午前三時の小さな冒険

 音を立てないよう、慎重に家を出た。首から下げていた鍵で、ゆっくりと鍵をかける。普段は学校から帰ってきたときに使っている鍵だ。鍵をかけるのに使うのは、珍しい。

 静かに行動していたのに、庭で寝ていた飼い犬のチャタロウがふと顔を上げ、僕の顔を見た。立ち上がって尻尾を振り始める。散歩に連れていってもらえると思ったみたいだ。僕は慌てて、人差し指を口の前に立てて、しーっ! と言った。「〝こんな時間〝に散歩なんて、行ったことないだろ!」と小声で告げると、尻尾が振られるスピードが、少しだけゆっくりになった気がした。

 門をゆっくりと開けて体を家の敷地の外に滑り出し、すぐに閉めた。古い門が小さな金属音を立ててしまって、心臓の鼓動が少しだけ早くなる。僕の一連の行動を、チャタロウは不思議そうに見ていた。

 左手首にしている腕時計を見る。小学生向けの雑誌の付録だった時計だ。アナログの数字が、今は3時の少し前だと告げていた。辺りは真っ暗。3時は3時でも、いわゆる〝おやつの3時〝ではなくて、〝夜と朝の間の3時〝だからだ。

 僕は、〝こんな時間〝に外にいたことは勿論、記憶の限り、起きていたことすら、ないと思う。

 どこに行くのかは決めていない。それでもできる限り遠くへ行ってみようと考えて、リュックを背負いなおしてから歩き始めた。


 初めは僕も知っている道が続いた。途中、友達とよく遊ぶ公園に出る。見慣れた公園のはずなのに、暗闇に沈む公園は、まるで魔界への入口のように、禍々しく見えた。その木が左目に、あの木が右目に、砂場が開かれた口に……まるで大きな顔が笑って僕を誘っているように見えてくる。

 怖くて顔を背け、自分の爪先だけを見て、早足で通りすぎた。


 しばらく住宅街を歩き続ける。道には誰もいなくて、どの家も電気はついていない。そこにあるのは頼りなげな外灯のぼやっとした灯りと、静寂だけだった。あまりにも静かで、本当にそれぞれの家に人がいるのか、疑いたくなってくる。これだけたくさんの家が、全て空っぽなんじゃないかと、思えてくる。

 ガサガサッという、大きな音がして、僕は飛び上がった。続いて猫が威嚇する時の、フーッ! という鳴き声も。猫がどこかで喧嘩しているみたいだ。

 チャタロウを、つれてきた方が、良かったかも!

 怖くてたまらなくなって、泣きそうになりながら、僕は走り出した。


 少し走ると、コンビニが見えてきた。強く明るい光にホッとしたのもつかの間、その駐車場に大学生くらいの人達が何人か集まって談笑しているのを見て、思わず足を止めた。あの人達の目の前を通りすぎるのには、僕には勇気が必要だった。そもそも、僕のような子どもが、〝こんな時間〝に、一人で外を歩いているのを見られるのも、まずいというのに。

 僕が大人だったら、どんな時間でも、どんな場所でも、堂々と一人で歩けるのかな。

 家を出てからは出来る限りまっすぐ進んでみると決めていたけれど、仕方がない。コンビニの手前の角を曲がり、とうとう知らない道を歩き始めることにした。




 知らない道に入ると、外灯の数が減って、暗い場所が増えたようだった。これで、本当に家には戻れなくなるかもしれない。どんどん、心臓の鼓動が早くなってくる。

 ずっとただのアスファルトの道を歩いていたけど、しばらく行くとタイル敷の道へと突き当たった。タイル敷の道は、左右へと続いている。色の違うタイルで、道に規則的な模様が描かれていることに気づいた。道の左右に並ぶ外灯も、少しだけお洒落なものに変わっている。その外灯のランプの下を見て、ここは商店街なのだと知った。

 ママの買い物について行くことはあるけれど、行くのは大抵駅の近くのショッピングモールや大きなスーパーだ。この商店街には初めて来た。というか、商店街があることも、初めて知った。

