第28話 名前のないものを表したいんだ
# 28
「名前のないものを表したいんだ」絵の話をする時、奴はよくそう言っていた。だから、名もなき絵をアノニマスなまま発表することは、奴にとっては至極真っ当なやり方だったのかもしれない。今となってはそんな風に考えることもある。スクラップヤード。名もなき映画家の紡ぐ名もなきフィルムに、名もなき音楽家の演奏する名もなき音楽に、名もなき画家が描く名もなき絵画に、名もなき人間たちが声を上げる。そんな誰も知らない世界の片隅で僕たちは自由に生きることができた。
思い出す。
開店前の真っ暗な店の中、煌々と光を放つ投光器の下で絵を描く奴の後ろ姿を。スクラップヤードのコンクリートの壁に描く。それが奴の元に舞い降りた最初で最後の画家としての仕事だった。サラリーはブルームーン。夏の間、奴は何ダースもそれを飲み干した。火照った身体を冷ますように、その心臓にさらなる熱を注ぐように。あの日、店主の老人が店を閉め、夜更けのバレンシア通りに現れたのは、空が白む直前のことだった。老人はケチャップまみれのまま冬の熊みたいにうずくまる奴とそのすぐ横の壁に描かれた絵画を見て、一言「うちで描かせてやるよ」と言った。その日の晩、店が開く前に僕らがまず始めたのは奴の吐瀉物を掃除し、ブルームーンで乾杯することだった。
「なあ、完璧な芸術ってあると思うかい?」
「完璧な芸術?」
「つまり、これ以上はないっていう作品のことだよ。すべてを救えるような完璧な絵画、完璧な音楽、完璧な小説……君はそれを生み出そうとしているんだろう?」
「完璧か……」奴は遠くを見つめ、煙草をふかす。
「例えば風景画を描くとする。手前に海があって、奥に荘厳な山がある。海には薄く光が差していて、水面は所々がキラキラと輝いている」奴はそう言って、灰を落とし、ビールを飲んだ。
「お前ならどう描く?」
「そうだな、できる限り忠実に描く。目に映るものを、そのディテールを存分に伝えられるように」僕はそう答えた。
「なるほど悪くない。確かさって奴は一つの価値基準になるだろう。海の水の一雫一雫を表現できたら。山の木々の一本一本を、その葉の一枚一枚を。いや、もっと細かく。世界を分子レベルまで描き表すことができたら。それは一つの完璧さなのかもしれない」
「うん。きっとそれは芸術と呼ぶにふさわしい行為だと思う。そこには何よりも確かな……真実と正当性がある。時間という重みも。だが……」
「どうした?」
「こうも思うんだ。もしかしたら、海も山も、もうこの世界を過ぎ去った後なんじゃないかって」
「うん」
「彼らはこう言うかもしれない。『そんなこともあったかもしれないね』って。実際、その風景はもう過ぎ去ったものだ。つまり過去だ。そこに意味はあるんだろうか?」奴はビールを飲む手を止め、僕の目の深い所を見た。
「つまり、どれほどの時間と労力をかけようと、僕らは真実を描くことはできない。僕の言ってることは少し厭世的すぎるかな?」
「いや、その通りだ。失われた可能性になんてなんの意味もないよ。何かを正しく伝えたければ、携帯電話のシャッターを切ればいい。その方が圧倒的に効率的で写実的だ」
「効率的……か」
「だけど、俺たちはロボットじゃない。俺たちの世界はひとつじゃない。みんな勘違いしているんだ。この世界はいくらだって変えられる。根本から。それなのに、どいつもこいつも与えられたものを消費することに一生懸命なんだ。消費された分だけ作る。作ったらまた消費する。そうやっていたちごっこしているんだ。手段が目的に変わっている。それが人生になってる」奴はそう言ってビールを飲み干すと、箍を外すように新しい瓶の栓を抜いた。
「そのくせ、誰もが自分は違うと思っている。自分で選んだ気になって、人とは違うってフリをしている。だけど、結局はみんな自ずから同調しているんだ。同調したいという欲求にすら気付いてない。奴らは時代を、大衆を、自分の特別性のために消費して、自分の正しさのために踏み固めていく。つまらないよ! みんな同じじゃないか!」奴は畳み掛けるようにそう言った。その声は店で酒を飲む誰かの笑い声や叫び声に掻き消される。
「それなら、この時代に君が絵を描く理由はなんだ?」
「さあな。俺にはまだわからない。うまく説明できない。俺はキャンバスを前に何度も死のうと思った。絵画。それは何だ? 俺はそれに魅せられ、そのエネルギーの海に溺れ、それを飲み込んでは消化不良を起こして吐き出している。俺は絵を愛している。それなのに俺には絵が描けない。絵の方は俺を愛してはくれない。俺が描くものは誰にも理解されない。絵とさえ呼ばれない。俺は画家になりたかったんだ。誰よりも。真っ当な画家にね。でも、なれなかった。きっと身体のどこかにとんでもない欠陥があるんだ。どこかで取り返しのつかない失敗をしてしまったんだ。俺は芸術家じゃないんだ。芸術家のふりをしている、夢を見ているただの浮浪者なんだ。そう考えた。俺の愛、それは救いのないものだった。と同時に考えた。それが描くということだと。
この世界にまだ取り込まれていない何かを描きたいんだ。名前のないものを表したいんだ。俺たちはロボットじゃない。俺たちは携帯電話じゃない。もちろんダイヤル式電話でもない。だから描くのさ。だから描くんだ。探しているんだよ」
「何を……? 何を探しているんだよ?」
「ユートピアを」
ユートピア。
奴がその言葉を発すると、それはどこかにちゃんと実在する場所のように思えた。「ナウルとかキリバスを知っているかい? それと同じさ。君が知らないだけでちゃんと地図にも載っているよ」そんな風に語りかけられているような気になった。
「芸術にはその力がある。少なくとも想像し、思索することでそれに関わることができる。何だって手に入れられる時代さ。何かを忠実に描くことに何の価値がある? 俺たちははじめから間違っていたんだ。現実を模写するんじゃない。絵を現実にするのさ」
気が付くと店で酒を飲んでいるのは僕らだけになっていた。どれくらいの時代が過ぎ去ったのだろうか? 外の光のないこの場所では、時間なんて野暮なものはまるで役に立たないのだ。
「さて、はじめるとしよう」そう言って、奴は静かに筆をとった。
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