第31話 バートのミッション十六通り駅を出て、バレンシア通りに出ると、薄靄の中に煌々と浮かぶネオンサインが姿を見せる
# 31
バートのミッション十六通り駅を出て、バレンシア通りに出ると、薄靄の中に煌々と浮かぶネオンサインが姿を見せる。スクラップヤード。明かりの下には、今宵も幻灯機に群がる羽虫のように孤独な人間たちが集まっている。いつまでも一人ぼっちの自分を許すために、誰かの鼓動を感じるために。
「ブラボー! 最高だ。最高の夜だ」
ステージではシューゲイズバンドがいつ終わるともしれない轟音をかき鳴らしていた。いつもと変わらないスクラップヤードの風景。いつもと違うのは、ステージの真横で奴が人々に壮言を浴びせながら筆を握っているということだけだ。
「この世界には意味のあるものばかりだ!」
脚立の上から奴が叫ぶ。果てしない闇の中で明滅する螢火のように。
「意味のある映画、意味のある音楽、意味のある小説、意味のある人生……はっきり言って、今の俺たちは奴隷さ。自分自身のね」
だが、その声は一瞬にして轟音に掻き消される。
「もうこりごりさ。まだ見ぬ何かを見たくはないか?」それでも奴は叫び声を上げ続ける。
「まだ見ぬ何かを描きたくはないか?」いつしかそれは音楽の一部になる。
「生まれ変わろう。革命を起こして」
それはプライマルスクリームだった。どんな言葉よりも力強く、確かな叫び。奴はビールを飲み、筆を振りかざし、またビールを飲み、叫び声をあげる。そして、薄汚れた脂色の壁、つまり奴のキャンバスを一瞥すると気の向くままに筆致をつけていった。
「取り戻すんだ。俺たちの時代を。俺たちの喜びを俺たちの悲しみを」そう言うと奴は筆を捨て、両手に絵の具を握り、それを投げつけた。壁に身体を擦り付け、描いていた何かを全身を使って潰した。
「完璧な絵は描けなかった」
壁に描かれているもの。それは二次元に凝固された深海のように見える。あるいは瞬間的な光の放射のようにも見える。
「神は微笑まなかった」
それは魂の具象のようで、躍動する生命の抽象のようでもある。
「全部嘘だった。映画も音楽も文学も、テレビもインターネットもセックスもこの世界も」
黒、白、赤、青、黄色……何かを想起させるような形が生まれては消され、また違う何かが重ねられていく。
「それでも俺たちは自由だ。そうだろう?」
奴の問いかけに人々は拳を上げ答える。奴の声が聞こえていたのかは定かでない。それでも人々は拳を上げた。
「俺たちは自由だ! 俺たちは自由だ!」奴は胸の奥底の傷を吐き出すかのように絵の具を叩きつけた。その様は渦だ……いや違う、熱狂だ。熱狂がフロアを……僕らを支配している。
「俺たちは自由だ!」
演奏が終わり、バンドがステージを去る。投げ捨てられたギターの鋭角なフィードバック音が耳を擘く。人々の眼差しが、残された奴とその絵に注がれる。誰もがその何かを理解しようとしている。言葉にしようとしている。
「ハックしよう。奴らを、この手で」
ギターの残響がようやく鳴り止んだ時、奴は小さくそう呟いた。そして、脚立から飛び降りると一直線にバーカウンターに向かい、新しいビールの栓を開けた。孤独な人間たちは無言のままに奴を称賛した。それでよかった。誰もが記憶喪失になったかのように立ち尽くしている。分からないのだ。自分が目にしたもの、自分の胸に沸き起こっているもの。それが何なのか。
「随分と気分が良さそうだ」
バーカウンターでビールを受け取る奴に声をかけた。
「気分が良くて何が悪い?」
その通りだった。終演後の店内にはコルトレーンの「ア・ラブ・シュプリーム」が流れる。
「なあ」
「何だい?」
「もし、俺が死んでも墓には何も書かないでくれよ。墓碑銘も名前もいらない。絵の具をばら撒いて、一言『全部嘘だ』と書いてくれ」
「わかった」
「いや、そもそも墓なんてキッチュなものは必要ないな。撒いてくれればいい。遺灰を。テレグラフの海に。それが最高さ」そう言って、奴は倒れた。眠りについたのだ。大きな鼾をかいて。丸一日描き続けた奴の身体はオレゴンの鱒みたいに重かった。僕は店主を呼び、奴を店の奥へと運んだ。
「良い絵は描けたのかい?」エントランスの外で煙草の煙を吐き出しながら、店主の老人は僕にそう尋ねた。
「良い絵? そんなものは僕にも、きっと奴にだってわかりませんよ。人生と一緒です。それが何であれ、奴は描いた」
「そうかそうか」老人は満足そうに笑った。
「どうして奴に描かせたんです?」
「誰だってよかったんだ。楽しそうな奴なら。壁をね、思いっきり汚して欲しかったんだよ。滅茶苦茶にしてほしかった。この場所が時代に飲み込まれちまう前にな」
「どういうことです?」
「ここにも再開発の話がきているんだ」
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