願いをさえずる鳥のうた
朝の身支度と食事を済ませたら、一階へと降りる。店の入り口の戸を開け、今日のように天気の良い日は窓も全て開け、店内の床を箒で掃く。とは言っても、1日の客の数はたかが知れているので、いつも大して汚れてはいない。
次に、商品の状態を眺めつつ、軽く磨いていく。これも大して埃を被っている訳ではないから、乾いた布で優しく拭くくらいだ。
磨き終えたら、最近お気に入りの商品のオルゴールのネジを巻き、曲を流す。機械仕掛けの木彫りの鳥達が、軽やかに舞いながら、カノンを歌う。この鳥達のカノンが、暫くこの店のBGMとなる。
そうしたら、ノートを開き、今日の予定を確認する。といっても、予定なんて、旧知の知人が「良いものが手に入った」と言いながらやって来る〝納品〝くらいだし、その予定のある日の方が少ない。案の定、今日の予定も、何もなかった。
そうしてから、やっと、店の外に小さな〝商い中〝の看板を掛け、店の奥の小上がりの和室へと上がる。和室には古いテレビにちゃぶ台と座椅子、それから小さな冷蔵庫と簡素な棚を置いている。営業時間中に必要なものは、この和室に全て納まっている。
エアコンを風量を控えめにして稼働させる。扇風機のスイッチも入れて、店内の空気を循環させる。入り口の戸も窓も全て開けているから、程よく冷えた空気は店内を満たしながらも外へと漏れていくが、気にしない。
そうして初めて、いつもの定位置である座椅子に座り、ちゃぶ台に置かれた読みかけの文庫本を手に取り、栞を挟んだページを開いた。数ページ読み進めたところで、BGMのカノンが止んだ。
これで丁度開店時間、もしくはそれを少し過ぎるくらいだ。過ぎていても構わない。どうせ開店時間を待ちわびて、外に並んでいる人がいる訳でもない。
これが、毎日繰り返される。
涼しい風に当たりながら、外から聞こえてくる人々の話し声をBGMに読書に勤しんでいると、やがて「タカナシさーん、おはよー」と大きな声を掛けられた。目線を入口へと向けると、つば広の帽子を被った商工会長の奥方が、まだ午前中だとは思えないほどの明るさと暑さの中、立っていた。頭を下げながら「おはようございます」と返すと、「もー、こう毎日毎日暑くって、嫌んなっちゃうわよねぇ」と言いながら、勝手知ったる顔で店内に入り、小上がりへと腰を掛けて、はあ~やれやれ、とハンカチで汗を拭いた。
読んでいた文庫本に栞を挟み、ちゃぶ台の上へと置くと、扇風機の位置を奥方に有利な位置へと少しだけ移動させながら、小さな棚を開けつつ、「ここ最近の暑さは異常ですね。80年生きてきた中で、一番暑い夏のような気がします」と返した。
私の動きから私の意図を察した奥方が「あら、悪いわよ。お気遣いなく」と言ったが、私の店に来るのは休憩と世間話が目的だと知っているので、そのままお気遣いをする。棚から出したガラスのコップへ氷をいくつか入れ、麦茶を注いで奥方に渡した。奥方は「あら、そんなつもりじゃなかったのに。ごめんなさいねぇ」と言いながらも、そこから先は遠慮せず、コップを口へと運んだ。
そこから先は奥方の独壇場で、ここ最近の異常な暑さの話をしていたかと思いきや、商工会長である旦那への愚痴へと話は移り、続いて自身の健康の話、周囲の健康の話、お孫さんの学校行事の話、ご近所が飼っている犬に子犬が生まれる予定なので先んじて引き取り先を探している話、と、どこからそんなに話題が見つかるのかと思うほど、ずっと一人で喋っていた。私はその間、相槌だけを打っていた。
「そういえば、」と、奥方が今日何度目か分からない話題転換をする。
「ここのところ、商店街の客足がめっきり悪くなっちゃって。主人も毎日頭を抱えているのよ。やっぱりどこも景気は悪いのかしら。ほら、あの、ヒメノさんがやってるベーカリー、あるでしょ? 娘さんも手伝ってる、あそこ。ヒメノさん、経営が厳しいって、主人に話していたらしいのよ。あそこのパン、すごく美味しいのに、それでも厳しいなんてねぇ。タカナシさんのところはどう?」
私は、「元々、殆どお客さんなんて来ないですから。減ってもそうとは分からないくらいですよ」と言って笑った。そして、「うちの場合、この通り、自宅兼店舗だから家賃がかからない分、まだ何とかなってますよ。それでも毎月、赤が出ますからね。他のお店はさぞかし大変でしょう」と付け加えた。
奥方は、悲しげに眉をひそめ、「あらやだ、もしタカナシさんのお店が潰れちゃったら、私、これからどこで涼めば良いの?」と言うと、大きな声で笑った。私も思わず笑ってしまう。店先に吊るした風鈴が、私達の笑い声に呼応するように、涼しげな音を鳴らした。
奥方が帰っていくと、再度文庫本へと手を伸ばしかけ、端と思い止まった。再度棚へとにじり寄り、古い大学ノートを取り出した。それは、〝納品〝等の予定や、各商品をいつ誰から幾らで買ったのか、またその商品について聞いた情報や調べたこと、そして売り上げがあった際の細かなメモなど、店のことを何でも書き留めている雑記帳だ。
