間違いなく君だったよ
僕がオオモリ君達から嫌われたのは、僕の髪の毛が天パだからだろうか。話し始めるときにどうしてもドモってしまうからだろうか。ニキビ面だからだろうか。成績も運動神経も良くないからだろうか。
雨の日はいつも以上に憂鬱だった。だから梅雨の間はほぼ毎日が暗い気持ちになってしまう。洗面台の鏡の中の自分の自由すぎる髪を見て、僕は深い溜め息をついた。
出発の準備を終えて家の外に出ると、分かっていたことだったけど、やはりしとしとと細かい雨粒が止めどなく空から降ってきていた。もう一度溜め息をついて、玄関外の傘立てに入っているビニール傘を手に取った。誰もいない家に鍵をかけ、学校へと向かった。
教室に着くと、誰にも挨拶することなく席についた。皆僕が入ってきたことには気づかないようで、それぞれの会話に興じていた。教室に入った時に注目される方がむしろ嫌なので、それは全く気にならない。
そのすぐ後に、オオモリ君が教室に入ってきた。彼が声を発するより前に、教室にいる人間の多くが彼に気づき、教室のあちこちから、おはよーと声が飛んだ。オオモリ君はポケットに手を突っ込んだまま、気だるそうに「おす」とだけ答えていた。
オオモリ君が彼の席に行くときには、僕の席のすぐ後ろを通る。この時、オオモリ君が僕に話しかけてくることがあるので、僕は少しドキドキする。けれど、今朝はオオモリ君は僕に何も声をかけてこなかった。その代わりと言っては難だけど、
「コバヤシ、お前雨の日だとより一層髪すげえのな!」
オオモリ君と仲が良い男子の一人に絡まれた。彼は僕にしなだれかかるようにしながら、僕の髪の毛をわしゃわしゃと無遠慮にかき回した。そして、僕が何と返そうかと考えているうちに、「やべっ、またクモがいるかも!」とわざとらしく慌てて僕から飛びすさった。その様子に教室のあちこちで笑い声が起こった。女子の何人かはキャーッと甲高い悲鳴をあげている。僕は思わずオオモリ君の方をチラリと窺ってしまう。彼はそんな教室の騒がしさがまるで耳に入っていないかのように、全く無関心な様子で、机の上に鞄を無造作に置くと、自分の椅子に浅く腰かけていた。
その事件は5月に起こった。その日はまだ梅雨入り前で、暖かい五月晴れが何日も続く、まさに春らしい陽気の頃だった。
その頃の僕も、今と変わらずクラス内の地位は高くなかったけれど、今のようにあからさまな扱いを受けて笑いの対象にされることは、なかったはずだ。
午前の授業中、僕の隣の席の女子が突然、悲鳴を上げた。僕や授業をしていた教師を含め、教室中が驚いて、彼女に注目した。彼女は席を立って僕から距離を取っていた。そして、僕を、正しくは僕の髪を見ながら、「コバヤシ君の髪から、クモが!」と叫んだ。
これが、僕が後に"クモ事件"と呼ぶことになる出来事である。
あの時僕の髪から出てきたらしい小さなクモは、春の陽気ですっかり暖まっていたであろう僕の髪を、木が生い茂った森かなにかと勘違いしたのだろうか。
僕の"嫌いな季節ランキング"の永遠の1位は梅雨だが、虫達が活気付く春が、第2位に入ることが、その時決まった。ちなみに"嫌いな虫ランキング"の1位は当然クモである。
その日からクラス内での僕の扱いが、あからさまなものになってしまったので、少し悲しかったけれど、オオモリ君は違った。事件の前も後も、僕になんて興味はなさそうだった。
オオモリ君は、クラスカースト上位の人物である。サッカー部に所属していて、彼の周りにはいつもサッカー部仲間がたくさん集まっていた。あまりお喋りではなく、どちらかと言うと寡黙というか、ぶっきらぼうというか、クールなタイプで、それが一部の女子達の人気を集めていると聞いたことがある。もちろん、髪の毛はサラサラで、肌も綺麗だった。
オオモリ君は僕を直接からかってくるどころか、あまり顔を見てくれないし、名字で呼んでくれることもなく、必要なときには僕のことを「君」と呼んだ。
