サンダルでダッシュ!

「課長、そろそろヤバイですよ」

 ある日の仕事中、部下の女性に突然言われた。

 思わず、「え? 何が?」と聞き返すと、女性社員は私のお腹の辺りを指差して、「お腹ですよ。お・な・か」と言った。

 自分で自分のお腹を見やる。いつも通りの、でっぷりとしたビール腹がそこにいた。

 確かに、年々お腹が出てきているし、毎年恒例の健康診断でも、いくつかの項目に〝要観察〝のマークが付くようになってきている。

 「……そんなにヤバいかな」と、お腹を撫でながら聞き返す。本当は自分でも気づいてはいたが、現実から目を逸らしたいのが正直なところだ。自分の眉尻が下がって情けない顔になっていることが、鏡を見なくとも分かった。

 それでも女性社員は容赦なく、「ヤバいに決まってるじゃないですか。Yシャツのボタン、はち切れそうになってますよ」と現実を突きつけた。思わず、うっ、と声が漏れる。くそう、これと同じことを私が言ったら、セクハラだと言われるのに、逆なら良いのか。ズルいぞ。心の中でボヤいた。言い訳のように、「いやあ、年を取るとどうしても、ね」と言って苦笑した。

 「奥さまは何も言わないんですか?」と聞かれて、「いやあ、もうお互い、相手の見た目には口を出さないというか、諦めているというか。結婚して20年も経てば、皆そんなもんだと思うけど」と返すと、女性社員は「そうじゃなくて」と首を振る。「奥さまも、課長の健康を心配されているんじゃないか、ってことです」

 妻の姿を思い浮かべる。昔は普通体型だった妻だが、何年も前から、おやつを食べながらドラマや映画を見ることにハマり、すっかり太ってしまっていた。私がうっかり妻のお腹をじっと見てしまうと、氷河期のように冷たい視線と、虫の居所が悪い時には、私のお腹へとパンチが飛んでくるので、気を付けなくてはいけない。お互い、相手のことはとやかく言えない体型となっている。ある意味お似合いの夫婦だとは思うが、自分を差し置いて、相手の健康を心配しているなんてことは、まあないだろうな、とすぐに思えた。

 結婚に夢を見ていられるのは、結婚するまでだぞ。年を取れば皆おばさんになるしおじさんになるし、太るんだからな。と、心の中で女性社員に伝えた。実際に口に出すと怒られそうなのでやめておく。

 誤魔化すように、「うーん、やっぱり健康のためには痩せた方が良いのかな。何かスポーツでも始めてみようかな。何が良いかな」と言った。

「いきなり難しいスポーツから始めない方が良いですよ。まずはウォーキングから始めたらどうですか」

「ウォーキング? ウォーキングって歩くだけでしょ? ただの散歩と違うの?」

「ウォーキングを舐めない方が良いですよ」

 女性社員は何故か少し得意気な顔で教えてくれる。「ウォーキングは全ての運動の基本になるものなんですから。それに、運動は何よりも続けることが大切なんですから、すぐに始められる簡単なものが良いですよ」

「なるほど」

 確かにそうだと思って、じゃあまずはウォーキングから始めてみようかな、と考える。我ながら単純だ。

「今度の休みにでも、靴を見に行ってみようかな」

「買って満足しないように、気をつけてくださいね」

 女性社員がすかさず釘を指した。我ながら買って満足しない自信がなかったので、苦笑いで誤魔化した。


 その日の帰りの電車は、いつもより混んでいた。そういえば近くの野球場で交流戦があったことを思い出す。車内は観戦帰りの熱気冷めやらぬ人達で、ムッとした空気に満ちていた。

 空いてる席がなかったので、諦めてつり革に捕まった。人々の熱気に車内のクーラーも敵わないようで、とても暑い。ワイシャツが肌に張りついて不快だ。ハンカチを取り出して額の汗を拭うが、拭っても拭っても止まらない。こうなると体臭も気になってくる。密着してしまう位置に女性がいなくて良かった、と思った。しかめっ面をされてしまうと、自分のことかと思ってへこんでしまう。

