば、犬、飼ってたんだっけ。どんな、犬?」
「別に、普通の雑種。5年くらい前に死んだ」
「名前は?」
「クロジロウ」
「えっ嘘」
「冗談」
「えっ嘘」
オオモリくんが、訝しげな顔で僕を見た。オオモリくんが冗談を言うなんて思わなくて、びっくりして思わず手を口に当ててしまった。
「……犬、可愛いよね」
オオモリくんが頷く。チャタロウくんに優しく笑いかけたところを思い出す。本当に犬が好きなんだろうなと思ってしまうような、慈愛に満ちた笑みだった。
「そういえば、貸した映画、み、見た?」
「見た」
「ど、どうだった?」
「別に」
ああ、面白くなかったのか。僕はかなり好きな映画だったんだけどな、あれ。
「じゃあ、次は、犬の映画、とか、み、見てみる?」
オオモリくんは、首を振った。
「どうせ、最後は死んでしまうからいい」
「確かに、犬の映画って、最後は死んじゃったりで、泣かせる系の作品が、お、多いけど、そうじゃないのも、時々、あ、あるよ」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、見てみる」
オオモリくんと道が別れるまで、ポツリポツリと話をしながら歩いた。主に僕が質問して、オオモリくんが返事をする形だったけど。
オオモリくんのことを知っていくにつれて、じわじわと、僕の”オオモリくん嫌い度”が下がっていくのを感じる。
オオモリくんと道が別れるところまで来て、それじゃ、と互いに軽く手を挙げて別れた。
家に帰って、急いでお風呂に入ったけれど、すっかり体は冷えきっていて、寝る前には、「あ、これは明日も引きずるやつだ……」と察した。
翌朝、予想通り微熱と軽い喉の痛みがあったけれど、休みたくない授業があったから仕方なくマスクをして登校した。
席に座って、ぼやっとした頭のまま、少しだけ上がった息を整えていると、オオモリくんが教室に入ってくる。見ると、オオモリくんもマスクをしていて、あっという間にオオモリくんの周りに友人達が集まって、オオモリくんに心配の声を掛けていく。
自分の席に鞄を置いたオオモリくんが、座る直前に僕をチラリと見て、一瞬目が合う。僕もマスクをしているのを見てか、オオモリくんはごく小さく肩を竦めた。
それを見て小さく笑ってしまったけれど、マスクをしていたから、きっと誰にもバレていないだろう。
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