物事の初めの部分。または、まだ始まったばかりのこと。

 下校。一人じゃない。二人だ。


 こんな最低な私にも、一応親友だと思っている人間はいる。高校一年生の時、前後の席になって気さくに話しかけられたのがきっかけだった。

 着飾らなくても彼女はすべてを受け入れてくれる。

 そして、親友にも最低な面はある。典型的な八方美人。けれど私には時折素を見せてくれる。

 それがかえって、信頼性を増した。多分、親友と呼んで差し支えない関係だと思う。思い上がりじゃなきゃいいが。


 そして彼女はミーハーだ。そう、例えばアイドルだとか――。


「すみませーん!」


 何かを見つけて突然駆け出す親友。私は歩いて遠目から見る。


 遠目から見て良かった。近づかなくて良かった。


 ……アイツだ。血の色をした、透明な二酸化炭素アイドルだ。

 電子と現実の壁さえ飛び越えて見透かしてきた、見通してきた――アイツだ。


――私、ファンなんです! もしよかったら――

――はい。構いませんよ――


 親友が私に向かって、名前を呼んで手招きしてきた。

 空気が読めない人間じゃない。必要性なしに人を傷つける人間でもない。

 彼女にならって、私は二酸化炭素と握手をし、3人で写真を撮った。


 あの時は喧騒に紛れて聞こえなかったが、二酸化炭素の声は全く媚びている様子はなかった。透明感のある落ち着いた優しい声音。それが桁外れに整った外見をした人間からさも当たり前かのように放たれるのだ。


 およそ同年代とは思えないたたずまい、雰囲気。


「そう言えば、ライブで少し目が遭いましたよね」

「え……」

「少しでも聴いていただき、嬉しいです」


 言葉を詰まらせる。二酸化炭素は、私を認知していた。

 心が危うく絡めとられそうにもなった。非常に、非常に心外だが。


「ありがとうございました! 今度のTV絶対見ますね!」

「こちらこそありがとうございます。今後とも応援よろしくお願いいたします」


 興奮しきった親友に、大人の対応を見せる二酸化炭素。


「ほら、サヤカも」

「急に友達が呼び止めてすみませんでした」

「ちょっ、もう……」


 ばちり。


 血の色が私を見透かす。


「大丈夫です。応援されるのは嬉しいですから」


 涼しい笑顔が胸を貫く。

 私の本質をとらえて、引き寄せられて、血液ごと強引に外に引きずられた。


 凄まじく、痛い。


 彼女は私の痛覚を共有しているのだろうか。

 痛みを感じ取ってコンマ数秒後。彼女の血が……二酸化炭素まみれの血が、私の瞳を深く覗き込んだ。

 そして……彼女は再び笑って、私の手を握る。

 心臓がレジ袋のようにぐしゃりと握りつぶされた。




 別れの言葉を交わし、二酸化炭素が去っていく。

 彼女のいた所にはほのかな香り。

 私の胸には中身のないひしゃげた心臓。


 動けなかった。


「サヤカ、もしかしてファンになった感じ?」


 興奮を抑えられない親友の問いに、辛うじて首を横に振る。

 絞り出す言葉。


「……私、アイドル、嫌い」


 アイツは私を見透かしている。

 彼女の視線は、侮蔑か、同情か。

 口は強がって、反抗して……子供っぽく。

 でも、身体は正直で、腰を抜かして膝から崩れ落ちる。


 きっと、趣味のきっかけというのはこういう経験なんだろう。


 日常が塗り替えられる。価値観が塗り替えられる。

 ああいう風に仕向けてくる人間は、嫌だ。

 平穏無事で波風立たない人生を願い、善も悪も残さずに、ただ空気中に漂う窒素のように生きたい私を引きずり込むような人間は嫌だ。


 嫌だ。



 親友は無言で私の手を取り、ぎゅうっと強く握って引き上げた。

 すがる思いで彼女の指を組み、彼女の隣で半歩後ろを歩く。

 まるで限りなく人間に近い形をした人形のように――意志を失って。


 ああ、心外だ。

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