 目線を上げると、テレビCMで見たことのあるジムの広告が貼られており、引き締まったプロポーションの男性と女性が爽やかな笑顔で私を見ていた。思わず男性のお腹に目が行く。適度に引き締まりシックスパックが少し浮いて見える、理想の腹筋だった。風呂場の鏡に映る自分のお腹を思い出し、脳内で理想の腹筋の横に並べてみる。あまりの差に眩暈がした。

 その時、電車が突然揺れ、少したたらを踏んでしまった。隣のつり革に捕まっていた男性に軽くぶつかってしまい、「すみません」と謝ると、男性は「いえ」とだけ答えて、持っていたスマホへと視線を戻した。

 姿勢を戻してから隣の男性を横目でチラリと見た。通勤用のリュックを背負い、ワイシャツの袖を捲った彼は、今の揺れでも体が傾くもことなく、涼しげな顔で立ち続けていた。きっと、体幹がしっかりしているのだろう。私と違って汗もかいていないし、ワイシャツも肌に纏わりついていない。袖から出ている腕は、適度な筋肉がついていて固そうだ。お腹の辺りに視線を下ろすと、やはり私よりもずっと細かった。

 はあー、最近の若者はやはり体が引き締まっているな。

 心の中で感心しながら、ふと彼の顔を見て、私は口を開けた。私が想像していた年の頃の若者ではなく、私に年の近い、しかし私よりもずっと若々しく見える中年男性だった。

 唖然としていると、ふと彼が私を見て目があった。丁度私の降車駅に着いたので慌てて視線を逸らして降車した。なんなんだ今日は! と心の中で叫んだ。


 降車駅の改札内には、小さな本屋がある。その雑誌コーナーに並んでいた雑誌が目に飛び込んできた。表紙には、引き締まった体をした男性モデルの写真があり、「毎日5分で理想の腹筋」「シューズの選び方AtoZ」「初心者におすすめのスポーツショップ10選」等の文字が踊っている。

 10秒後にはその雑誌を手にレジ列に並んでいたことは、言うまでもない。




 次の土曜日、お煎餅を齧りながらテレビを見ている妻を、「ウォーキングを始めるから、靴を買いに行こう」と誘うと、「どうしたの急に」と目を丸くしていた。

 先日の話をすると、妻は「あ~。私もあなたのお腹、そろそろヤバいなと思ってたのよね」と言った。お前に言われたくない、の言葉を必死の思いで飲み込んだ。視線をうっかり妻のお腹に下ろさないよう、わざとらしいくらい斜め上を見た。もしも考えていることがバレたら殺されてしまう。

 妻は、「どうせすぐ飽きるだろうから、高い靴は買えないよ」と言って、テレビへと視線を戻した。ムッとして、「飽きないさ。運動は続けることが大事なんだから」と、先日仕入れたばかりの言葉で言い返す。

 妻は私をじろりと見ると、黙ってリビングの隅をビシッと指差す。空気を切る音が聞こえるほどの勢いだった。

 妻の指差す先には、ハンガーラックが……いや、あれは昔、私がテレビ通販で見かけて衝動買いしたぶら下がり健康器だ。今はすっかりハンガーラックとして活躍し、本来の機能を発揮したのは何年前だったかも思い出せない。お値段も、〝ハンガーラックにしては〝、割と良いお値段だった気がする。

 同時に、押し入れの奥に眠る、お腹に巻き付けスイッチを入れるだけで電気が流れて腹筋がつく、という魔法道具の存在も思い出す。多分、埃を被っている。

「……マズハ サンポカラ ハジメヨウカナ」

 小声で妻に告げて、そそくさとリビングを後にした。


 玄関まで来てから、そういえば自分は運動向きの靴を全く持っていないことに気がついた。平日は会社と家の往復だけなので革靴しか履かないし、休日は家でゴロゴロして過ごすことが多い。出かけるにしても近所なら突っ掛けのサンダルだ。少し前までは安い普通のシューズも持っていたけれど、長年使ってボロボロになり、靴底が剥がれかけてきたので捨ててしまった。その後、革靴とサンダルだけで事足りてしまっていたあたり、自分がいかに会社以外で外に出ないかを痛感する。

