第41話 もう会えないのかと思ったよ

# 41

 「もう会えないのかと思ったよ」

 「まったく大袈裟なんだから」

 その日は九月の最後の一日だった。

 「ハッピーバースデー」

 「ありがとう」

 いつも通り学生棟の前に現れたジーンは、なんだか以前よりはっきりとした輪郭を纏っていた。

 「髪を切った?」

 「ええ」

 彼女はリキテンスタイン風のショートヘアをさらに短くカットした。それは僕にサガンの小説に出てくる女の子を思わせた。

 「ごめんなさいね。キミとの約束を反故にしちゃって」

 「構わないさ。でも、君が授業に出ないなんて珍しいね。もちろん僕が言えた質じゃないけれど」

 「本当よ」

 「風邪でもひていた?」

 「ううん」

 「アルバイト?」

 「それも違う」

 「そうか……」

 「出掛けていたの」

 「どこに?」

 「少し寒いところ」


 それから、僕らはいつものように手を繋いで新宿の街を歩いた。お昼にスパイスカレーを食べ、ルミネの七階でお笑いを観て、それから喫茶店でコーヒーを飲んでドーナツを食べた。それは僕たちのちょうど十七回目のデートだった。

 「ここから街を見るのが好きなんだ」

 左手にはタイムズスクエア、正面には時計塔が見える。そこは新宿の東と西を繋ぐ巨大な陸橋の上。眼下に広がる無数に張り巡らされた樹形図のような線路。その上を絶え間なく行き交う何本もの列車。赤、青、黄色、オレンジ、緑。

 「昔からそうさ。よく授業を抜け出してここに来た。パンとコーヒーを買って、一日中ここで街を見ていたんだよ」

 列車はホームに辿り着くと、人々を吐き出し、そこにいた人々を飲み込んでいく。まるで呼吸をするかのように、何度も何度も同じことを繰り返す。僕はどうしてかこの橋に惹かれた。この橋にもまたなんとも言えぬ詩情があったからだ。

 「本当はね。ある日、突然吐き気がしたんだ。大教室の中で」

 「え?」

 「小説を書こうと思った理由だよ。民法の授業中だった。僕は教室を抜け出し、法学部棟の地下の薄汚れたトイレの個室に駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出したんだ。小さい頃、海で溺れかけたことも。アメリカでテロがあったことも。死んだ猫の名前も……みんな吐き出した」

 世界のどこよりもこの街は人で溢れている。なんて巨大で確かな摂理だろう。たくさんの人がやって来て、それと同じくらいたくさんの人が帰っていく。その呼吸が毎日、毎日、同じように繰り返される。その様は、渦だ。僕も街に降りれば、その渦に飲みこまれてしまうだろう。あまりに早く、そしてあまりに多くを、渦は奪っていく。一度飛び込んだら、抗うことなんて誰にもできない。

 「それから書こうと思った。小説を。書けるうちに、書こうと思えるうちに書いておかないといけない。そう思ったんだ」

 でも、ここは違う。この陸橋の上は……ここからなら渦は、渦に過ぎない。僕は傍観者として所在無げに腕を組みながら、いつまでもそれを眺めていられる。

 「見てごらんよ。ここは何もかもが正し過ぎる。正し過ぎるんだよ」

 「嫌いなの?」

 「嫌いさ。息苦しいよ。こんなにも舗装されちまった道をどんな風にして歩けばいいんだ? 何を考えて生きればいい? 誰を演じて生きればいい?」彼女は黙ってじっと僕を見ていた。「生まれてから死ぬまで、月曜から日曜まで、全部が予定されているみたいだ。そんな人生は糞食らえさ。僕は人間なんだよ。冷蔵庫でもなければ、蝶番でもない」そこまで話して、僕は口を噤んだ。

 「ごめん。こんな話をする相手、他にいないんだ」

 「でも、キミも戻るんでしょう? あの中へ」

 「いずれはね」

 「いずれっていつ?」

 「今はそんなこと聞くなよ」 


 僕は平成のはじまりに生まれ、平成の終わりに死ぬ。

 だが、それがなんだというんだ。

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