第29話 君の話を聞かせて

# 29

 「君の話を聞かせて」

 「テニスクラブに入っていたの」

 「軟式? 硬式?」

 「軟式ね。大きな高校だった。そこで一生暮らしていけるくらい。丘があって、小川もあって、敷地の向こうには牛もいたわ」

 「気持ち良さそうだ」

 「北国の田舎町だからね、土地だけはやたらとあるのよ。世界の果ての桃源郷みたいな場所でラケット持って、ひたすらボールを打ち合っていた。それから、ボランティアのグループにも入っていたわ。老人ホームに行って歌を歌ったり、保育園に行って子供と遊んだり、ベルマークを集めて、外国の子供たちに鉛筆とか絵本なんかを届けるの」それはなんだか牧歌的な風景だった。僕の頭の中にはこんな画が浮かんでいた。黒のローファー、紺色のソックス、白いワイシャツに消炭色のカーディガン、清純なデザインのブラジャーとショーツ、その内側に彼女はいる。

 チョークが黒板に当たる音がする。小さな手のヨーグルトみたいな指先にシャープペンシルを握って、彼女はノートをとる。何かの計算式とかそんなものを書き写しているのだ。巨大な校舎には、似たような教室がいくつもいくつもある。窓の外には校庭があって、そこにも何人もの学生がいる。同じ学校名の刺繍が入った、同じ色のジャージを着て、みんなでマラソンをしている。彼女はふと窓の外に目を遣る。山の麓に広がる緑の中に黒い塊がいくつも見える。牛たちだ。牛だって何頭も何頭もいる。草を食べて乳を出す。コピー・アンド・ペーストしたみたいな景色。その中の一人がジーンで、夥しい数のその他はジーンではない。


 「父がいないことは話したわよね?」

 「うん」

 「わたしはね、卵から生まれたのよ」彼女は蝋燭の火を吹き消す時みたいな声でそう言った。

 「父は妹が生まれるとすぐに死んだ。まるで妹をこの世に残すことが、人生における唯一で最大の役割だったかのように。わたし泣いたわ。まだ十三歳だった。中学二年生よ。泣くことしかできなかったの。世界中のすべての九月を集めたみたいに泣いた。泣いて、泣いて、泣き止んで、また泣いた。このまま自分の涙に溺れ死ぬんじゃないかと思ったわ。

 それでね、胸の中のありとあらゆる海の栓を抜ききった時に、朝が来て、今度は妹が泣いたの。ウワァーンって。ゆりかごの中から、わたしたちなんか比にならないくらいの大きな声で。お腹が空いたとか、オムツを替えてとか、そんなこと思っていたのかしらね? とにかく、誰よりも大声で泣きだしたのよ。母が起きてきて、妹を泣きやませようとお乳をあげたり、オムツを替えたりした。わたしもなんだかんだ手伝いをしたり、そうこうしているうちに日が出て来て、洗濯機も回して、ごみ出しもしてって慌ただしく生活に戻って行ったの。それですっかり朝になった時に思った。『学校に行かなきゃ』って。『今日くらい休んでもいいわよ』って言われたんだけど、なぜだか学校に行かないとって思ったの。大急ぎで着替えて支度をしたわ。時間割を確認して、教科書を鞄に詰めて、メイクする時間はなかったから、髪だけ整えて、マスクして、走って家を出た」彼女は心の海の波やうねりを抑えるように、淡々とそう語った。「それからね、涙が出なくなったのは。一度も泣いていないの。気付いたら枯れていた。どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、心が震えないの。どうしてだろう? 人って少しずつ、本当に気付かないような速度で変化しているのね。狂っていってるのよ。軌道を外れた人工衛星みたいに」

 僕は頭の中に人工衛星を思い浮かべた。細胞の核に針を刺したような形。それは図鑑で見たスプートニク号だった。

 「だからね、思うのよ。ちゃんと見ていてあげないといけないって。時間はいつもそこにあるの。部屋だってそう、毎日掃除してあげないと、どこかでバランスが崩れる。そして、気づいた時にはもう手遅れになっている」彼女は自分の部屋を一度ゆっくりと見回した。

 「埃をかぶると触れたくなくなる。触れたくなくなるといつしか無かったことになる。わたしが高校生になって、コートでボールを打ったり、教室でベルマークを数えている間、母は一人でいろんなことを考えていたと思うの。あの人も良く掃除をする人だったから。いつも部屋は綺麗に整っていた」