 仕方ないので、ただの散歩だし革靴よりはマシか、と思い、サンダルを履いて外に出た。


 どこを歩こうか考えて、まず初めに近所の商店街を思い浮かべたが、あそこは食べ歩きに適したグルメが多く待ち受けていて、誘惑が多い。今回のような、ダイエット目的のウォーキングという名の散歩には向いていないな、と考えて、川沿いの土手を歩くことにした。

 結果、土手は人も少なく、部屋着に突っ掛けのサンダルという、完全な〝ご近所スタイル〝の私には正解だった。ただ、日陰が少なく、日差しが容赦なく照りつけてきたので、とても暑かった。手で汗を拭いながら、次は帽子を持ってこようと考えた。


 暫くブラブラと歩いてから家に戻った。歩くだけなら、普段も通勤で歩いているから余裕だろう、と思っていたが、ちゃんと歩くと意外と疲れるもので、軽く息切れしながら玄関のドアを開けた。

 玄関で娘と鉢合わせた。娘は私の姿を認めると、開口一番「うわっ!」と声を上げて、思い切りしかめっ面をした。そして「汗やば。キモ」と言った。

 自分で自分の服を見て、すぐに理解した。今日、私はよりによって、灰色のTシャツを着ていた。たっぷりとかいた汗がTシャツに染み込み、灰色だったはずのTシャツが黒へと変化しするほどの、大きな模様が出来ていた。

「仕方ないだろう。運動してきたんだから」と言って家に上がると、娘が「やだやだこっち来ないでよ! 汗臭い!」と言いながらバタバタとリビングに逃げていった。おい待て仮にも一家の大黒柱に向かってその言い草はなんだ、と思ったが、娘の悲鳴を聞き付けて玄関に出てきた妻が私の姿を見て、眉をきゅっとしかめると、「丁度良いわね。シャワー浴びるならついでにお風呂洗ってくれる?」と命令を下されたので、黙って風呂場へと向かった。


 風呂上がり、真っ直ぐに冷蔵庫に向かって、ドアを開けると、キンキンに冷えた缶ビールへと手を伸ばした。すると、夕飯を作っていたはずの妻がいつの間にか音もなく私の背後に回り込んでおり、指先が缶ビールに触れた私の右腕をがっしりと掴んだ。

 恐る恐る妻を振り返ると、妻はニッコリと笑顔で私を見返した。それから、糖質ゼロをうたう缶ビールを掴み、私へと差し出した。こんなの昨日まで入ってなかったじゃないか。いつの間に買ったんだ。私がウォーキングを始めるのを予期してたんじゃないだろうな。

 私は震え声で妻へと尋ねる。「……今日、歩いてみて、運動用のTシャツが欲しいなと、思ったんだけど……」

 妻は良い笑顔のまま、「黒いTシャツなら、持ってるじゃない」と答えた。

 私は、妻にウォーキングを始めることを明かしてしまったことを、心の底から後悔した。




 それから、週末はサンダルで土手を散歩するのが習慣になった。自分でも習慣付けられるか心配だったのだが、サボろうかと思って家でゴロゴロしていると、私の脳内を読んだかのように、妻がこれ見よがしにハンガーラック……じゃなくてぶら下がり健康器を見つめて、大きなため息をつくのだ。それに、家にいても大してやることもなく暇なので、暇潰しも兼ねて歩くと、意外と続けることが出来た。

 土手を歩きながら、あと何回くらい続けられたら、妻にもう一度、運動用の服とスニーカーの購入を交渉しようか考える。以前は気にも止めなかった、近くのショッピングモールに入っているスポーツ用品店のチラシを、最近は必ずチェックしているので、セールの大体のタイミングは把握している。セールのチラシとともに交渉すれば、なんとかいけるかもしれない。


