凍えるほどにあなたをください
ハナと会ってから、チャタロウの散歩コースに、この秘密の場所が時々組み込まれるようになった。
夕方のチャタロウの散歩は、僕の仕事だ。完全に日が沈んで真っ暗になるまでに家に帰らないといけないから、今日みたいに途中であたりが暗くなってくる冬は、そんなにゆっくりは出来ない。けど、僕の町を遠くの方まで見渡しながらボーっとする、この場所と時間が、僕は好きで、ここに来たときは、今みたいにベンチに座って必ずゆっくりする。まだ夕方だから、夜景とまでは言えないけれど、薄紫色になってきた町の中に、ポツポツと明かりがともり始めていて、奇麗だと思った。寒さに鼻をすすりながら、チャタロウのリードを持ったままの両手を、ダウンコートのポケットに突っ込んだ。
チャタロウは鼻をフンフンいわせながら、しきりに落ち葉や土の匂いをウロウロと嗅ぎまわっている。もちろん、おしっこを絞り出してマーキングすることも忘れない。
ハナと初めてここに来た時に座ったベンチの左側に座るのが、なんとなく癖になっていた。もし後からハナが来たら、右側に座ることが出来る。そうしたらあの日と同じ配置になる。まあ、ハナとここで会うことは、あんまりないんだけど。多分、朝早くとか、違う時間に来てるんだと思う。
……まあ、ハナに会いたかったら、パン屋さんまで行けば良いんだけど。
そろそろ出発しないと間に合わなくなるかな、と思って、立ち上がる。
「チャタロウ、帰るよ」
そう声をかけると、離れた広場の入り口から、落ち葉を踏むガサッという音がして、完全に油断していた僕は少し飛び上がった。慌てて音のした方を見ると、ハナが立っていた。安心して大きなため息をついた。
「なんだハナか~。驚かさないでよね」
ハナを見ると、こちらに近寄るでもなく、その場で固まっていた。鼻が少し赤いのは、僕と同じく、寒いからだろうと思った。けど、
「……目が赤いよ?」
ハナは、分かりやすく、あちゃ~という顔をした。
「完全に油断した……。もう帰ったと思ったのに……」
ベンチに座りなおした僕の右隣に座ったハナが、悔しそうに言った。僕に会わないよう、時間をずらそうとしていたと知って、ちょっとだけ悲しい。でも、泣いた後なら誰にも会いたくないのは当然かもしれない。
どうしよう、何があったか聞いていいのかな、と悩んで、結局何も言えなくなる。僕たちの足元で完全に寝る態勢になったチャタロウを、ハナが手を伸ばして優しく背を撫でた。
「お父さんと喧嘩しちゃってさ。格好悪いでしょ」
ハナから口を開いた。僕は慌てて首を振る。
「僕もよくパパと喧嘩するよ」
「そっか。どんなことで?」
「見たいテレビ番組があるのに、お風呂入れって言われたときとか。あと、テレビ見てたのに、野球中継にチャンネル変えられたりとか」
「テレビの恨みは深いよね」
ハナが少しだけ笑った。
「私はねー、高校を卒業したら、すぐに店を継ぎたいって言ったら、めちゃくちゃ怒られちゃったんだよね。大学でも専門でも、とにかく行けって。高卒は許さないって」
「前に、卒業したらパン作りを勉強できるとこに行くって、言ってなかったっけ?」
「言ったよ。でも、時間がなくて。状況は日に日に変化しているのさっ」
ハナがおどけた口調で言った。そうなんだ、と返した僕の声は、自然と小さくなった。子どもの僕が、その”状況”とやらに、どれくらい首を突っ込んでいいんだろう。
ハナが、体を前に倒しながら、大きく長いため息をつく。その息で、「……早く、大人になりたい、な」と絞り出すように言った。
「ハナは、もう大人だよ」
僕の中では、やりたいことがあって、それに向かって努力している人が、大人だ。
「自分がやりたいことを押し殺して、周りの言う通りにしているうちは、大人じゃないんだ。私の中では」
どうやら、僕とハナでは、”大人”の意味が違うらしい。だから、僕に初めて会ったとき、「君は大人」と言ってくれたのかな。
沈黙の時間が流れる。辺りがどんどん暗くなる。ハナが立ち上がる。
「すっかり暗くなっちゃったね。早く帰らないと、お父さんもお母さんも心配するよ。途中まで送ってあげる」
ハナの目と鼻の赤みはすっかり引いていて、一見いつも通りのハナに戻っていた。
