第37話 電車に乗ってバークレーまで行った

# 37

 電車に乗ってバークレーまで行った。

 その日は何かが書けそうな気がしていた。UCLAの学生で溢れる通りを抜け、馴染みのブックストアーを回る。アイスコーヒーとハンバーガーを買い、ピープルズ・パークの芝生の上でそれを頬張る。物憂げな孔雀青の空にすっかり馴染んだ秋風が吹く。テレグラフの空は高い。雲の動きがはっきりと掴めるほどに広い。どこからかボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」が聞こえてくる。「どんな気分だい?」ボブ・ディランはいつの時代も変わらず、そう尋ねる。


 「まだ時間は残されている」僕はずっとそう言い聞かせていた。

 転がる小石のようにあてもなく歩き続け、頭の中に浮かんだ小説の断片をノートに書き留めてはまた歩き出す。目の前の道を歩きながら、どこかの知らない風景と出会う。そしてそれを逃がしてしまわぬように急いで捕まえる。ペンを走らせ、その情景や情動をスケッチする。その日は調子が良かったのか、あっという間にノートは文字で埋め尽くされていった。ページを開く。記憶が掘り起こされる。無くしたはずのものがもう一度姿を見せる。そこには兆しが見える。光の足跡が。何かが得られるのではないか? 何かを残せるのではないか? という期待に接近する。それは一瞬の流れ星のようだ。だから、大抵は見惚れているうちに消えてしまう。そして、後にはノートの文字だけが残る。それでも、知りたいこと、伝えたいこと、残したいこと……それがまだ胸の奥底に潜んでいることがわかる時、僕は何よりも生きていることを実感する。死んでいないことを実感する。

 「人生の七十八パーセントは悲劇だ」いつだったか誰かがそんなことを言っていた。人生のある時期、僕を熱狂させたもの。音楽、文学、映画……そのほとんどが今では潰えるか、なんでもないありふれたものに成り下がった。それでも、僕は生きている。そして、あともう少しは生き続けるのだろう。それは一日とか一週間かもしれないし、五十年とか六十年かもしれない。その間にどれくらい時代は変わるのだろう? どれくらい僕は変わるのだろう? 歳をとり、皺が増え、髪の毛が減り、心は枯れ果ててしまうのかもしれない。そして、何もかもが手遅れになった時、明け方の鳩のようにアスファルトをボソボソと歩き、かつての自分のような人影に怯え、追いやられながら僕は人生の残り時間(ロス・タイム)を数えるのだ。「まだ残された時間を生きないといけない」そう自分に言い聞かせながら。それでも、僕はまだ生み出そうとしている。紛れもなくここにある今という瞬間を使って、僕は生み出そうとしている。踠きながら、足掻きながら、描こうとしている。あの熱狂を。

 シーツにできた皺のような雲に夕陽のグラデーションがかかる。それはどこかで目にした筆致によく似ていた。僕は喫茶店に入り、ロング・ブラックとチーズケーキを頼んで席に着くと、その日の成果、つまりボロボロになったノートのページをテーブルの上に広げた。大きな窓から暮れていく空が覗く。街路樹の電飾が灯り、静かな闇に包まれていく街を柔らかな光が幻想的に彩っていく。店内では「男と女」のテーマが流れていた。グラスに注がれた水を一口飲むと、足の裏から心地良い痛みを感じた。悪くない一日だった。僕は何気なくテーブルの端に置かれたペーパーバックに手を伸ばす。ごわごわとした再生紙にベタッと塗られたインク。それはなんて事のない時間のはずだった。コーヒーが運ばれてくるのを待つためだけの、なんて事のない時間のはずだった。だが、それは起きた。捲ったページの先。そこには奴がいた。



 『ハック・バイ・アノニマス』


 いつからだろうか、人々の前に「あの絵」が現れたのは? 「♯GIVE ME A NAME(名前をつけて)」というタグとともに、インターネットの海に放り込まれた一枚の絵。それは瞬く間に世界中を漂流した。人々はその絵に魅せられ、何よりもその絵に名前をつけることに熱狂した。デュシャンのトイレの便器、ウォーホルのキャンベルスープの缶、ボイスの死んだうさぎ……これまでアートの世界に一石を投じてきた数々の作品と同じように、この絵も我々に巨大な疑問符を突きつける。