朝、僕の席の後ろを通るときにふと立ち止まり、「君の髪って、天然なの」とか、「君って何部なの」とか、「帰宅部なら、帰った後何してるの」とか、眠そうに、自分から聞いておきながら興味無さそうに、質問してくることがあった。僕は、それが嫌ではなかった。自分の聞きたいことを聞きたいときに臆せずに聞いて、自分の興味のあること以外には全く意識を向けない、そんな自由でなんだかフラフラとした生き方を、格好良いとすら感じていた。
僕に話しかけてくる以外の時は、まるで僕などいないかのように振る舞っているところも含めて、嫌いではなかった。
昼休みになると、僕はいつも2つ隣の教室へと向かう。このクラスには、中学から友達のイズミ君がいる。僕の学校の食堂は、教室がある建物とは別棟になっていて、昼休みには靴を履きかえ、今日のように雨が降っていたら傘を差し、食堂へと向かう必要がある。僕は入学以降ずっと、食堂への行き帰りはイズミ君と一緒だった。
いつものようにイズミ君に声をかけて、一緒に昇降口へ向かった。上履きから靴に履き替え、大量に、そして無造作に傘がささった傘立てから自分の傘を探しだして開き、雨の中をイズミ君と横並びで歩いた。話題はずっと、映画のことだった。僕もイズミ君も映画が大好きで、古いものから新しいものまで、邦画から洋画まで、たくさん見てはその感想を述べあったり、勧めあったりしていた。最近は、自分達ならどんな映画を撮りたいか、という話題で盛り上がっている。
事件が起こったのは、その日の放課後である。
一緒に帰るため、僕とイズミ君は二人で昇降口に来ていた。その日の雨は放課後になっても降りやまず、外での活動を基本としている部活動は、休みになったらしい。いつもよりも多くの人間が帰宅のために一斉に昇降口に集まっていた。その人だかりの一部が騒がしい。何事かと様子を見ていると、一人の男子が無惨にもバキバキに折れた黒い傘を持ち、怒っていた。人だかりの隙間から見ると、今朝僕の髪の毛をからかってきた、オオモリ君と仲の良い男子だった。
「誰だよ、俺の傘折ったやつ!」
彼が周りの人だかりへと声を上げた。それまで口々に騒ぎ立てていた人は皆一斉に口をつぐみ、一気にその場は静かになった。皆黙ったまま周りの様子をキョロキョロとうかがっている。
黒い傘は、特に特徴がある訳でもなかったので、誰かが間違って使ってしまったのかもしれないと思えた。でも、特に風が強かった訳でもないので、単に使っただけではあそこまで見事にボロボロになるとは思えない。誰かが、悪意を持ってその傘を折ってしまったと考えるのが、自然かもしれない。
静寂がその場を支配している時、傘を折られた男子の近くに、オオモリ君がいるのに気がついた。傘を折られた男子と一緒に帰ろうとしていたのかもしれない。僕がなんとはなしにオオモリ君を見ると、ふとオオモリ君が僕に気がついた。少しの間目があった後、オオモリ君の口が開いた。
「やったの、コバヤシだよな」
周りの人が一斉に僕を見た。僕は、へ? と小さく声を漏らし、固まってしまった。イズミ君も、ぽかんとした様子で、オオモリ君を見た。
傘を折られた男子が、「コバヤシが?」とオオモリ君に聞くと、オオモリ君は頷いてから、話し出した。
「食堂から戻ってきたとき、後ろを見たら、コバヤシもちょうど戻ってきたところで、自分の傘を傘立てに差した後、黒い傘を取り出してた。自分の傘を戻したのに、何をするのかと思ってたけど、そういうことか」
「ちょちょちょちょっと待って」
僕は慌てて声を絞り出した。いつの間にか僕とオオモリ君の間にいた人達は端に避け、僕とオオモリ君との間には道が出来ていた。
「ぼ、僕じゃない。やってない。お、オオモリ君の、み、見間違いじゃない?」
早く否定しなくてはと焦ると、いつも以上にドモってしまう。心配した通り、被害者の男子はじっとりと僕を睨んで、「そんなにドモるなんて、怪しい」とはっきりと口にした。「今朝のこと、そんなに恨んでたのかよ? あんなのただのおふざけだろ」とも付け加えた。そうか、僕には犯行動機もあるのか、と思うとますます心臓の鼓動が早くなる。