確かに、そろそろ帰らないとママに怒られそうだ。僕も、のろのろと立ち上がる。リードを引っ張ると、本格的に寝始めていたチャタロウが、実に不服そうにのっそりと立ち上がった。
家に帰ると、やっぱりママに、「もう少し早く帰ってきなさい」と怒られた。けど、今日ハナから聞いた話が頭の中から離れなくて、上の空で返事をしていたら、とうとう心配されて、熱を測られた。まったくの平熱だったので、ママは呆れていた。
次の日。帰りの会が終わって、クラスメイトは皆それぞれ教室から出て、昇降口に向かっているとき、教壇で荷物をまとめていた先生に、「先生、あの、」と声をかけた。
「ん? なあに?」
先生は笑顔で聞き返してくれた。説明が難しくて、ちょっとドキドキしながら、聞いた。
「誰かのために、なんとかしてあげたいことがあるけど、でも、具体的に何をしたらいいか分からないときって、どうしたらいいんですか?」
先生は、きょとんとした顔をした。
「ええっと……。その人が、何に困っているのを、助けてあげたいのか、具体的に聞いても良い?」
「それは、ちょっと、言えないんですけど……」
ハナとの別れ際、「私が泣いてたことは、内緒ね」と、約束したことを思い出す。ハナが悩んでいる"状況"とやらは、内緒じゃないかもしれないけど、でも出来る限り周りに話すことは控えようと思っていた。
「う~ん、そうだなあ……」
先生が、教室の端にある、先生用の椅子に腰かける。僕も、一番前の席の椅子を借りて、先生の近くまで引きずっていき、そこに座った。
「じゃあ、一般論として、先生だったらどうするかを、話すね」
「はい」
「もし私が、どうしたらいいのか分からないことがあったときは、まずは”調べる”かな。マエカワ君みたいに、知っていそうな人に聞いたりもするだろうし、インターネットを使って調べたりもするだろうし、あとは、本を読んで良い方法を探したりするかな」
「なるほど!」
さすが先生だと思った。何をしたらいいのか全く分からなかったのが、ちょっとだけ、道が見えてきた気がする。
頭の中で考える。人に聞くのは、ハナの相談内容を話さないといけなくなるから、あんまりやりたくない。インターネットを使うのは、僕の家にパソコンはあるけど、もし検索履歴や調べているところをパパやママに見られたら、同じく意味がない。だから、やるとしたら、学校にある生徒が自由に使えるパソコンになるだろう。でも、何て入力して検索すればいいんだろう? ”パン屋 継ぐ 方法”? ”親 説得”? なんか違う気がする……。
となると、本を読む? でも、それこそ何の本を読めばいいんだろう。とりあえず、”パン屋さんになる方法”みたいな本を探して読んでみればいいのかな。
僕が頭を働かせていると、先生が、「あとは、」と、付け足した。
「何をしたらいいのか、思いつかない、良いアイデアが出てこない……。そういう意味で困っているなら、私なら、”行ったことのないところも含めて、色々なところに行ってみる”かな」
「色んなところ?」
「そう。どこに良いアイデアが落ちているか、分からないからね。色々なところに行ってみると、思いがけず、いいアイデアに出会うことがあるんだよ」
行ったことのないところ……と口の中で呟いた。なんとなく、この後自分がどうすればいいのか、分かってきた気がする。
「なるほど! ありがとうございます!」
僕が元気よくお礼を言いながら立ち上がると、先生は、「あ、でも危なさそうなところには絶対に行かないでね。あと、迷子にならないように気を付けて。どこに行くのか、お母さんに行ってから出かけるんだよ」と、慌てて釘を刺した。
家に帰ると、すぐに2階に駆け上がって自分の部屋に飛び込んだ。ランドセルを放り出し、ナップザックにノートと筆箱と財布とハンカチを詰め込んで、今度は階段を駆け下りる。靴を履きながら「行ってきまーす!」と家の中に叫ぶと、台所から慌ててママが出てきて、「どこに行くの?」と聞いてきた。「図書館!」と僕は答える。
「図書館って、市立の?」
「うん!」
「一人で行ったことないでしょ? 大丈夫?」
「大丈夫! あっ、チャタロウも連れて行って、散歩もしてくる!」
急いで下駄箱からチャタロウの散歩セット(ビニール袋とかトイレットペーパーとか、そういうの)を取り出し、これもナップザックに突っ込んだ。行ってきます! と言いながらドアを開けると、背中にママの「気を付けてね」という声がかかった。