この雑記帳の、一番後ろのページを開く。そのページは、〝いつ、この店を畳むべきなのか〝を考える際に開くページで、毎年の収支や貯蓄額等を記してあり、それらの数字から換算しつつ、いつ頃までに店を畳めば、周囲に迷惑をかけずにこの店を終わらせられるか、分かるようになっている。
奥方にはまだ話をしていないが、この店も、あと数年と経たずに畳まなくてはならないだろう。もしかすると、今年度中に畳んだ方が、キリが良いかもしれない。そんな曖昧な計画が、このページを開くと分かるようになっている。
視線をページの下の方にずらしていく。ページの上から順に隔行ごとに西暦を書いているので、下の方がより〝未来〝を表している。
ページの下方3分の1程は、西暦も含めて何も書いていないが、最終行にだけ、一言記している。
〝店を畳んだら、願いを叶える〝
その一文を読んでから、ノートを閉じて、棚の中へと戻した。
その後も、とんと客足は無く、店の外の喧騒をBGMにした読書はとても捗った。途中、昼食を取り、また少し本を読んでから、ラジオ体操の時間になり、やっと本を閉じた。ほぼずっと座椅子に座っていたので、体がガチガチに固くなっている。店の軒先に出て、店内の陳列棚の一角に置いたラジオから流れる音楽に合わせて体を動かし、凝り固まった体を解した。通行人は私をチラリと見ながら通りすぎて行くが、殆ど毎日のことなので、周囲の店の従業員達は、「もうそんな時間か」というような顔をする。
体操が終わり、店内へと戻りラジオのスイッチを切った。いつものように小上がりへと戻ろうとしたところで、店の外から「あらーオオシマさん! お久しぶり!」と大きな声がした。
振り返ると、午前中に世間話をした商工会長の奥方が、店の前で私の見知った夫婦へと声を掛けていた。
声をかけられているこの夫婦は、週末のこのくらいの時間になると、よく店の前を通りかかるので、何度か顔を見たことがあった。夫婦ともに、お揃いではないものの、Tシャツを着て動きやすそうなズボンと歩きやすそうな靴を履き、帽子を被っている。おそらく夫婦でウォーキングでもした帰りなのだろう、仲が良いんだな、と思っていたので、印象に残っていた。ウォーキング帰りに商店街で買い物でもしたのか、ご主人の方が手に買い物袋を下げているのも、いつもの光景だった。
商工会長の奥方が、いつものようにマシンガントークを始めるが、ご夫婦の奥様の方も、それに平然と答えている。とても話が盛り上がっているようだった。そういえば、奥方は〝久しぶり〝と言っていたから、積もる話があるのかもしれない。
これは長くなるぞ、と思って、ふとご主人を見ると、少し困ったように笑いながら、会話に入ることはせず、ただ脇に立って会話を聞いていた。昼を過ぎたとはいえ、まだまだ暑い時間帯なので、帽子の隙間からダラダラと滝のような汗をかいていた。
少し気の毒になり、女性二人の会話を邪魔しないよう、ご主人の方へそっと近寄ると、肩を軽く叩いた。振り向いたご主人へ「涼んでいかれますか」と小声で告げ、店を指差した。
ご主人は私の言わんとしていることを、すぐに察したようで、苦笑いすると「ありがとうございます」と言って、店へと入った。
店内に入ると、ご主人は「はあ~涼しい。生き返ります」と言って、帽子を脱ぐと、腕を広げて涼しい風を全身で楽しんでいた。汗をかいた頭は、髪の毛が全てぺたりと頭皮に貼りついていた。
「お荷物、こちらに置いていただいて構いませんよ」と、小上がりを示すと、「あ、いえ、そんな、全然、大丈夫です」と言って首を左右に振った。もしかするとご主人がその場を離脱したことにも気づいていないような様子で、会話が盛り上がり続けている店の外の女性二人をチラリと見て、「……長くなりそうですよ?」と言うと、ご主人もそちらをチラリと見ると、「……ですね」と言って、小さく何度も、すみません、と言いながら、買い物袋を小上がりに置いた。
ご主人は、改めて店の中をぐるりと見回して、「リサイクルショップですか?」と聞いた。私は笑いながら、「この店にはカタカナは似合いませんよ」と言った。以前、カタカナ語にも詳しい商工会長の奥方に「セカンダリーショップ」と言われて、思わず大笑いしてしまったことを思い出す。でも、確かに、特に骨董的な価値に拘って商品を置いている訳ではないので、陳列した商品だけを見れば、リサイクルショップやセカンダリーショップの方が、正確かもしれない。この店の古い様子には似合わないが。「一応、骨董店を名乗っています。小鳥遊骨董店です」と、店の名を告げた。
