第20話 朝だ

# 20

 朝だ。

 その日、僕は大学二年生で十九歳だった。十九歳というのはなんとも定義し難い年齢だ。まだ生まれたての大人であり、最も年老いた子供でもある。

 僕には歳の離れた姉がいて、小学生の姪っ子がいた。五月の連休に僕は姉の家族に誘われて、郊外にバーベキューをしに行った。木々に囲まれた渓流で、火をおこし、肉や野菜を焼いて食べた。静かな場所だった。姉の旦那がレジャーに明るく、日和の観光客にはまだ知られていない場所を抑えてくれたらしい。食事がひと段落すると、僕は下流の方へ下って、大きな白い石に腰を下ろし、川の流れをつまみにビールを飲んだ。僕が普段寝たり起きたりする場所では決して聞くことのできない音がそこには溢れていた。言葉にはできない音だ。僕はしばらくの間、目を閉じ、川や木や草や石が奏でるその流麗な音楽に身を預けた。

 「何してるの?」

 ふと誰かが僕のパーカーのフードを引っ張った。振り返ると、姪っ子が暇そうな顔をして立っていた。

 「音を聴いていたんだ」

 「何の音?」

 「川の音」

 「ふうん。それ本当?」彼女は大して興味もないといった様子でそう言った。

 「どうして?」僕は首を傾げた。

 「音を聞いていたなら、あの二人の声に気付かずに居られる?」姪っ子は上流の方を顎で指した。その方角に意識を向けると、川の音は消え、男と女が言い合う声が聞こえてきた。

 「あの二人いつも喧嘩してばっかり」

 「喧嘩するほど仲良しなんだよ」

 「そんなのムジュンしてる」

 「矛盾か。難しい言葉を知ってるね」

 「馬鹿にしないでちょうだい」そう言って、彼女は足元の小石を川に投げ込んだ。「大人ってどうしてムジュンするのかしら?」

 「難しい質問だ」

 「わからないの?」

 「そうだな……きっと僕たちは点の上にいるのさ」

 「え?」

 「線の上にいるわけじゃない。お腹が空く。ご飯を作る。ご飯を食べる。どれも点であって、そこに正しさも間違いもない。でも、お腹が空くのは困る」

 「何それ?」

 「あの二人はお腹が空いているんだ。そして、いまご飯を作っているんだよ。一生懸命にね」

 「あれだけお肉を焼いて食べたのに?」

 「物の例えさ」

 「ふうん。物知りね。大学生なのに」

 「まあね」

 「それじゃあ時間は?」

 「時間?」

 「ユーゲンだと思う? ムゲンだと思う?」

 「どこで覚えるの? そういう言葉」

 「ジョーシキよ。図書室の本で読んだの」

 「どんな本?」

 「タイムマシンの本。それでどうなのよ。知ってるんでしょう? あなた大学生なんだから」

 僕は一頻り考えた後に、「それは君次第さ」と答えた。彼女はやれやれといった様子でまた「ムジュンしている」と言った。

 「僕は矛盾しているのかな?」

 「してるわよ。大人っていつから矛盾するのかしら?」

 僕はそのことについて真剣に考えてみた。どこまでも続く天の川のような無数の点と、それを繋ぐ星座みたいな有限の線が頭の中に浮かんだ。

 「君も十九歳になればわかるさ」

 「あと十年もかかる」

 「そんなのあっという間だよ」


 僕はたいてい目覚まし時計よりも早く目を覚ます。それは五時とか、五時三十分くらいで、真夏以外は外はまだ薄暗い。カーテンを開け、枕と布団の皺を伸ばしてから、顔を洗い、歯を磨く。歯を磨いている間に電気ポットに湯を沸かしておく。そして、ゆっくりとコーヒーを落とす。よく晴れた日には洗濯物をする。やむを得ず、曇りの日に洗濯機を回すこともあるが、部屋に干すことはまずない。玄関を開けた時の部屋干しの匂いというのが、僕は世界で二番目に嫌いだから。そしてコーヒーが出来上がった頃、カップに移したそれを啜りながら、僕はその日、そこに吹いている風に思いを馳せる。

 小説を書き始めてから、ほとんど学校にはいかなくなった。黙って九十分間席に座っている。それを一日に何度も繰り返す。とてもじゃないが、僕にはそんな時間はなかった。十九歳は原則として三百六十五日しかないのだ。人生における三百六十五日、つまり八千七百六十時間。それはあまりに短い。僕らは灰になっていく煙草を見つめながら、それを吸って息をしている。一週間はあっという間に過ぎた。月曜日と木曜日には目深に帽子を被り宅配のアルバイトをして、金曜日と土曜日には酒場のホールで蝶ネクタイを締めて働いた。そして火曜日はジーンに会う。他の日は忘れた。お金はほとんど使わなかった。実家から送られてくる少しの仕送りとアルバイトのお金を足せば十分な生活ができた。他に何を望むことがあっただろう? 

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