 少しだけ考えて、商店街を歩いてみることにした。十字路を右に曲がって、タイルの上を歩き始めた。


 タイル敷の道を歩きながら、左右の店を改めて見ていくと、確かに同じくらいの大きさのお店がズラッと並んでいた。その多くは店先のシャッターを閉めている。〝こんな時間〝だから、当たり前だけど。でも、看板を見れば実に色々な店が軒を連ねていることが分かった。ドラッグストア、洋服屋、雑貨屋、惣菜店、本屋、クリーニング、ゲームセンター、喫茶店、八百屋、文房具店、ファーストフード、魚屋、ケーキ屋、和菓子屋、寝具店、手芸屋、不動産屋、それから……

「どこに行くの?」

 突然声をかけられて、僕はまた飛び上がった。

 声のした方を見ると、中学生か高校生くらいの女の人が立っていた。手にはホウキとちり取りを持っている。その女の人が立っているのは、パン屋の前だった。店の奥の、厨房の方だけ灯りがついているようで、うっすらと光が漏れている。

「君、ひとり? こんな時間に、どこに行くの?」

 もう一度聞かれる。見つかってしまった。上手く言い訳して逃げないと、と思うけど、頭の中が真っ白になって、何も思い付かない。

「ハナ、お前そんなに若い男引っかけてんのか?」

 今度はパン屋の中から、男の人の声がした。ハナと呼ばれた女の人が振り向く。つられて僕も店の中を見ると、白い服を着た恰幅の良いおじさんが、レジカウンターの奥に立って笑っていた。

「お父さんったら、何言ってんの」

 ハナが笑いながら答えた。しゃがむと、僕と視線の高さを同じにする。そして、

「言いたくない?」

と、優しい声で聞いてくれた。

「……どこに行くか、決めてない」

 僕は、やっと答える。「家出だから」

「家出?」

「うん。なるべく遠くまで、行こうと思う」

「なるほど、大冒険だね」

「止めないでよ」

「止めないよ」

 思わず顔を上げて、ハナの顔を見返した。絶対、止められるか、怒られると思ったのに。ハナは立ち上がると、

「遠くまで行くなら、食料が必要だね。ちょっと待ってて」

と言うと、店の中へと入っていった。

 この隙に走って逃げようか、と一瞬考えたけれど、ハナが戻ってきた時のことを考えると、躊躇した。迷っているうちにハナが「お待たせ」と戻ってくる。手にはもうホウキとちり取りはなく、代わりにビニール袋を下げていた。そして、

「大冒険、途中まで一緒に行っても良い? 食べるのにお勧めの場所があるんだ」

と言って、微笑んだ。僕は、少しだけ迷ってから、小さく頷いた。




 ハナに案内されて、木に囲まれた坂道を上っていく。木が風でざわめく度に、ドキドキするけど、誰かと一緒だと少しだけ心強い。やっと足元だけじゃなくて、道の先や、斜め前を歩くハナの後ろ姿を、眺める余裕が出てくる。

「着いた。ここだよ」

 道の先は少しだけ開けていて、小さな広場のようになっていた。丸太で出来たベンチもある。

 ハナがすたすたとベンチまで行って座って、隣の席をポンポンと叩いて見せた。僕は、そのハナの隣の席に座って、そこで、

「わあ……」

目の前の景色に息を飲んだ。ベンチの正面は木が切り倒されているようで、座ると、小高い丘の上から、僕の住んでいる町が、よく見渡せるようになっていた。そして、

「ね? 良いでしょ、ここ」

目の前で、今まさに、日が上ろうとしているようで、町の向こうの空が、橙色に染まり始めていた。雲も少なくて、遠くまで見渡せる。初めて見るような、綺麗な空の色だった。

「ここから見る日の出が綺麗でね、時々来るんだ。まだ誰にも教えてない特別な場所だから、秘密にしてね」

 ハナが言う。僕は驚いて聞いた。

「いつも、あんなに早起きしてるの?」

「お店がある日は、起きて、よく手伝ってるかな。うちは6時開店だから、4時には準備を始めないと、間に合わないんだよね」

 知らなかった。パン屋って、そんなに早くから準備をしているのか。僕だったら、1日で嫌になりそうだと思った。

「はい、どうぞ」

 ハナがビニール袋の中から、透明の袋に入ったパンを渡してくれる。

「昨日焼いたのだから、微妙かもしれないけど。パンは焼きたてが一番美味しいんだよね」

 袋を覗くと、クリームパンだった。何も食べずに出発したし、歩きっぱなしだったし、途中少し走って、緊張もしていた。急にお腹が空いていることに気づく。クリームパンを一口齧る。