「違うよ。僕、コバヤシと一緒に食堂から戻ってきたけど、そんなことしてなかったよ」
イズミ君が慌てて弁護してくれる。小さな声だったけれど、僕のようにドモってしまうこともなく、はっきりと否定してくれた。イズミ君の背中に天使の翼が見えた気がした。
「そんな、仲の良いやつの証言なんて、当てになるわけないだろ。やってないなら、やってない証拠でもあるのかよ」
被害者男子が吐き捨てる。君だって仲が良いオオモリ君の証言を信じきってるじゃないか、僕がやった証拠でもあるのか、と言おうかと迷ったけれど、ますます怒らせてしまう気がしたのでやめておいた。
「と、とにかく、僕じゃない。や、やってないよ」と、何の説得力も加えられないまま、もう一度訴えることしか出来なかった。
被害者男子は暫くの間僕を睨むと、チッとあからさまに舌打ちして、「行こうぜ」とオオモリ君に声をかけて、雨に濡れるのも気にせずに外へと歩き出した。被害者男子の友人達がそれを小走りで追いかけ、自分の傘を差し出して彼が濡れないようにしていた。
オオモリ君は僕を数秒間じっと見た後、くるりと振り返って、その後をのんびりと追っていった。オオモリ君の瞳からは何の感情も読み取れず、僕はただただ困惑した。
その場には、呆然とする僕とイズミ君と、それを遠巻きに見ている野次馬達だけが残された。
その次の土曜日は、どんよりとした曇り空ではあったけれど、久しぶりに雨は降っていなかった。でも、僕は雨の日と同じように憂鬱だった。あの事件以来、僕は教室でまるで腫れ物みたいな扱いに降格していたからだ。周りからは、思いがけず犯行を目撃されていた僕が、頑なにそれを認めずに否定し続けているように見えているのかもしれない。
オオモリ君と話をしたかったけれど、オオモリ君の側にはあの被害者男子がいることが多かったので、それも叶っていなかった。
外を歩いて少しでも気分を晴らそうと、レンタルビデオショップへと行くことにした。今日は曇りのままギリギリ持ちこたえる予報だったので、鞄に財布と携帯と折り畳み傘だけ入れて、家を出た。
行きつけのレンタルビデオショップは、近所の商店街の中にある。雨は降っていないものの、湿度が高い空気の中をトボトボと歩いていると、パン屋の前を通りがかる。帰りに寄ろうかな、と考えて、窓の外からパンを眺めていると、パン屋の外にいる高校生くらいの女子と、犬を散歩中らしい小学生くらいの男子の会話が、耳に入ってきた。
「ハナってさ、なんかパン屋っていうより、和菓子屋さんっぽいよね」
「そう? どういうところが?」
「肌が白くて、すべすべで」
「あら」
「……なんか、もちもちしてそうなところ」
「誰が大福だって?」
「いひゃい」
思わず目をやると、女子高生が小学生男子の頬をつねっていた。小学生男子は顔を赤くしていて、僕は少しだけ笑ってしまった。
行きつけのレンタルビデオショップについて、いつものように棚を眺めた。何を借りようかと考えるけど、いつもよりも心は踊らなかった。棚に並んだ映画のDVDやBDのケースは、大抵はタイトルだけが見えるように並んでいるけれど、お勧めのものはジャケットが見えるように置いている。
その中に、赤い傘が印象的なジャケットの映画があった。雨の中、まるで透明人間が持っているかのように赤い傘が浮かんでいて、黄色いワンピースを着た女の子に傘が差し出されている写真だった。お洒落なジャケットだったけれど、今は傘を見るだけで、あの日のことを思い出して少しへこんでしまう。
いつもの順番で棚を見ていった僕は、貸し出しレジの近くにある、各ジャンルのお勧めの映画を集めた棚の前に、オオモリ君を見つけて足を止めた。オオモリ君は、いつもと同じ、興味のなさそうな、義務だから仕方なく、といった顔で棚を眺めていた。
僕が、声をかけようかどうしようか迷っていると、オオモリ君はふと棚を眺めるのをやめてしまい、店を出ていった。僕は、慌ててその後を追いかけた。