”本日は蔵書点検のため、終日閉館です”
市立図書館の入口の自動扉に貼られた貼り紙の前で、僕は立ち尽くした。
”蔵書点検”が具体的にどういう意味かはよく分からないけれど、”閉館”の意味は分かる。せっかく何とかなる気がしていたのに。ため息をついた。
チャタロウは、散歩では初めて来たであろうこの場所に早速マーキングをすると、あとはもう興味はないらしく、早く行こーぜ、とでも言うように、僕の手をグイグイと引っ張った。ここに立ち尽くしていても仕方がないので、とりあえずチャタロウの後ろをついていくように、歩き出した。
学校の図書室より、この市立図書館の方が広いから、急いで帰ってきてここに来たのに。今から学校に行っても、すぐに図書室は閉まってしまう時間だ。
こんなことなら、学校の図書室に寄って帰れば良かったな。まあ、明日の放課後に寄ってから帰ろう……。
チャタロウの行きたい方に任せて後ろを歩いていると、どうやら商店街の方角に向かっていると気づいた。
ハナに初めて会ってから、パン屋に行くために何度か商店街に行った。その時に目に入ってきた店々のことを思い出す。確か、商店街には本屋さんもあったはずだ。だけど、僕のお小遣いからすると、新品の本とは、大分高価なものだった。特に、絶対にこれが欲しい! 読みたい!という本ではなく、解決策が見つかるかもしれないから、とりあえず色々読んでみよう、という気持ちで買えるような金額ではない。
だから、図書館に行きたかったのに……。あそこなら、無料で本を読めるから。パソコンも使えるし。
そこで、ふっ、と、何かに気が付いた。そういえば、商店街で、本屋以外にも本を取り扱っているお店を、見たことがある気がする。嬉しそうな顔をして、本を手にしながら、お店から出てくる人を、本屋以外で見かけたことがある気がする。
どこだっけ……?
*****
ドアベルがカランと音を立てたので、いつもの調子でドアの方に振り返りながら「いらっしゃいませ~」と声をかけると、そこには誰もいなかった。
……と、一瞬思ってびっくりしたけれど、視線を下げると、そこにはちゃんとお客様が立っていた。ただし、少し珍しいタイプの。
「おや、可愛いお客さんやね。ぼく、ここ来るの初めてやんな?」
腰をかがめてお客様と視線の高さを合わせて問いかけた。緊張した面持ちで頷いたお客様は、「マエカワ ソウタ、です」と、律儀に自己紹介をしてくれた。つられて、「店長のアヤノです」と名乗って頭を下げた。
ソウタくんが、「あの、ここって、僕でも入れますか」と、相変わらず緊張した様子で聞いてきたので、「もちろん」と笑いかけた。
「一人かな? そしたら、暗くなる前にお家に着けるように出てもらわなあかんけど、それでも良かったらどーぞ」と言うと、ソウタ君は、連れていた犬(散歩中だったらしい)を、店の前のポールに繋いだ。
恐る恐る店の中に入り、キョロキョロと周りを見渡すソウタくんに、「こちらの席はいかがですか?」と、店の前面に設けた窓際の席を手で示した。この席なら、ソウタくんが連れていた犬がよく見える。「ありがとうございます」と言って、ソウタくんが席に座った。
お冷とおしぼりを用意して、ソウタくんの元へと運んだ。
「何か、探してる本が、あるのかな?」
尋ねると、「どうしたらいいのか、分からないことがあったので、まずは調べようと思って、色んな本を読んで良い方法を探そうと思って、ここに来ました」と、想像以上に大人な回答が来たので、思わず、「お、おおう。そうなんや……」と、少しだけのけぞってしまう。
「何か飲みますか? コーヒーは飲めへんよね?」と聞くと、ソウタくんは慌ててメニューとにらめっこを始めた。本当は、必ず何か一品は頼んでもらうのがルールだけど、「オレンジジュースとかもあるよ。本を読みに来ただけなら、無理して頼まんでもええよ」と言ってあげた。だけどソウタくんは、「じゃあ、メロンソーダください」と言った。この子、めっちゃええ子やな、と心の中で呟く。「かしこまりました~」と言いながら、注文票に書き付けた。
「ここの本って、売ってるんですか?」
「売ってるよ。でも、買う前に好きに読んでもらって、気に入ったら買ってもらえばええから、絶対買わなあかんわけじゃないよ」
