第40話 奴が消えてから、三人の人間がコロンバス通り沿いの部屋を訪れた

# 40

 奴が消えてから、三人の人間がコロンバス通り沿いの部屋を訪れた。一人は奴がまだアートスクールに通っていた頃の友人だった。鳥が卵を産めそうなボサボサ頭に黒縁の眼鏡をかけた女の子で、名前はアイと言った。僕はインスタントコーヒーを淹れ、彼女と少しだけ話をした。

 「僕にはね、未だにわからないんですよ。奴が何を描いていたのか、そして、奴の絵がどうしてこうも僕の胸を掴んで離さないのか」

 彼女は僕が三つのことを話すうちに一つを話すと言った具合に奴について語った。目の下の天の川みたいな雀斑を隠すように俯きながら。

 「リアリズムとロマンティシズムを、いかに融合させるか? それが問題だ」入学当初、奴はよくそんなことを言っていたという。キャンバスはいつだってこちら側、つまり現実の世界に存在していた。それは筆をとるたびに奴を苦しめた。どんなに時間をかけて、身を削って、素晴らしい作品を描こうとも、それが現実になることは決してない。彼女によれば、奴は随分と真面目な学生だったそうだ。授業には必ず出席し、創作だけでなく歴史や数理といった教養の課題にも取り組んだ。学年が上がる頃には、奴は学内でも指折りの生徒になっていたという。

 「間違えるためのやり方はいくらでも学べた」だが、後に奴は皮肉を込めてこんな台詞を吐いている。奴の作品は学内でも高い評価を得て、いくつかのコンペティションに応募されることも決まっていた。誰もが奴の才能を羨んだ。奴自身以外は。

 奴が作ったもの、それは絵だった。至極真っ当な絵。風景、構図、色……そういったものを、人々の心にしっかりと刻み込み、そういったもの以外は何も残さない絵。そこにはルールがあり、システムがあり、答えと間違えがあった。

 「俺はひどい田舎町で生まれたんだ。兄弟も友達もいない。誰も構ってくれなかった。玩具やゲームもなかった。だから、俺は近所の路地という路地を歩いて回った。冒険したんだ。歩くことが遊びだった。そうしているとね、だんだんと見えてくるんだよ。世界の本当の色や形が。空も、風も、海も、街も……みんな違う。花だって、同じ名前でも一つ一つ色や形が異なる。本当に独りぼっちだったんだね。だから、ひたすら目に焼き付けていた。そして、いつしか俺は次第にそれを誰かに伝えたくなった。表したくなった。だから絵を描いたんだ。最初は砂場に行って木の枝で描いた。でも雨が降ると、みんな滅茶苦茶にされた。石を使ってアパートの壁にも描いた。それもすぐに見つかって酷い目に合わされたよ。それでも俺は描いたんだ。やめることができなかった」


 絵がコンペ会場に送られる前日、真っ白な展示室で奴はアイに少しだけ自分の生い立ちを語ったという。奴がまだ幼い頃に両親は離婚し、母親が連れて来た男はギャンブルと酒に溺れた。生きるために奴は十二の時から働き出した。日雇いに新聞配達、肉屋、警備員……求人のある仕事に片っ端から手を付けたが、どれも長くは続かなかった。その作業に意味を見出せなかったからだ。その頃から、未明の月明かりの下で奴は屑紙の裏側に絵を描いていた。十七の時、三人目の父親が奴を知人の広告会社に就職させた。絵を描いているだけで金を稼げると言われ、奴も意気揚々と仕事場へ向かった。だが、そこでの奴の仕事は高所作業車に乗って、契約期間の過ぎた古い宣伝看板を取り外すことだった(この時の経験から、奴は街頭の宣伝看板を毛嫌いするようになる)。絵に関わることといえば、年長者のために新しい看板を綺麗に下塗りしておくことくらいで、その仕事さえもやがて電光掲示板の普及により無くなった。だが、奴は話していたという。リフトから降りた時に目にした、路上に飛び散った無数のペンキの跡が後の作品の原点だったと。

 「ようやく手に入れたチャンスなんだ。ここで俺は変わらないといけない」

 顔も知らない資産家の男(つまり、奴の四人目の父親)に金を借りて、北西部の田舎町からやって来た奴にとって、西海岸の街とキャンパスライフは光に満ちていた。そして、奴はそこで掴み取らなくてはいけなかった。自分の未来を。

 「だけど、心が熱狂していない」

 奴はもう一度、自分の絵を見た。白い展示室に飾られたそれは、アカデミズムの観点から見れば確かに完璧に近い作品だった。あらゆる様式を踏襲していて、親しみやすく、でもどこか権威的で、過去を正当化し未来を提示するようなイデオロギーを感じる。そして、絵の隅っこには輝かしく奴の名前が書かれている。奴にはそれが許せなかった。奴には正当化したい過去なんて、どこにもなかったから。