 筆者はあの絵からギンズバーグの咆哮を感じた。携帯電話の画面を拡大した時に見える夥しい量の色彩のビット。混ざり合い、見るたびに目まぐるしく変化する惑星の衝突のような構図。腐敗した世界において、まさに今、時代が変わる、その潮目に立っているような強い衝動がこうしている間も私の心を掴んで離さない。

 一方、友人の女学生はあの絵から、アクロポリスの丘に佇んでいるかのような静けさを感じるという。『あの絵の中には線と線が交わる一つの点があるの』そう言って、彼女はプロジェクターで部屋の壁にあの絵を投影し解説をしてくれた。彼女の言葉を借りれば、それはすべてを受け入れる点であり、ブラックホールのような無限の穴でもある。そこでは、何もかもが曖昧で、それ故、何もかもが解放される。彼女はあの絵を見ていると孤独に充たされるそうだ。あらゆる喧騒を忘れ、ちょうど沈んだ街を前に一人、石のベンチの上に腰を下ろすように。それは深い瞑想に近い感覚らしい。万物を受け入れ、その距離を計り直し、赦しを与えるような。

 ある芸術関係者はあの絵について、「非常に作為的な表現である」とコメントした。現代社会におけるアートの方法、あるいはその価値の没落についての考察が感じられ、なおかつマスや資本主義との距離についても大変思慮深く検討されている。「これは二十一世紀における芸術の一つの手法となり得る」と彼は評した。

 ある詩人はあの絵を自分の頭の中だと言った。彼が様々な角度から言葉を与え、まるで化石の発掘作業のように慎重に掘り起こしてきた自分の心象風景を描いたものだと。心理学者は、あの絵をアカシックレコードのような普遍的な何かだと言った。それ故にあらゆる人があの絵から何かを見いだすのだと。政治家の一人はあの絵を卑猥な風俗画だと言い、目を塞いだ。そして、閲覧規制をかけるべきだと署名活動を始めた。一方で革新派の政治家たちは、あの絵を反体制の象徴としてイデオロギー化しようと画策しているという。

 海面を覗くとそこにはさらに多くの言葉が浮かんでいる。「この絵は一つの宗教だ。そして、私は最初の信者となる」「この絵は神を冒涜している。即刻抹消しなければどこかで私は人を殺めるだろう」「この絵は間違いなく救いだ。福音だ。現代社会におけるジャンヌ・ダルクとして、我々を解放するだろう」「たくさんの意見があることはわかるけれど、私にははっきり言って何も理解ができないわ。馬鹿だから」「こんなのただの落書きだよ。うちの子の方がまだマシな絵が描ける」など……ちょっと目を遣っただけでも、これほど多くの言葉があの絵に向けられている。だが、誰もその正体を暴くことはできない。それを正確に言い表すことができない。

 あの絵に名前はない。作者もわからない。この世に存在するのかさえ知れない。そのことが一層、私たちの憶測を加速させる。そもそも、存在とはなんだろう? 世界をハックしながら「あの絵」はどこまでも漂流を続ける。


 エンバカデロ駅に戻ってきた頃には、もう二十三時を回っていた。僕は鞄から古い型のiPod Classicを取り出し、ホイールを回す。イヤホンからクレム・スナイドの歌うジャーニーの「ライツ」が聞こえてくる。

 「なあ、君はどこへ行ったんだ?」

 街路樹のある大通り。ハロウィーンに向けてライトアップされた木々。風が吹いている。そうさ、いつだって風は吹いていたんだ。雨の日も晴れの日も。当たり前だ。いくつもの風と、呼吸と、会話の最中で僕らは生きている。

 ノートから栞が落ちた。路上の浮浪者の足元に。「天才だ!」浮浪者は言った。「いや、気狂いさ」僕は答えた。「会いたい。是非顔を拝ませてくれ」「無理だ」「どうして?」「さあね」

 ドミトリーの部屋は大通りに面している。真夜中、ひとりぼっちで見上げる天井には、外を走る車の影が紙芝居のように投影される。

 「なあ……」

 十三番室。誰もいないその部屋に月明かりが差し込む。オリーブオイルのボトルに光が落ちて、真夜中の名も無き色が出窓の縁に注がれる。花は枯れ、パンはカビてしまい、灰皿の吸い殻だけがあの日のままそこにある。

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