ソウタくんは、明らかにホッとした顔をした。笑って、「お店の中の本は、好きに手に取ってもらって、席まで持って行って読んでええからね」と告げて、メロンソーダを用意するために、キッチンへと下がった。
店の中には私とソウタくんしかいなかった。しばらく静かな時間が流れた後、お冷を継ぎ足してあげようとソウタくんのところへ行くと、とても真剣な顔つきで読書に励んでいた。テーブルの上のメロンソーダは、あまり減っていなかった。炭酸が抜けてしまうんじゃないかと、少し心配になる。
テーブルには数冊本が積まれていて、ソウタくんが開いている本は、初心者向けのパンのレシピ本だった。驚いて、思わず、「ソウタくん、パン作れんの!?」と聞くと、本から顔を上げて、「作ったことないし、作ろうと思ったこともないです」と返ってきた。本日2度目の、「お、おおう」が出てしまう。
「……でも、食べるのは好きです」
何故か少し恥ずかしそうに、ソウタくんが付け足したので、思わず笑いながら、「うちも」と返した。
「なんか調べたいことがあって来たんやったよね? 何か良いこと書いてあった?」と聞くと、黙って首を振った。「ま、そんなすぐには見つからんか。ドンマイドンマイ」と言って、肩をポンポンと叩いた。
その時、再びドアベルが鳴り、「ごめんくださーい」と大きな声が響いた。この声(とそのボリューム)には、大変に聞き覚えがある。見ると、予想した通り、商工会長の奥様が立っていた。
奥様は、ソウタくんを見ると、あらっ、と声を上げてから、にっこりと笑顔で声をかけた。
「随分珍しいお客様ね。こんにちは」
「こんにちは」と、ソウタくんも、若干の緊張をはらみつつも、はっきりとした声で、挨拶を返した。
「アヤノさんのご親戚?」
「ちゃいますよ~。普通にご新規のお客様です。何か調べたいことがあって来たらしいですよ」
「そうなの! 関心ね~」
そう言って、奥様は、「私の息子がこのくらいの歳だった頃なんてね、成績が悪くても全っ然気にした様子もなくてね、毎日帰ってきたらすぐに遊びに出かけちゃって、テスト前なんかは……」と、水が堰を切ったように、話し始めた。
あ、これは今日は超ロングコースや。
そう気づいたので、奥様の話にうんうん頷きながら、身振りだけでカウンター席(ソウタくんの席から少しでも距離が取れるよう、奥の方の席)を示して座ってもらい、はいはい相槌を打ちながら、いつも注文していただくブレンドコーヒーの準備を始めた。
*****
いつものようにカフェのドアを開けると、店内が賑やかだったので、混んでいるのかな? と思ったけれど、どうやら賑やかさはカウンターの奥の方に座るおばさん一人がもたらしているらしい、とすぐに気が付いた。おばさんと話し込んでいたアヤノさんが、こちらを振り向き、「おっ、コバヤシくんにイズミくん、いらっしゃい。お好きな席にどうぞ~」と言った。
会釈を返して、店に入る。入り口脇の窓際の席に、小学生くらいの男の子が一人で座って本を読んでいて、珍しいな、と思った。僕とイズミくんがよく座っている席に着く。
注文するものは大抵一緒だけど、一応メニューを開いて眺める。おばさんの声が勝手によく耳に入ってくる。
「だからね、私色んな所にお邪魔させてもらって、お話聞いて回ってるの。だってヒメノさんのとこが厳しいんだったら、他のお店も厳しいに決まっているじゃない? だって、ヒメノさんとこのパン、あんなに美味しくていつも人気なのに。そのヒメノさんが、ねえ?」
「ホンマですよね~。うちも頑張らせてもらってますけど、年々厳しくなってますもん。時代は電子書籍なんですかね~」
アヤノさんが、やや適当な返事をしながら、テキパキと僕たちのお冷とおしぼりを用意しているのを見たおばさんが、「そろそろお暇するわね。ごめんなさいね、お邪魔しちゃって」と声をかけて立ち上がった。
「とんでもないです。いつもありがとうございます~」
アヤノさんが、準備の手を止めて、先におばさんの会計に移った。そのおばさんの後ろ姿を、小学生男子が、チラチラと見ていた。会計が終わったおばさんが、小学生男子と目が合うと、ニッコリ笑って、「勉強、頑張ってね」と言った。小学生男子が、黙ってコクリと頷いた。僕らが店に入ったとき、小学生男子は、”なりたい自分になる10の方法”みたいなタイトルの、啓発本を読んでいたのが見えていたので、勉強……? と思ってしまう。最近の小学生って、大変なんだな、と、勝手に自分を納得させた。