 「さよなら、偉大な画家よ」何かを決めたように奴はそう呟くと、突如ナイフで「絵」を滅茶苦茶に切り裂いた。過去を肯定しようとする様式を、自分を別の誰かに仕立て上げようとする名前を切り裂いた。均整を剥がされ、足元に散らばっていく切り粉のような絵の欠片。そこにこそ奴は、なんとも言えぬ躍動感を覚えた。あの路上のペンキに感じた躍動感を。考えてみれば、失うものなんてはじめからなかった。恐れることなんてなかったのだ。

 学校から処分を受けた二人は、屋上を占拠し、自分たちのための表現活動を始める。奴は筆を置き、様々な表現に身を置いた。エピグラム、グラフィティ、写真、映像、コンセプチュアルアート……だが、どれも奴を満足させなかった。架空の学生証を偽造したり、学内の備品にこっそり誰かの名前を書き記していったり……そんなイリーガルなこともやった。奴は自らを縛り付けた伝統や様式を軽蔑し、アヴァンギャルドに心酔していた。どれほど作品の出来が貧弱であっても、前衛であれば価値があると盲信した。そして、イデオロギーで装飾された作品をことごとく嫌った。「ドーナツと同じだ。核を喪失している」奴はよくそう言って、教師のための芸術を、政治家のための芸術を、芸術家のための芸術を揶揄した。

 その頃、勇気ある学生新聞の記者が奴にインタビューを試みた。アイは、手帳のカバーのポケットに大事そうに収めているその記事の切れ端を見せてくれた。


 Q「学内ではあなたの活動が話題だけど、どう思う?」

 A「みんな俺の髪の毛が好きなのさ」

 Q「最近はいろんな表現に手を出しているみたいね。絵はもう描かないの?」

 A「絵ってやつは結局のところ現実の模造品だ。時間ばかりを浪費するただの図形だ。味気ない情報伝達の記号だ。興味がないね。世界を切り取りたければ、携帯電話のシャッターを切ればいい」

 Q「あなたにとってアートって何?」

 A「アートは死んだ。あの巨大で複雑な塊は、今じゃもう溶けたアイスクリームのようだ。携帯電話こそ最高のアート作品だよ」

 Q「コンピューターは?」

 A「キッチュだね。カメラがついていない。電話もできない」

 Q「あなたに影響を与えるものはある?」

 A「空と風、それから海と街」

 Q「雨は?」

 A「嫌いだね。屋上でアイスクリームが食べられなくなるから」

 Q「好きな芸術家は?」

 A「ボブ・ケイン」

 Q「漫画家じゃない。他には?」

 A「いないね。世の中の奴らは何も生み出さないか、愚劣なものしか生み出さない。どちらにしても最悪だよ。必要以上に絶望しているか、根拠のない希望を盲信している」

 Q「ねえ、あなたの絵が好きだったのよ。わたし」

 A「これからもっと好きになるさ」

 Q「何があなたに表現したいという衝動を起こすの?」

 A「君みたいな魅惑的な女性かな」

 Q「真面目に答えて」

 A「過去。それから、俺がいずれ死ぬということ」

 Q「死が怖い?」

 A「怖くない。死ぬのは俺じゃないから」

 Q「どういう意味?」

 A「今この瞬間の俺以外は、いつかの俺ということ。そんな奴のことは知らない」

 Q「それなら何故死を想うの?」

 A「わからないからさ。その意味が。わからないことを受け入れ、わからないことに立ち向かう。それが生きるってことじゃないか?」

 Q「あなたは決して飲み込まれない?」

 A「だろうね。気が変わらなければ」


 コーヒーが無くなると、アイはどこか懐かしそうに奴の灰皿を手に取り、火を点けたばかりの煙草をそっとそこに置いた。そして去っていった。僕はコーヒーのおかわりをすすめたが、彼女は応じなかった。

 二人目にやって来たのは、戸籍上の現在のやつの父親にあたる人間の秘書だった。黒服に身を包んだ恰幅の良い男で、奥歯の一本が金色に光っていた。彼は品の良い花束を献花すると、諸々の手続きを済ませてきたことと、奴の入るべき墓の場所について僕に説明した。僕が日本人だったせいか、その内容はひどく簡略的で薄っぺらに思えた。

 ひと通り話を聞いた後に、僕は奴が生前に遺灰をテレグラフの海に撒いてほしいと言ったことを思い出し、それを彼に伝えた。だが、彼は「インポッシブル」と言って首を横に振った。そして、僕に数枚の札が入った封筒を渡すと足早に部屋をあとにした。

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