「おいしい!」

「本当? 良かったあ。それ、私が焼いたんだよ」

「そうなの?」

 てっきり、お店の中にいた、ハナのお父さんが焼いたんだと思っていた。

「お店で売ってるやつだと思った」

「嬉しいこと言ってくれるねえ。でも、私のパンなんて、お父さんに言わせたらまだまだなんだって。だから今は、練習中。いつか私の焼いたパンを、一緒に並べてもらえるように」

「あのお店を継ぐってこと?」

「いつか、そうしたいと思ってるんだ。だから、学校を卒業したら、そういうのを勉強できるところに行こうと思ってる」

 ハナの言葉を聞いて、この人は大人、と、僕の中でカテゴライズされた。だって、

「……良いなぁ。やりたいことが決まってて」

やりたいことがある人、そしてそれを目指して行動している人を、僕は、大人だと思う。

「そう? 君は、やりたいことや、なりたいものは、ないの?」

「ないよ。ねえ、なんで大人って、子どもにすぐ将来の夢を聞くの?」

 ハナを不満げに見ると、ハナは、さあ? と肩を竦めて、「子どもの夢の話を聞くのが、楽しいからじゃない?」と、自分だって質問したくせに、まるで他人事のように言った。

「僕のママはね、」

 クリームパンを少しずつ齧りながら、言う。

「僕に将来の夢を聞いて、僕がないって言うと、悲しそうな顔をするんだよ。パパは、いつか見つかるさって庇ってくれるけど、でも僕が塾とかサッカーとか、休みたがると、嫌そうな顔をするんだ」

 ハナは、黙って聞いている。

「次の連休に、サッカーの合宿があるんだ。僕、そんなにサッカー好きじゃないし、だったら友達の家でゲームしてる方が良い、って言ったら、ダメだって」

 ため息をついた。

「僕の将来のためなんだって。なにか他にやりたいことが見つかるまでは、頑張って続けなさいって。そう言われると、何も言い返せなくなっちゃうんだ」

「なるほどね」

「ちゃんと、パパとママが心配しないように、書き置きしてきたよ。『やりたいことを見つける旅に出ます』って」

 僕がそういうと、今まで静かな顔で聞いていたハナが、目を見開いて僕を見てから、大きな声で笑い出した。「何それ! 最高じゃん!」

 今まで僕よりずっと大人に見えていたハナが、そうやってお腹を抱えて笑っているのを見たら、意外と〝子ども〝寄りの人なんじゃないかと思えてきた。もしくは、〝大人と子どもの間〝の人。

 ハナが、息は荒いまま、目尻に浮いた涙を拭いながら言う。

「でもね、その年でやりたいこと見つかってる子の方が少ないと思うから、何も心配しなくて良いよ。むしろ、大人になってもやりたいことなんてない人の方が、多いんじゃないかな」