 そんなことを考えながら歩いていると、川縁に高校生くらいの男子が二人、周りの景色を見回しながら、熱心に話をしているのが見えた。


「まずはあの辺をこっちからこっちにぐる~っと撮ってさ、主人公が真ん中に来たところでピタッと止める」

「この季節なら夕日はあっちに沈むから、この道を向こうに向かって歩けば、きっと良い感じに西日が当たるよね。あ、でもイズミの影がフレームに入っちゃうかな」

「そもそもコバヤシの脚本だと、ここはむしろ逆光を狙った方が良くないか?」


 イズミと呼ばれた男子が、両手の親指と人差し指で作った四角形のフレームを、あちこちへと向けている。もう一人のコバヤシと呼ばれた天然パーマが印象的な男子は、手に持ったノートと友人の作ったフレームとの間で視線を往復させながら、熱心に考えを述べている。


 ははあ、自主製作映画の話をしているのか、とすぐに合点が言った。というのも、何を隠そう、私は大学時代に映画サークルに入っていた。年に一度、短いながらも自主製作した映画を発表する、映画〝製作〝サークルだ。

 男子高校生達の生き生きとした表情を見て、大学時代を懐かしく思い出した。卒業してから暫くは、サークルの仲間たちとも連絡を取り合っていたが、今はすっかり疎遠になっている。あいつら、元気にしてるかな。

 周りをぐるりと眺めると、何の変哲もない、特に眺望が良い訳でもない、住宅街を流れる普通の川が、なんだかどこかの映画に出てきていたような、映画のロケ地のような、雰囲気が良い景色のような、そんな気がしてくる。我ながら単純だ。

 見方を変えると、いつもと同じ景色も、なんだか楽しく見えるもんだな、と、新鮮な気持ちになり、足取りが少し軽くなった。




 ある日、いつもと同じ〝ご近所スタイル〝で土手を散歩していた。今日も天気が良く、バッチリと汗をかいている。でも初めの頃ほど息も切れなくなったし、歩く距離も少しずつ伸ばすことが出来ていた。お腹の出っ張り具合にはあまり効果は見られないけれど、体力は確実についてきているのを実感できていた。それが嬉しくて、妻を口説き落とし、シューズとウェアを手に入れた暁には、軽く走り始めてみようと決めていた。

 ちゃんと運動として走るのなんて、高校生以来になるんじゃなかろうか。普段の生活で走る場面なんて、電車に乗り遅れそうになって駆け込む時と、突然の雨に降られた時くらいだ。

 機嫌良く歩いていると、ズボンのポケットに入れた携帯電話が震えた。私に連絡をしてくるのは妻くらいのものなので、お使いでも頼まれるのかな、と思いながら携帯を開くと、娘の名前が表示されていた。娘は私に用事がある場合は、何故か妻を間に挟んで伝えてくることが多いので、直接私に連絡をしてくることは殆どない。それも、メールじゃなくて電話だ。

 頭の中を疑問符でいっぱいにしながら電話に出ると、娘の「……お父さん?」というか細い声が聞こえた。「そうだけど」と答えると、娘が震える声で「お母さんが倒れた」と告げた。

 頭の中が真っ白になり、思わず足が止まる。娘が「救急車呼んで、今一緒に病院に向かってる」と言った。

 慌てて、「どの病院!?」と聞くと、娘の声が遠ざかる。どうやら周りの救急隊員にでも尋ねているらしい。娘の声が戻ってきて、病院の名前を告げた。「お父さんもすぐ行くから!」と告げて電話を切った。

 土手を降りる階段に向かって走りながら、病院の位置を頭の中で思い描く。普段だったら車を使う距離だが、今から急いで家に戻って車を出すのと、近くでタクシーを拾うのと、どちらが早いだろうか? この辺りはタクシーはあまり走っていない。大通りまで行かないと拾えないかもしれない。だったら家まで戻った方が早いか? いやそれよりも電話でタクシーを呼ぶか。でも携帯電話にはタクシー会社の番号を入れていない。調べればすぐに出てくるだろうけど、普段電話とメールにしか使っていないので、携帯電話でのインターネットのやり方がよく分からない。

 決めきれないまま土手を降りると、足は勝手に病院の方角に走り出していた。走り出しながら、決意した。

 途中でタクシーを拾えたら拾う。とにかく今は、走って病院へ向かう!