「お、オオモリ君」
店を出たところで、声をかけた。足を止めて振り返ったオオモリ君は、僕を認めると、「ああ」とだけ言った。もしかしたら少しでも気まずそうな顔をするんじゃないか、と思った僕の予想は外れた。
なんと話し始めれば良いのかと少し迷って、思いきって直球で聞くことにした。「な、なんで、う、嘘をついたの」
オオモリ君は、表情を変えないまま、首を傾げた。何の話か分かってもらえないとは思っておらず、僕は慌てて情報を付け足した。「あ、あの、ほら、こ、この間の、か、傘のこと。折れた、傘が」
そこで初めてオオモリ君は、合点がいったように、ああ、と言った。「だって、見たから」
僕は、混乱した。オオモリ君が友達相手に嘘をつくなら、まだ分かる。けど、僕本人に嘘をついても、僕にはそんなこと嘘だって分かりきっている。だって、僕本人のことなんだから。
あ、もしかしてこういう人をサイコパスっていうのかな……と、僕は気づいた。僕の、オオモリ君に対する好意的なイメージが、音を立てて崩れていくのが分かった。なんだか泣きたくなってくる。
「ぼ、僕、オオモリ君のこと、き、嫌いじゃなかったんだ」
思わず、そんなことを言ってしまう。まるで情に訴えかけているみたいだ。
オオモリ君は、少しだけ驚いたふうに、ほんの少し目を見開いた。オオモリ君の表情が変わったのを見たのは、ほとんど初めてかもしれない。そして、「俺は、君のこと、そんなに好きじゃない」と、ご丁寧にも教えてくれた。
僕は、一応「な、なんで?」と聞いてみた。僕は、オオモリ君とちゃんと話をしたことが殆どない。となると、何か気にさわることをしてしまったのではなく、僕の見た目や、話し方の問題だろうか。
オオモリ君は、たった一言、「名前」とだけ言った。思わず、「な、名前?」と聞き返したけれど、オオモリ君は、頷いただけで、何も言わなかった。
沈黙の時間が続き、ここからどう話せば良いのか分からなくなった僕の頭の中を、様々な光景が駆け巡った。
あの日の空模様。食堂までの道のりで開いた僕のビニール傘。バキバキに折られてしまった黒い傘。僕に背を向けてのんびりと歩き出すオオモリ君の背中。今日のどんよりとした曇り空。赤い傘。黄色いワンピース。
そこで、はた、と、僕は気がついた。そして、オオモリ君に聞いた。
「お、オオモリ君は、ぼ、僕が僕の傘を傘立てに戻してから、く、黒い傘を取り出したのを、み、見たんだよね?」
オオモリ君は、黙って頷いた。僕は、唾を飲み込んでから、さらに尋ねた。
「ぼ、僕の傘は、な、何色だった?」
オオモリ君の目が暗くなったのを感じた。その暗い目が、僕の手元へと向けられる。だけど、今日の僕は、折り畳み傘しか持っていない。オオモリ君の視線が、僕の目へと戻ってくる。オオモリ君は、黙ったまま、何も言わない。
「や、やっぱり、う、嘘だよね。な、なんで嘘をついてたのかは、も、もう良いから、こ、この間の話は嘘だったって、い、言ってくれないかな」
僕は、オオモリ君を見て、必死に頼んだ。オオモリ君は光を失った目をしたまま黙っていた。僕は、オオモリ君が頷いてくれるのを、祈った。
オオモリ君は、しばらく黙った後、「あれは、」と口を開いた。僕は、期待とともに、次の言葉を聞いた。
「間違いなく君だったよ」
僕の口からは、へ……? という、声にも満たない、空気しか漏れなかった。
オオモリ君は、それだけ言うと、振り返って、また歩き出してゆっくりと去って行ってしまった。
オオモリ君との会話は、まるで、言葉の通じない、瞳から感情を読み取ることもできない、爬虫類とコミュニケーションをはかろうとするかのようだった。
どんよりとした曇り空の下、僕は一人取り残され、それ以上何も出来ずに、去り行くオオモリ君の背中を見送った。
曇り空から、堪えきれなかったかのように、雨粒が一粒だけ降ってきて、僕の頬を濡らした。
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