「ふい~、ごめんごめん。お待たせお待たせ」
アヤノさんが、僕たちのお冷とおしぼりを持ってやってきたので、「いえ、全然」と言って首を振った。二人とも、いつも通りカフェモカを注文した。アヤノさんが、「はいよ~。少々お待ちくださいね~」と言って下がっていく。
そこでようやく、「さて」と言って、僕とイズミくんは、テーブルの上にノートと筆記具を広げ、近くの本棚から、最近参考書にしている本を数冊抜き取った。
*****
声の大きなおばさんが帰った後、また読書に戻ったけれど、頭の中はさっき聞こえてきた話でいっぱいで、全然本の内容は頭の中に入ってこなかった。どうせ、探していたものとは違うな、ということに気がつき始めていたので、諦めて本を閉じた。
一旦、その閉じた本を本棚に戻しに行った。席に戻ろうとしたとき、ふと足を止めて、カウンター内で洗い物をしているアヤノさんを見上げた。僕の視線に気づいたアヤノさんが、「ん? どうしたの?」と優しい顔で聞いてくれた。
どうしようか暫く迷った後、意を決して、聞くことにした。
「ヒメノさんのパン屋さん、つぶれそうなんですか?」
アヤノさんが、ピタリと手を止めた。恐る恐るといった風に、僕を見る。
「聞こえてた……? って、そりゃ聞こえるか……」
ヒメノとは、ハナの苗字だ。つまり、ハナのお父さんがやってる、ハナが継ぎたいって言ってる、あのパン屋が、潰れそうだと、ハナのお父さんから、あのおばさんの旦那さん(商工会長? というらしい)が相談を受けたと、あのおばさんは言っていた。
「う~ん、正直言うてね、この商店街全体がね、どんどん客足が減ってんのよ。だから、ヒメノさんのとこだけやなくて、この商店街のお店は皆、ヒィヒィ言いながら商売してんねんな。そんな中で、とうとう、ヒメノさんのとこから具体的に悲鳴が上がったみたいやね」
「でも、あそこのパン、美味しいし、いつもお客さんもいるのに」
「せやなあ。でも、多分、お客さんがこの近所の人だけに限られてるからかもなぁ。あんなに美味しいのに、それがあまり遠くまでは知られてないというか。そもそも、この商店街自体、存在を知らへん人も多いやろうしね」
僕もそうだ。僕も、家出をしようとして初めて、ここに商店街があることを知った。それまでは、買い物といえばママに連れられて行く駅近くのショッピングモールだった。
それでやっと、分かった。ハナが高校を卒業したらすぐにパン屋を継ぎたいと言っている理由。きっと、あのパン屋がつぶれてしまう前に、継ぎたいんだろう。それでお店を立て直したい、と思っているのかもしれない。
でも、お父さんとしては、もうすぐつぶれるかもしれないお店を娘に任せて、学校に行かないなんて、許せないんだろう。
「……どうしたら、良いのかな」
思わず弱々しい呟きが漏れてしまう。アヤノさんは、「子どもはそんな心配せんでええねん。大人がなんとかするから、任せとき!」と言って笑った。
そう言われたら、引き下がるしかなくて、小さく頷くと、すごすごと席に戻った。
大人とか、子どもとか、関係なく、僕はただ、ハナを助けてあげたいだけなのになあ……。
あの日初めて見た、ハナの弱った顔が、あの日からずっと頭から離れないんだ。
もう、あんまり本を読む気にもなれなくて、ナップザックからノートと筆記用具を出して、テーブルに広げた。考えていることを、一旦書き出してみると、頭の中が整理されるって、今日読んだどれかの本のどこかに書いてあったからだ。
まず、ハナが悩んでいるのは、自分がお店を継ぐ前に、お店がつぶれてしまいそうだからだろう。だったら、お店がつぶれないようにすれば、ハナは安心してパンの学校に行けるかもしれない。そうしたら、ハナのお父さんもきっと安心するはずだ。
じゃあ、どうしたらお店がつぶれないか。単純に、お客さんが増えたら良いはずだ。さっきアヤノさんは、「この商店街自体、あまり知られていない」と言っていた。じゃあ、もっと商店街に人が来るようになったら、結果的に、ハナのパン屋さんのお客さんも増えるんじゃないかな。美味しいんだから、きっと1回来て食べてもらえれば、好きになってくれる人はたくさんいるはずだ。
じゃあ、どうやって商店街に人を呼ぼう?