 案内された部屋に入り、間仕切りのカーテンをそっと捲ると、妻がベッドに横になっていた。その左腕には、点滴が繋がっている。ベッドの傍らに置かれた簡易的な椅子に、娘が腰かけていた。妻と娘が、同時に私を見た。数秒間沈黙が降りた後、妻が最初に口を開いた。「……まったく、ただの熱中症なのに、二人とも大袈裟なんだから」

 娘が口を尖らせながら、「……だって、びっくりしたんだもん」と拗ねたように言った。


 結局、病院に着くまでにタクシーを拾うことは叶わず、途中何度か走りを早歩きに変えて休んでしまいながらも、止まらずに自分の足で病院へ到着してしまった。

 ぜえぜえと息を切らし、滝のような汗をかきながら、受付に倒れ込むように辿り着くと、息も絶え絶えに妻の名前を告げた。

 受付の女性は驚いていたが、すぐに事情を把握してくれたようで、私を妻が休んでいる部屋へと案内してくれた。その道すがら、妻は熱中症で倒れたことと、点滴をしているので、暫く休んだらもう大丈夫なことを教えてくれた。


 しょげている娘を見て、私は、「いや、救急車を呼ぶべきか呼ばなくても良いかなんて、素人には分からないんだから、迷ったらすぐに呼んで良いんだよ」と、フォローを入れた。娘はパッと顔を上げて、「だよね!?」と勢い込んで答えた。

 その後、二人から話を聞くと、娘が2階の自室から降りてきて、妻の姿を探すと、浴室で倒れていたのを見つけたらしい。慌てて声をかけると、意識はありつつも辛そうにしていたので、急いで救急車を呼んだそうだ。妻いわく、浴室の大掃除をしているうちに具合を悪くしてしまったらしい。浴室は空気がこもるから、そのせいかもしれない。

 なんにせよ、命に関わるような、大きな病気ではなくて本当に良かった。心の底からホッとして、胸を撫で下ろした。


「そういえばあなた、まさかここまで走ってきたの? サンダルで?」

 妻がふと気づいたように言った。妻と娘の視線につられて、自分の足下を見る。土手を突っ掛けのサンダルで走ったせいで、足には草がそこかしこに飛び散っていて、足の爪の間には土が入り込み、これで病院に入ってしまったのか、と心配になるほど汚れていた。土手を降りた後も走り続けたいせいで、足とサンダルが擦れて、足があちこち擦れて赤くなっていた。

「そういえばそうだった。途中でタクシーを拾おうと思ったんだけど、拾えなくて」

 言いながら、被っていた帽子を脱ぐと、娘が「うわっ!」と声を上げた。「お父さん、髪ヤバいよ!」と言って、手帳型のスマホケースに付属している鏡を向けてくる。

 スマホケースごと受け取ろうと手を伸ばすと、汗だらけの手で触られたくないらしく、ひょいっと避けられた。仕方なく、腰を屈めて鏡を覗き込む。

 映った姿に衝撃を受けた。帽子を被ったまま大量に汗をかいたので、ただでさえ日々ボリュームが減ってきている髪の毛が、いくつかの束になって頭皮にペタリと貼りつき、なんとも悲壮感漂う姿になっていた。

 鏡を見ながら暫く絶句していると、「失礼します」と声がして、カーテンが開いた。看護師が顔を覗かせ、「オオシマさん、ご気分はどうですか?」と妻に尋ねた。

 妻は、もうすっかり気分が良くなったことと、処置へのお礼を丁寧に看護師に告げた。看護師は笑顔で、点滴はあと30分くらいで終わるので、そうしたら帰っても大丈夫ですよ、と告げた。

 それから、「あ、あと旦那さん。これ、良かったらどうぞ」と言って、ペットボトルのスポーツ飲料を私にくれた。「この暑い中、走ってこられたんでしょう? 水分を取らないと、旦那さんも倒れちゃいますよ」と言って、カラカラと笑った。

