第32話 恋人たちは芝生に横になっていた

# 32

 恋人たちは芝生に横になっていた。都心にぽっかりと空いた黒い穴のような新宿御苑。門扉の向こうで若い男のサックスブルーのシャツから伸びる右手が、女の子の栗色の髪を撫でる。街は青い空の下だった。夏の終わり、あるいは秋の始まり。僕は歩いた。悪い予感を吹き飛ばすように。一人ぼっちで。バルネ・ウィランを聴きながら。

 「来週から十日間、ゼミの合宿で海外に行ってくるの」

 「それじゃあ、次に会うのは夏休み明けだね」

 そんな会話をしたのは三週間前、つまり九月の初めの火曜日だった。いつものように新宿で会って、酒を飲み、僕らは別れた。

 そして、三週間後の今日、大学の後期の最初の授業をジーンは欠席した。僕がそれを知ったのは三限の終わりになってからだった。学生棟の前で佇んでいる僕の元へ、彼女と同じ授業を取っている女の子がやってきて「あの子、今日お休みみたいよ」と教えてくれたのだ。

 信濃町を越え国立競技場を横目に歩いて行く。野球場の前に群がる大学生たち。バルネ・ウィランの吹き鳴らすサックスの音階にカーンという金属音が飛び込んでくる。喧騒を背に僕はいちょう並木の下を歩いた。ジーンズのポケットに手を突っ込んで、古いフランス映画のように宛てもなく歩き続けた。なぜだか胸騒ぎがしていた。大学生なんてみんな平気で授業を欠席する。常識だ。でも、ジーンに限ってはそれは本当に珍しいことだった。例えるなら、砂漠に雪が降るようなこと。


 いつからだろう?

 書くことで失われている何かがあるんじゃないかと思うようになったのは。音も言葉も景色も感情さえも……あらゆるものが無限に存在する二十一世紀。すべては初めから与えられていた。わからないことなんて一つもないはずだった。何かを見つけようと思った時、何かを手に入れようと思った時、僕らはポケットから小さな地図を取り出し、その画面に向かってほんの少しだけ手を伸ばせばよかった。それだけだ。それだけで無限の世界が映し出される。感情も言葉もみんな複製品だ。レファレンスは十分すぎるほどある。新しい何かを創造する必要なんてない。すべては既にそこにあり、大切なのはそこから何を掬いとるのかということなんだ。そういう生き方は、なんというか「ソフィスティケート」な印象があった。


 人で賑わう青山通りの交差点。

 取り残されたような気になって僕は携帯電話を開く。でも、そこには彼女のことを知る手がかりなんて一つもない。

 「ねえ、知ってる? すべての物事は番で存在するのよ」

 いつだったか、彼女はそんな話をした。

 「空と雨、川と海、朝と夜、光と闇、魂と肉体、喜びと悲しみ……それにキミとわたし」

 その日ももちろん火曜日だった。

 「もしかしたら、わたしの探し物はキミだったのかもしれない」僕らは語りたくて仕方なかったのだ。それぞれの感情を、思いを、記憶を。少しづつ、抽斗の中身を机の上に並べ、見せ合うようにしながら、僕らは新宿の街を歩いた。

 「キミの探し物もわたしの中にあるかしら?」ジーンはおどけたように僕の顔を覗き込んで、そう尋ねた。

 「あるさ。きっと」僕も笑った。枯葉を吹くつむじ風のように。

 「ねえ、わたしのどこが好き?」

 「うーん、どこだろう?」

 「答えられないの?」

 「うまく言葉にするのが難しいだけさ」

 「わたしはすぐに言葉にできるわよ」

 「教えて」

 「キミといるとね、すごく愛したくなるの。だから好き」彼女はシチリアの檸檬のように笑った。

 「それなら、僕は君のこと直感で好きになった」

 「直感? 非論理的ねえ」

 「そうかもしれない。でもね、僕の場合、論理的な思考ってあまり当てにならないんだ。いつも間違える。うまく言った試しがない。多分、せっかちなんだよ。じっと考えることが苦手なんだね」

 「いつも難しいことばかり考えているくせにねえ」

 「思慮が浅いから、余計なことばかり目につくんだ」

 「ふうん」

 「だけれど、そんな僕でもこの直感ってやつだけは結構信頼している。精度もわりに高い。セ・リーグだったら首位打者を取れるかもしれない」

 「本当に?」

 「本当さ。その直感が言ってる『僕は君が好きだ』ってね」

 彼女は僕のミューズだったように思う。匂いや仕草、眼差しや横顔。彼女のすべてが僕の記憶に深く働きかけていた。それはとても大きな力で、僕を空に浮かべる。どこか遠い宇宙へと誘う。僕は彼女の手を離さないようにすることで必死だった。いつまでも、どこまでも。


 ジーンといる時、僕は笑う。

 そこには確かな体温がある。

 ジーンといる時、僕は見失う。

 何を?

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