ここまでのことを箇条書きにしつつ、矢印で結んで行ったりしたけれど、ここで手は止まってしまった。何とか絞り出して、商店街をアピールするチラシを作って隣町まで配りに行くとか、テレビCMを流すとか、書いてみるけど、どれも現実的ではない気がした。隣町まで僕一人で行くのはパパとママに禁止されているし、テレビ局の人に知り合いもいない。そもそも、そんなお金もない。
あ、じゃあ、この商店街でしか手に入らないものを作って売ってみたらどうだろう? 何か、名物になるようなものを開発して……。う、でも、僕は全く料理はできないし……。
うんうん唸って考える。せっかく先生の言っていた通り、勇気を出して”行ったことのないところ”にも、来てみたのに。あとちょっとの気がするのに。
しょうがない。今日はここまでにして、明日は図書室や市立図書館に行こう。それから、良いアイデアに出会えるように、色々なところに足を運んでみよう。
そう決めて、持ち出していた本を棚に戻すために、もう一度席を立った。
*****
いやはや、さっきは少し動揺してしまった。まさかあんな小さい子に商店街の行く末を心配させてしまうとは。
いや、ソウタくんの場合は、商店街じゃなくて、ヒメノさんのパン屋の心配かな? そんなにあのパン屋が好きなのかな? そういえば、最初に読んだ本も、パンに関する本だった。調べたいことって、もしかして、もともとパン屋に関することやったんだろうか。でも、つぶれそうって話は、初耳みたいだったような……。
恥ずかしそうに、「食べるのは好き」と言っていた顔を思い出す。分かるで……。うちもあそこのパンめっちゃ好きやから、なくなられたら困るって気持ちは、痛いほどよく分かる……。
思い出しながら、思わずうんうんと頷いてしまう。
その時、ずっと本を挟んで話し込んでいたコバヤシ君たちから、「すいません、アヤノさん、ミックスサンドもらえますか?」とオーダーが入った。「はーいよっ」と返事をする。
コバヤシくん達は、少し前から何回かこのカフェに来てくれている、男子高校生である。読書が好きで来ているわけではないという、このカフェには少し珍しいタイプのお客さんだ。根っからの映画大好き人間で、最近は自主製作映画に関する本や、シナリオ作成についての本、カメラに関する本、有名な映画監督のインタビューが掲載された映画雑誌など、今後の役に立ちそうな本を読んで勉強するために来てくれている。今も、”今後こういう映画が撮れたら楽しいよね”、という話をして盛り上がっているようだった。
ええなあ、青春やなあ、と思いながら見つめていると、ソウタくんが、本を抱えてコバヤシくん達のテーブル横を、ちらっと二人の様子を横目で見やりながら通り過ぎ、抱えていた本を元あった場所に戻し始めた。やっぱええ子やなぁ、と感心してしまう。本を戻し終わったソウタくんが、席に戻ろうとして、コバヤシくん達のテーブル横で足を止めた。ジーっと、二人の間に広げられているノートや本を見つめている。そして、「お兄ちゃんたち、映画を作ってるの?」と、声をかけた。どうやら二人の会話が耳に入ったらしい。
コバヤシくん達は少し驚いた様子だったけど、「いや、撮ってみたいと思ってるだけで、まだ撮ったことはないんだよ」と、苦笑しながらイズミ君が代表して答えた。
「映画って、誰にでも作れるの?」
「うーん、昔に比べたら、比較的誰にでも撮れるようになったかもしれないね。昔は、高いカメラとか、専用の大掛かりな機械とかが必要だったけど、今は個人で性能のいいカメラを買えるようになったから。短い映画だったら、iPhoneで撮っちゃう人なんかもいるしね」
「へえ、そうなんや」
思わず、口を挟んでしまう。
「うち大きい映画館でやってるようなやつしか見たことないし、よう知らんかったわ」
「多分そういう人の方が多いですよね」
コバヤシくんが、イズミくんの後を継いだ。
「でも、いわゆるミニシアターで上映されるような最近のインディーズ映画は、結構盛り上がってるんですよ。ほら、一昨年あたり、元は数か所だけで上映してたゾンビ映画が、面白いって評判になって、最終的にはテレビでも放送されたり」
「ああ、あったね、そんなことも」
