第19話 ある時、奴は一日中線を描いた
# 19
ある時、奴は一日中線を描いた。食パンを食べ、チープなインスタントコーヒーを飲むと、日が暮れるまで狂ったように手を動かし、キャンバスに夥しい数の線を描いた。
「なぜ、線ばかり描く?」僕は奴のアトリエの横、つまり屋上の給水塔にもたれながら、ノートにいつまでも進まない小説の断片を綴っていた。
「純粋な線を描きたいんだ。何かを形作るでもない。何かを分けたり、隔てるでもない。もちろん、何かを繋ぐわけでもない。完璧に濾過された、線であること以外、何の役割も持たないような線を」ボロ切れのようなコートが空を泳ぐ。季節は夏だというのに、奴はいつもそのコートを纏っていた。
「なぜそんなことする?」僕は尋ねる。
「キャンバスから一切の絵画的感傷を取り除きたいんだ。そうしないと俺の求める絵には近づけない」そう言うと、奴はキャンバスを睨みつけ、気が遠くなるほど長い時間をかけて一本の線を描いた。それはただの線だった。なんてことのないただの線。そうかと思えば、ふと何かのついでのようにまた別の線を描いた。それもただの線に過ぎない。そうやって、一本、また一本と線が何層にも重ねられていく。
「絵画的感傷って?」
「構図、色彩、対象、主題、歴史、宗教、権威、思想、金……つまり、絵以外のすべてさ」
またある時には、奴はキャンバスの上に絵の具をばら撒き、滅茶苦茶に混ぜ、塗り重ねた。赤、青、黄色……配色など関係ない。次々に色が飲み込まれていく。はじめは華やかだったキャンバスも次第に色彩が消え、いつしか淀んだ灰色が占めるようになった。
「何だい? この泥水みたいな色は」
「調和が生んだ色さ」それはすべてを飲み込む渦のような色だった。
「調和?」
「あらゆる色を混ぜ合わせたんだ」
「それでどうなった?」
「色を拒むようになった」そんな風にして、奴は奴にとっての絵を探し求めていた。
「これは絵なのかな?」一度だけ、奴にそう尋ねたことがある。無数の線や汚濁した色の塊。他にも、奴の生み出すものははっきり言って理解できないものばかりだった。だけど、僕は確かにそこに何かを感じている。何かを託そうとしている。
「さあね。でも、俺は絵と呼んでいる」夏の夕陽を背にブルームーンで喉を鳴らしながら、奴はそう言って笑った。「何も考えずに絵の具を垂らす、撒き散らかす。それだって芸術なんだ。むしろその方が俺らしいかもしれない」
「つまり偶然の産物?」
「世界には偶然しかないさ。俺たちにコントロールできる領域なんてショットグラス程もない。知らないのか?」
「それは絵と呼べるのか? 君は何を描いている?」
「わからない。名前のない何かなんだ」
「名前のない何か……ね」
「いや、名前はあるのかもしれない。俺が知らないだけでね。いずれにせよ、俺にはわからない。でも、俺は生み出そうとしている。それだけはわかる」
沈んでいく夕陽。連なる白木の建物の向こう、テレグラフの丘の上には塔が見える。
「普通の画家なら、きっとその崩壊に抗おうとするんだろうね。そして、名前をつけようと捏ねくり回す。でも、俺は違う。器用じゃないんだ。崩壊を受け入れる。名前を諦める。爆弾を抱えたまま、そのエネルギーをより忠実に描くために絵に従う。そしてまたスクラップが生まれる。それが俺さ」
絵。
僕はずっと、それは世界の一部分を写しとるものだと思っていた。対象が現実であれ、空想であれ、そこには切り取られるべき主題があるはずだと考えていた。今でも思う。奴の描いたものを絵と呼んでいいのだろうか? と。それは何物でもなかった。誰かにそれを説明しようとする時、僕はいつも頭を抱えた。なんとかしてうまい言い回しを見つけようとしたが、言葉を重ねるたびに本当の姿からは遠ざかっているような気になった。「つまり、それはこれなんです。一度見てみてください。そうすればあなたにもわかるから」結局最後はいつもそう言うしかなかった。
「描こうとしているのは過去? それとも未来?」
「わからない。果てしない過去にも、永遠の未来にも感じる」
「現実? それとも虚構?」
「現実であり、虚構でもある。そして、現実でも虚構でもない」
「矛盾だね。絵は描かれる。どんな形であれ、それは具象化される。そもそも、名前がない人間なんていると思うかい?」
「…………」奴は珍しく黙り込んだ。「矛盾……か。だが、矛盾がない生き方なんてあるのか?」奴はそう呟いた。そして、それは奴の言うことにしては珍しく真っ当なことだった。矛盾。それはただの惨めさであり、愚かさであり、不十分さであり、そして、それこそが生きるってことなのだ。
「でもどこかで出会っているんだろう? 目にしているんだろう?」
「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。はじめはね、はっきりと掴めるんだ。いや、そんな気持ちになるだけなのかもしれないが……俺は急いでそれを形にしようとする。いつだって、運命の女神は気長に待ってはくれない。描き進めると、だんだんと形が露わになっていく。髪の毛が揺れて、愛らしい乳房も、蠱惑的な陰毛も手に取れるようになる。『やった。今度こそ手に入れたんだ』そう思って、俺はパスタを食べに部屋に戻る。腹が減って今にも倒れそうだからね。湯を沸かして、麺を茹でて、フライパンに油を敷く。だが、そうしているうちにふと思い至る。何かが違うと。俺は急いで絵の元に駆け寄る。もう一度それを確かめる。するとね、それは確かに違っているんだ。俺が描こうとしていたもの、はじめに掴んだものと、どこかが違うんだ。それはほんの僅かな違いなのかもしれない。でも決定的な何かなんだ。俺は恐る恐る筆を入れる。ここまで漕ぎ着けたんだ、まだ間に合うはずさって。だけど、そんな筆致に求心力はない。はっきり言って最悪さ。そんな筆致は。冷たい汗が流れる。それでも何かを取り戻そうと筆を揮う。見当外れな筆致が増えていく。そして絵は壊れていく。
パスタは伸び、絵は壊れる。どちらもスクラップさ。だけどね、俺は愛しているんだ。俺の作るものを。だからまた描く。いつかもっと自由に、雄弁に語れるように」
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