「そうなの? でも、お姉さんは、パン屋をやりたいって、決まってるんでしょ?」

「そうだけど、私なんて珍しいパターンだと思うよ。それに、」

 ハナが目を細めて、日の出を眩しそうに眺めながら、言う。

「本当になれるのか、分からないしね」

 僕は首を傾げた。

「分からないって、今のお店を、継ぐだけじゃないの?」

「そんなに単純なことじゃないんだよ?」

 ハナが、僕の頭をわしわしと撫でた。そして、溜め息をついて、言った。

「早く、大人に、なりたいなあ」

 僕から見たらハナは大人なのに、何を言っているんだろう、と、僕は不思議だった。

「僕は、大人になりたくないけどなあ」

「君はもう、大人だよ」

 ハナの顔を見ても、冗談を言っているようには見えなかったから、僕にはますます、ハナが不思議な人に見えた。ハナが、続けて言う。

「夜明け前が一番暗い、って知ってる?」

「何? それ」

「ことわざだよ」

「どういう意味?」

「辛いことはもうすぐ終わる、とか、なんかそういう意味かな。だから、君が今暗い道を歩いている気がするなら、もうすぐ夜が明けるよってこと」

「でも、日の出前も、結構明るくなってたよ?」

「昔の人に言っておくれ。私に言われても困る」

 日が上る。木の影がゆっくりと移動して、僕とハナの間を分けた。僕は、朝日の中にいて、笑っているハナは、影の中にいた。




 なんとなく、ハナのパン屋まで、一緒に戻ってきてしまった。腕時計を見ると、6時少し前だった。辺りはすっかり明るくなって、〝夜と朝の間〝は終わり、朝になったことが分かった。商店街の各店も、開店準備を始めたところが多いのか、なんとなく人の生活の気配が戻ってきているのを感じた。

「おい、ちょっと待ちな」

 僕たちが帰ってくると、お店の中からハナのお父さんが声をかけてきた。手に袋を下げて、出てくる。

「せっかく来たんだから、これ、持って行きな。焼きたてのパンは美味いぞお」

 袋に入ったパンを渡してくれた。「良いんですか?」と聞くと、「もちろん」と頷いてくれた。ハナも、「温かいうちに、食べると良いよ」と言ってくれる。そして、僕の耳に顔を寄せて、

「冒険に行くときは、また寄ってよ」

と囁いた。ハナの息がくすぐったくて、僕は顔を赤くしてぎこちなく頷くと、帰り道を走り出した。後ろからハナの「またね!」という声がした。


 音を立てないように、ゆっくりと家の鍵を開ける。チャタロウは、今度はチラッと僕を見ただけで、立ち上がることもなく再度目を閉じて寝てしまう。帰ってきたから、散歩じゃない、って分かっているんだと思う。

 忍び足で自分の部屋に戻って、やっと息を落ち着かせた。手に持ったままだったパンは、まだ温かい。パパやママにこのパンを見られても面倒だから、このまま部屋で食べることにする。

 袋の中身はあんパンだった。まだ温かい焼きたてのあんパンは、びっくりするほど美味しくて、あっという間に食べてしまった。


 こうして僕の、〝大冒険(予定)〝は、〝小さな冒険〝で終わった。




 1週間後、今度はちゃんとママに告げてから、朝早くに家を出た。チャタロウが散歩への期待で尻尾を振る。散歩用のリードをチャタロウの首輪に着けると、空を飛んでいくんじゃないかというほど、尻尾を振るスピードが早くなった。チャタロウを連れて、僕は歩き出した。


 ハナのパン屋の前に着いて、チャタロウはお店の前の車避けのポールに繋いで、お店に入った。開店してからそんなに時間は経っていないはずなのに、お客さんがたくさんいてびっくりした。皆、パンを嬉しそうに選んでいる。

 一人でパンを買ったことなんてないから、ドキドキする。トレイを手にとって、続いてトングを取ろうとして、少し手こずっていたら、大学生くらいのお姉さんが代わりに取って、「はい」と渡してくれた。「ありがとうございます」と、お礼を言った。

 トレイとトングを持って、クリームパンを探す。トングを取ってくれたお姉さんは、二人で来ていたようで、もう一人のお姉さんと会話をしながらパンを選んでいた。


「ハルカ、パン何個くらい食べれそう?」

「うーん、3個ぐらいかな? アキラは?」

「私は2個くらいかな……いや、3個いけるかも……」

「じゃあ全部で5個、違うの買って、半分こずつして全種類食べる?」

「そうだね」

「今日はすごく良い天気だけど、昨日少し雨降っちゃったからな~。公園のベンチ、濡れてないと良いね」


 クリームパンを見つけて、僕と、パパとママの分を合わせて3個取って、レジに並んだ。レジを打っているのは、ハナだった。

 僕の番が来て、ハナが僕に気づくと、おや、という顔をした。僕からトレイを受け取りながら、「いらっしゃいませ」と言ってから笑う。そして、「夜は明けたかい?」と聞いてくる。僕は、

「もうすぐ、明けると思う」

と返した。

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