「僕たち、あの映画がまだ割と公開したばかりだった頃に見に行ったんですけど、その時はこのカフェくらいの大きさの映画館だったんですよ」
「えっ、ほんま? めっちゃ小さいやん」
「そうなんです。そこからあの大ヒットはすごいですよね」
「僕たち、今度あの映画のロケ地にも行ってみたいなって話してるんです。な?」
「そうそう。あの映画のロケ地を、生で見てみたくて」
コバヤシくん達が笑いあう。あのゾンビ映画は私もテレビで見たけど、結構鬱蒼とした山の中? 森の中? の、廃墟が舞台だったような……。あの森やら廃墟やらを見て、楽しいのだろうか? まあ多分、楽しいんだろうな、コバヤシくんたちには。
「あ、でも、私もいつかロケ地を見にスウェーデンまで行ってみたいなと思ってる映画があんねん。そういうことやんな?」
「そう! そういうことです!」
コバヤシ君たちが笑顔で頷く。この子たちは、映画の話をするときに、実に良い笑顔をする。誰かが、自分の大好きなものの話をするのを聞くのって、楽しい。思わず私も笑顔になってしまう。
ふと、ソウタくんを見ると、ぼんやりと中空を見つめ、何かを考え込んでいた。話についていけなくて、退屈させてしまったかな、と心配すると、パッと顔を上げて、「あの、」と言ってから、続けた。
「この商店街を舞台にして、映画を撮ったら、どうかな……?」
突然の展開に、私もコバヤシ君たちも、皆、頭の上にはてなマークを浮かべた。ソウタくんが、一生懸命、補足してくれる。
「あの、さっきからずっと、どうやったら商店街に人を呼べるかなって考えてて。何か、この商店街にしかないものを作ったらどうだろうって考えてて。もし、面白い映画を作って、それがここでしか見れなかったら、人がたくさん集まるんじゃないかと思って。それに、もしその映画が人気になって、色んなところで見れるようになったら、舞台となった商店街を見たいって言って、来てくれる人もいるかも……」
段々と声は小さくなってきたが、ソウタくんの話は、ちゃんと聞き取れた。「なるほど! ええやん楽しそう!」と言うと、コバヤシくんたちは、「「え!?」」と言って、私を振り仰いだ。この後の話の流れが想像できてるらしい。想像した通り、ソウタくんが、「あの、どうでしょうか。作ってくれないでしょうか……?」とコバヤシくん達に頼み、コバヤシくん達は、再度「「え!?」」と言った。見事なハモリだった。
*****
突然のことに、一瞬思考が停止したけど、すぐに復活して「いやいやいやいや!」と言いながら、首と手を振った。
「最初に言ったけど、撮ってみたいだけで、撮ったことはないんだよ!?」
「でも、すごく詳しそうだし……」
「映画をたくさん見たり本を読んだりしてるだけで、実践に移したことはないんだよ。そんな、いきなり、無理だよ……」
ソウタくんが段々としょんぼりとしてきてしまい、罪悪感が芽生え始める。
「いきなりってことはないやん。いつも、自分たちが映画を作るとしたら、の話をしてたんやから」
アヤノさんがソウタくんの応援に回った。「いや、そうですけど……」と、反論する声が小さくなってしまう。イズミくんと、どうしよう……?と、目だけで会話する。
「こんなに小さな子が、商店街のために立ち上がろうと勇気振り絞ってんやで? それに、」アヤノさんが、ニヤリと笑う。「いつまでも計画で終わらせとくつもり?」
……ぐうの音も出なかった。イズミ君と、映画製作の話をするようになってから、1年弱になる。計画の話はしつつも、じゃあ具体的にいつから? という話はしたことがなかった。再度、イズミくんと、無言で目を合わせた。
アヤノさんがキッチンからソウタくんの元に回り込み、しゃがみこんでソウタくんと視線を合わせた。
「ソウタくん、君が発案者である以上、このお兄ちゃんたちに任せて、あとは知らんぷりってわけにはいかんで? 自分で考えて、決めて、自分でも出来ることは自分でやって、どうしても出来ないことは、出来る人にお願いして……そうやってこの映画プロジェクトを進めなあかんで。 それは分かってる? できる?」
「分かってる。できる」
ソウタくんが、力強く頷いた。なんだか、僕たちが引き受けること前提で話が進んでないか?