 「お母さんは君に似ていた?」

 「そうね。半分くらいは似ていたかもね」

 僕は彼女の母親の姿を想像したが、もちろんうまくいかなかった。

 「みんな自分の好きなことばかり言うのよ。悲しみには悲しみを差し出そうとするの。だけど、誰も他人の気持ちなんてわからない。酷いこともたくさん言われたわ」そう言うと、彼女はもう一度、自分の部屋をゆっくりと見回し、最後に僕の顔を見た。「わたしだってね、一つ一つちゃんと聞いてあげられたらって思うわよ。だけどね、限界ってやつがあるわよ。みんなの痛みを引き受けていたらパンクしちゃう。わたしに引き受けられるのはせいぜい、近所の猫の悩みくらいのものなの。それだって、大したことなんだから」猫たちは今頃どうしているのだろう? 窓の外からは酷い雨音がしていた。

 「でも、わたしも同じ。今だってこうして、キミに……ねえ、わたしは幸せになりたいの。それだけなの。でもその形がわからない。わたしを残して時代はどんどん先へ行ってしまう。だからね、せめて許されたいの。何か小さな不幸があると思うのよ。『助かったぁ』って。通り雨に打たれたり、信号がちょうど赤に変わったり、欲しかったものがなくなっていたり……そんな時にね、ふと思うの。これで少しだけ許されたんじゃないかって。わかる?」

 「……多分ね」

 「嘘よ! 知ってる? 本当におかしな人って自分のことおかしいなんて言わないの。疑いもしないの。自分は正常だって、どこもおかしくなんかないんだって言い張って、終いにはおかしいのはお前の方だって、そんな風に言うのよ。はっきり言ってそんなの気狂いよ。そうでしょう?」僕らの前に空白の時間が舞い降りる。「わたしはね、逃げ出してきたの。いろんなことから。お母さんと妹を置き去りにして」


 その時、彼女は十九歳だった。十九歳だ。まだ若い。短い人生にはきっと刻まれていないことがたくさんある。そして、僕もまた十九歳だった。彼女の人生に刻まれた複雑な重さをコントロールするには、僕もまたあまりに若過ぎた。

 「小さい頃、野良猫を家に連れて帰ったことがあるんだ」沈黙の中、僕はおとぎ話でも聞かせるように、気付けば古い物語を語っていた。

 「雪の日に近所の電柱の下に捨てられているのを見つけて。親に内緒で机の引き出しの中に毛布を敷いてそこで世話をした。毛の白い子猫でね。随分懐いたよ。僕のことを父親だと思ったのかもね。目なんて見えていなかったかもしれないし、鼻だって利いていなかったかもしれない。だけれど、僕を知っている気がしてすごく嬉しかったんだ」

 彼女は黙って僕の声に耳を傾けた。

 「三日目に親に見つかった。鳴き声が聞こえてしまったんだ。僕は子猫を元いた場所に返すよう命じられた。その日もいっとう寒い日で、僕は巻いていたマフラーを外して震える子猫を包み、ミルクと一緒に箱に入れて立ち去った。でも、放っておくことはできなかった。それで母親に泣きついて、子猫が大きくなるまで家で世話することを許してもらったんだ。

 それからはあっという間だった。歯が生えて、毛も生えて、子猫は猫になった。僕たちは二人でたくさん遊んだ。それでね、ある日、トラックに轢かれて死んだ。路肩に横たわって、アスファルトの灰色の上に真っ赤な血を吐いていた。春が来る手前の季節だった。酷い吐き気がして、それから眩暈がした。寒いのに汗が止まらなかった。とにかく何かを繫ぎ合わせようとして、僕は死の世界についてとても深く考えたんだ。

 『あの子猫はなんの為に生まれ、なんのために死んだのだろうか?』

 何日も何日も考えた。持っている教科書を全部端から端まで読んだ。図書室の本も手当たり次第に読んだ。僕はまだ子供だったけど、子供なりにやれることを全部やろうとした」埃をかぶっていたはずの僕の記憶は、自分でも驚くほど鮮明に再生された。読んでいた本のページも、黒いランドセルの重さも、猫のガラス玉のような瞳も。「そして知った。一年に何匹もの猫が車に轢かれて死んでいるって」僕は思い出していた。十数年振りに。小学生の時に僕を襲った台風のようなこの事実を。いつまで僕は覚えていて、いつから忘れていったのだろう? それは、いつしかそよ風に変わり、どこかに吹き去って行ったのだった。

 「好むと好まざるに関わらずそれは起こるんだ。誰のせいでもない。だから、僕は名前をつけて猫を土に埋めた。そして、生きようと思った。せめて一生懸命に」

 「ねえ、ひとつだけ聞いてもいい?」

 「もちろん」

 「死はどれくらい残された人に影響すると思う?」

 僕が彼女の部屋に上がったのはそれが最初で最後だった。そして、彼女が僕の部屋に来ることはなかった。翌朝になると雨はすっかり上がっていて、僕らは水溜りを避けながら区のスポーツセンターに行って、ピンポンをした。彼女は結構な腕前で、ラリーは長いこと続き、僕らは笑いあった。そうだ。それでよかったのだ。それでよかった。

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