 すっかり恐縮しながら、何度も頭を下げて受け取ると、看護師は出ていった。

 娘は、私の手の中の冷えて汗をかいているペットボトルを見て、「良いな~。あ、30分あるなら私もコンビニで何か買って来ようかな。ついでにタオルとかウェットティッシュも買ってくるよ」と言いながら立ち上がると、私に黙って片手を差し出した。

 ……まあ、娘は財布を持ってこなかったようだし、タオルやウェットティッシュは、私のためだろうし。

 そう自分の中で納得させて、娘に千円札を渡すと、さっきまでしょげていたのが嘘のように、ルンルンと部屋を出ていった。


 妻と二人きりになって、とりあえずさっきまで娘が座っていた椅子に腰かけた。座ると疲れがドッと噴き出してきて、もう二度と立ち上がれないような気がしてくる。

 さっき見た自分の衝撃の姿を思い出しながら、ため息とともに、「俺も年を取ったなぁ」と妻に告げ、ペットボトルの蓋を開け、一口飲んだ。

 妻は「そうね」とだけ答えて、私をじっと見た。え、まさか、そんな糖分の多いものを飲んで、なんて思ってる訳じゃないよな? 流石に違うよな? それとも、この情けない姿を見て、呆れているのか?

 そんなことを思いながら黙っていると、妻がちょいちょいと、手招きをした。

 椅子を引き摺りながら妻の顔の方へと近づくと、妻は私の汗だらけの髪へと手を伸ばし、私の髪の毛を軽く手櫛で整えた。多分、七三分けになっていると思う。

 この汗まみれの髪の毛に触るのが嫌じゃないのだろうかと思っていると、妻は手を下ろすと、「走ってきてくれて、ありがとう」と言った。「私のために、そんなに一生懸命走ってきてくれて、本当に嬉しい。大好きよ」

 久しく聞いていない、妻の真っ直ぐな愛の言葉を、すぐには理解できず頭の中で何度か繰り返した。やっと意味を理解すると、途端に恥ずかしくなって、「え、あ、いや、え」と、言葉にならないことをボソボソと呟きながら、俯いてしまう。せっかく汗が引いてきた顔が、一気に熱くなるのが分かった。

「ウォーキング、続いてるね。今度、靴と服、買いに行こうか?」

 妻が聞いてくる。念願のお許しが出て嬉しいけれど、さっきの愛の言葉なんてなかったかのような涼しげな顔に、少し悔しくなる。

 仕返しのつもりで、頷きながら言った。

「うんと速く走れるような靴を買おう。いつだって、どこからだって、お前のためなら全力で駆けつけるよ」

「なにバカなこと言ってるのよ」

 妻はそう言って笑ったが、頬は少し赤くなっていた。




 後日、私のために苦言を呈してくれた女性社員に、ウォーキングが続いている旨を報告し、感謝を述べた。ついでに、先日病院まで走ったことも話してみる。

 女性社員は、「課長、王子様みたいですね!」とハイテンションで言った。思わず苦笑いをする。「50近い、ビール腹の王子なんているもんか」

「課長、分かってないですね。女子にとっては、相手の見た目や年齢じゃなくて、自分のピンチに全力で駆けつけてくれるのが、嬉しいんじゃないですか」

「そういうもんか」

「そういうもんです。これを機に、奥さんと二人でウォーキングされてみてはどうです? 話し相手がいれば、歩くのももっと楽しくなるんじゃないですか?」

「なるほどね」

 頭の中で、妻をウォーキングに誘うところを想像する。きっと妻は、まずはシューズとウェアを買おうとするだろう。形から入ろうとするのは、私も妻も同じだ。

 そこで私が、偉そうに「シューズとウェアを買うのは、ウォーキングが習慣づいてからだよ」と、ニヤニヤしながら告げる。

 妻の氷河期のような冷たい視線と鋭いパンチが、私のお腹に飛んでくるところが、はっきりと想像できた。

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