ご主人は、「あれで、タカナシと読むんですか」と、驚いたように店の外を指差す。おそらく、店の看板を示しているのだろう。私は笑いながら頷いた。「鷹がいない空で小鳥が遊ぶ、といったような由来だそうです」苗字のことで驚かれることは度々あるので、簡単な説明には慣れていた。
「ほら、あの、スキージャンプの高梨選手の方のタカナシは知っていましたが、こちらの漢字のタカナシさんは、初めてお会いしました」
「私も、親族以外でこの漢字のタカナシさんにはお会いしたことがありませんね。小説とか、あとは漫画とか、創作物の中には度々出てくるんですが。女性だったら、小鳥遊ルリさん、とかね。多分、現実にいる小鳥遊さんより、創作物の中の小鳥遊さんの方が、人数が多いんじゃないかな」
私がそう言うと、ご主人は「……まさか、奥さんのお名前は、」と言ったので、「残念ながら、ルリではないですよ」と言って、二人で声を合わせて笑った。
ご主人がのんびりと店内を歩き、商品を眺めるのを、小上がりに座って何とはなしに眺めた。ふと、ご主人が、「わ、懐かしい。カチンコだ。あ、フィルム・リールも」と言って、商品の1つを手に取った。「お詳しいですね」と言うと、「大学の頃、映画を撮っていたので」とはにかみ、「……懐かしいな」と呟いた。
そこでようやく、「お待たせ」と外から声がかかった。見ると、女性二人の会話がやっと終わったようで、奥様がご主人へと小さく手を振っていた。
ご主人は商品を棚へと戻すと、「ありがとうございました。助かりました」と言って、頭を下げたので、「またいつでもいらしてください」と返した。ご主人が奥様の方へと歩みより、奥様の「袋は?」の一言で、ハッと気がつき、慌てて小上がりに置いたままだった買い物袋へと、とって返した。奥様は「まったく……」と溜め息をつきつつ、今度は私へと「すみません。お邪魔しました」と声をかけた。私は、「いえ、こちらも楽しかったです」と言って笑った。
気がつくと、閉店時間が迫っていた。今日もお客さんは来なかったが、来客があって話が出来て、思いがけず楽しい1日になった。
店仕舞いのため、開けていた窓を閉め、表に掛けていた〝商い中〝の看板を外し、入り口の戸も閉めた。外の喧騒が遠退き、賑やかで明るい世界から切り離されたかのように、静かで少し暗い落ち着いた世界が店内に広がった。
2階へと上がる前に、ふと思い立って、朝に鳴らしたオルゴールのネジを再度回した。こちらの世界に、再びカノンが流れ始める。小上がりに腰を掛け、それを聞きながら、今日のことを思い返す。
午後に話をした夫婦が、やいのやいのと言い合いながら去っていく姿を思い出す。ああだこうだ言いながらも、仲が良いのが伝わってきて微笑ましかった。思わず、妻のことを思い返してしまう。私たちも、あの二人にも負けないくらい、仲睦まじい夫婦だったはずだ。
この店を始める切っ掛けになったのは、私がそれまで勤めていた会社を辞めたことだった。
まだ、〝ハラスメント〝なんて言葉のない時代、上司からの度重なる暴言や圧力に耐えかねて、妻になんの相談もしないまま、突然に会社をやめてしまった。
事情を話して土下座して謝る私に、妻は「そうなの」と少し驚いたように言った後、「じゃあ、次は何をしようか?」と言って笑った。まるで「今日の夕飯は何にする?」とでも聞くような気軽さだった。
キャリアアップのための転職が当たり前となった現在とは違って、男は1つの仕事を最後までやり抜くもの、辛いことから逃げるなんて軟弱な男、と言われる時代だった。そんな時代にあって、妻の言葉は本当に有り難かった。泣きながら妻に感謝した。
そうして、この店を始めた。初めはなかなか客も集まらなかったが、段々と客足は増えて黒字を出せるようになり、贅沢は出来ずとも、二人で細々と幸せに暮らせるようになった。
時が経ち、また段々と客が減ってきても、二人で打開策を考えて試していくのは、とても楽しかった。妻は、「駄菓子も売ったら、近所の子ども達が集まるんじゃない?」「陳列方法を変えてみようか」「チラシを作って配ってみよう」と、色々な案を出してくれ、二人でたくさん語り合って、夢を描いた。
妻が亡くなった後も、暫くは、妻との思い出が詰まったこの店を守っていかなくては、と奮起して頑張っていた。だが、経営はそう都合良く回復せず、やがて、諦め半分に店を続けるようになり、今は、どのタイミングで店を閉めるべきなのかばかりを考えている。
もう、店を閉めても、「次は何をしようか?」と言ってくれる人はいない。それなら、店を畳んだ後に叶えたい、私の願いは1つだけだ。
いつの間にか、カノンが止まっていたことに気づく。随分と長いこと思い出に浸っていたのかもしれない。
私は腰を上げると、1階の電灯を全て消し、2階へと上がっていった。
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