第38話 どこでもない場所が好きだった

# 38

 どこでもない場所が好きだった。一世紀くらい昔のことだ。

 それは、はじめて乗った飛行機でふと窓の外に目を遣った時のどこか。眼下に広がる長崎の港、湖畔や郊外の空き地、田園地帯の畦道……そうやって世界を見たとき、都市の領域はほんの僅かしかないことに気が付く。都市。そこではあらゆる物事に名前がつけられる。僕らは都市で暮らす。あらゆる名前に囲まれて。名前がないものは理解されない。差別され、虐げられてしまう。名もなき場所を目的地にすることはできない。だから名前をつける。そうすることで心の安寧を探す。名前をつけること。それはピリオドを打つことと同じだ。端から端まで距離を測り、形を与え、なるほどこれはこういうものかと握りつぶす。名前を与えられた瞬間、魚は水槽に入れられ、鳥は鳥籠にいれられ、ライオンは檻の中に入れられる。もう、飛び出すことはない。鍵をかけられ、そして飼いならされていく。

 二十一世紀、僕らは何にだって名前を与える。飛行機にも、線路にも、靴ベラにだって。名前がないものが好きだった。名前のない感情を纏っていた。名前のないものが減っていった。それが悲しかった。だから、僕は名前のないものを作り出したんだ。ときに誰かを傷つけて、無理矢理に。


 物語を作ることは、街を作ることに似ている。土地を切り拓き、地面を均し、ビルを建て、線路を敷き、列車を走らせる。あらゆるものが枝分かれに増殖していく。そのすべては念密な調整のもとに計画化され、筆先という名の議会にかけられる。気が狂いそうなほどの作業だ。実際、書くたびに僕は失っている。その時間を使うことで得られたかもしれない喜びを、書かないことによって起きえたかもしれない幸せな瞬間を。だから、今すぐこんなことやめてしまえばいいんだ。こんなどうしようもないこと。時給六百円のアルバイトでもいい。その方がまだマシだ。資材を運び、荷物を運び、コーヒーを運ぶ。もしかしたら、僕には才能があるかもしれない。何かを生み出すことよりも、そうやって運ぶことの方に。 


 なあ、この街でお前はどうやって生きていくんだ?

 何を食べ、どんな船に乗って、どんな波に立ち向かっていくんだ?

 僕の心は黙秘を貫く。

 この小説を書き上げたとして、僕は何を得るのだろう? 人生は、膨大な時間は、僕に何を与えてくれるのだろう? 僕たちは爆弾を抱えている。誰かに伝えたいとか、何かでありたいとか、そんな願いと同じくらい強く、「無稽な破滅をしたい」という願望の爆弾を。

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