「やってさ」
アヤノさんがそう言って僕たちを振り返った。僕たちは三度目線を合わせると、諦めて、頷きあった。覚悟を決めた。
「……分かりました。やります」
「決まりやね!」
アヤノさんが嬉しそうに手を叩いた。「安心してや。うちもやれることは何でも手伝うし!」
ソウタくんも、嬉しそうに「ありがとうございます!」と言った。
水を差すようで少し申し訳なかったけど、慌てて「でも、」と付け足した。
「僕たち、この商店街を舞台にしよう、なんて考えたこともなかったから、その場合のストーリーを考えることから始めなきゃいけないです。それに、正直、シナリオ作成については勉強途中で……」
「つまり、脚本家が必要ってこと?」
「あ、はい、簡単に言えばそうです。あと、脚本家の他にも、出演者とか、撮影に使えるお店や施設との交渉とか、衣装や小道具……照明は必要な時だけで良いかな……あと、撮影を手伝ってくれるアシスタントの方がいた方が……あとは広報活動も必要かと……」
「なるほど、結構必要なんやね。分かった分かった。これから相談してどんどん決めてこ。幸い、脚本家は伝手があるわ」
「え、アヤノさん、脚本家の知り合いなんているんですか?」
「んー、脚本家ではないんやけど、たくさん貸しを作ってる子が……」
アヤノさんがそこまで言ったところで、ドアベルが鳴った。大学生くらいの男の人が、入りながら「アヤノさん、何か食わせて……」と言いかけて、アヤノさんの顔を見て、ビタリと動きを止めた。僕もアヤノさんの顔を見ると、実に邪悪な笑顔を顔に張り付けていて、思わず僕も縮み上がってしまった。ソウタくんも、見事にビビっているように見える。
「マツダくん、実に良いところに」
「絶対悪い話だ絶対悪い話だ絶対悪い話だ絶対悪い話だ絶対悪い話だ絶対悪い話だ」
本能を働かせたのか、マツダさんが回れ右をする。
「ちょお待てや逃げんなや出世払いがどんだけ溜まってる思っとんねん!」
「アヤノさんが出世払いで良いよって言ってくれたんじゃないですかあああああ!」
店を飛び出し逃げていくマツダさんを、悪魔のような笑い声を響かせながら、アヤノさんが追いかけていった。
*****
アヤノさんが飛び出して行った後、イズミさんが、「そろそろ暗くなっちゃうから、ソウタくんは帰りな」と言ってくれた。時計を見ると、確かにいい時間になっていたので、僕は頷くと、メロンソーダの代金を二人に預けて、お礼を言ってからお店を出た。
待ちくたびれてふてくされていたチャタロウに謝って、一緒に家の方へと歩き出す。
家に帰るとき、ハナのパン屋の前を通りがかる。見ると、ちょうど店じまいの時間だったようで、ハナが店先に出していた立て看板をしまっているところだった。こちらに気づいたハナが、小さく、おっ、と言ってから、「よっ」と手を挙げた。いつも通りの様子だったけど、ほんの少し照れくさそうにしている気がするのは、気のせいだろうか。
「チャタロウくんの散歩?」
「うん」
「そっか。寒いのに毎日偉いね」
ハナがしゃがみこんでチャタロウを撫でまわした。パン屋にいたので良い匂いがするのだろう。チャタロウはハナの匂いを一生懸命かいでいた。
ハナの様子を見ていて、気づく。
「ハナ、手が赤いね」
「さっきまで水仕事してたからね。すっかり冷えちゃったよ」
そういうと、ハナが、ひょい、と僕の両手をとると、ハナの両手で包み込んだ。思わずドキッとしてしまってから、その冷たさに驚く。
「冷たっ!」
「はあ~。子ども体温マジあったかい……ホッカイロみたい……」
ハナは目を閉じて、はふう~、と息を吐いた。僕の手からハナの手へと、どんどん熱が移っていく。とても冷たくて、凍えるほどだった。けど、その顔を見ていると、振りほどくことは出来なかった。こんなに手が冷たくなるほど、お店の仕事を手伝っていたんだろうし……。
「僕で良かったら、いつでもホッカイロになってあげるよ」
勇気を出して言うと、ハナが、「ん? 良いの? 冷たくない?」と言った。
頷き返す。冷たいし、凍えるけど。ハナのためなら。
……とまでは、流石にいう勇気はなかったから、「ハナが作ったパンを、また食べさせてくれるなら」と言って、ごまかした。
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