第17話 平成が産声をあげた七日後に僕は生まれた
# 17
平成が産声をあげた七日後に僕は生まれた。長崎の海辺の長い階段を上ったところにある、官舎の二階の角部屋で。もちろん、その時の記憶なんてない。子供の頃、母の腕に抱かれて古いアルバムの写真を見ながらそう聞かされたのだ。
そこは四畳半くらいの小さな部屋だった。セピア色の壁、ウォータードロップのガラス戸、鴨居に吊るされた木製のハンガーには水色のシャツがかけられている。その反対側には押入れがある。紙焼けの黄ばみのグラデーションを際立たせるかのように、部屋の奥から白い光が差し込む。平成のはじまり。そこに僕はいた。
幼少時の記憶は窓辺に佇んでいる。なぜか、それは六月とか七月の記憶だ。赤と青と黄色のビー玉模様の描かれたグラス。氷の入った飲みかけの麦茶。お盆の上の鳥のような形をした水差し。扇風機が部屋の片隅でカタカタと回っている。ゴロっと氷が落ちる音がする。僕はその部屋で眠っている。
それが生まれた年の夏なのか、一歳の時の夏なのか、はたまた二歳の時の夏なのか、僕にはわからない。もしかするとそれは断片的な夏が混ざりあったものなのかもしれない。
時は流れ、十歳の夏には僕は東京にいた。小学校に通い、中学校に上がり、高校を受験して大学にまで進学した。ランドセルは学ランに、定期券はICカードに姿を変え、日々、物凄いスピードで世界は進化していった。高速道路に覆われた空。どこまでも続くコンクリートの砂漠。僕らに充てがわれたのは、かつてないほどの栄華を極める「都市の時代」だった。
中学校に上がった時、初めて携帯電話を買ってもらった。たいていのクラスメイトがそうだった。僕らは無限に思える海と小さな翼を手に入れたのだ。それは素晴らしいことだった。友人や女の子と呆れるほどに会話を積み重ねた。何だってボタンひとつで済んだ。世界はあの小さな金属の箱に姿を変えた。
十二歳の時にアメリカで同時多発テロが発生した。部屋でガールフレンドと電話している時に僕はそのことを知った。僕の部屋にはテレビが無かったから、電話口の彼女が教えてくれたのだ。彼女は「ねえねえ、テレビ見てる? すごいことになってるわよ」と興奮気味に言った。僕は「この部屋、テレビが無いんだよ」と言った。「何があるの?」と彼女は聞き、「机と学ランとベッド」と僕は答えた。それから彼女は「そんなことより、アメリカが大変なことになってるの。飛行機がビルに突っ込んだのよ」と続けた。
僕は携帯電話を放り投げ、リビングに行き、よく出来た映画のようなその様子を目に焼き付けた。そして、すぐに彼女に電話した。「見たよ」「びっくりでしょう?」「ああ」「わたしのおかげね」「そうかもしれないね」「それで話は戻るけど、明日の放課後どうする?」「……ねえ、明日考えることにしないか? 今日はもう眠たいんだ」「わかったわ」「悪いね」「ねえ、ひとつだけ忠告させて」「何だい?」「いろんなことにちゃんと目を張ってないと、いつかあなた置いていかれちゃうわよ」「何に?」「時代に」彼女はそう言って、電話を切った。
金属の箱は僕らに多くの幸いをもたらした。誰とでもすぐに話せるようになり、結局話したいことなんて何もないことに気付く。一過性のくだらないガラクタばかり集めて、真実が見当たらないことを嘆く。高校に上がると、僕は陸上部に入り長距離走の選手になった。もちろん、熱心な選手ではなかった。年に数回ある地区大会の前にだけ走り込んで、あとは週に二回、時間通りの練習をした。それ以外の日にはクラスメイトとマクドナルドでテレビ番組の話をしたり、ガールフレンドと映画を見に行ったり、そんな風にして過ごした。みんな僕を快く迎え入れてくれたし、隣に一人分のスペースを用意することを厭わなかった。でも、誰も僕のことを心から求めてはいなかった。誰かと関わりを深めるという段になると、僕はどうにもうまく立ち振る舞えなかった。何かを受け入れたり、何かを拒むことが苦手だった。どうして、みんなそれを求めるのだろう? どこかに根を張り、固定化されることを必要とするのだろう? 僕は誰にも気付かれずひとりぼっちになることがあった。クラス旅行や行事ごとなど、誰かに揶揄されることさえもなく気が付けば一人になっていた。気楽な奴だと思われていたのだろう。実際、そうだったのかもしれない。僕が歳を重ねる速度に比例するように、世界はワイドにそして複雑になっていったから。
「どうして突然、小説なんて書こうと思ったのかしら?」ジーンが尋ねる。僕たちは相変わらず手を繋いで新宿の街を歩いていた。
「不安になったのさ。いつまで、平均的でいられるだろうって」
「何それ?」
「平均的な身長、平均的な健康、平均的なハンサム」そう言うと、彼女はアハハと笑った。
「キミって、真顔で変なこと言うのね」
「案外大変なんだよ。これはこれでね」
僕たちはおやつに追分だんごを食べ、紀伊国屋書店に立ち寄り、そのまま丸井の方に向かった。
「何をやっても人並みだった。特別やりたいこともなかったし、手に入れたいものもなかった。そういうのって本人からしたら割に辛いんだ。量産品みたいで、色がない」
「冷めていたのね」
「違うよ。恵まれていたんだ。自分がそうだと気付かない程に」
三丁目の交差点を渡る。たくさんの人々とすれ違う。十年前、僕はまだ子供で、世の中は世紀末だった。十年後、僕は三十になる。彼女も。
「僕は自分のそういう部分を軽蔑していたし、ある意味では信じていた」
「ふうん」
「君はない? そういうこと」
「どんなこと?」
「自分の無意味さについて考えるってこと」
「わたしはないなあ」彼女は曇り空を見上げ、遠い目をした。彼女の横を歩いていると、僕はときたまそんな眼差しを見つけることがあった。どこか冷たく、触れがたく、茫然としたそんな眼差し。それは僕にスノードームの世界を思わせる。雪が降る街の丘の上に立つ一軒の家。赤い窓枠と黄色い灯り。その中にあるかもしれない暖かい生活。バラのつぼみ。だが、それに触れることはできない。ガラス玉に触れた途端、その世界は一瞬にして雪に埋もれてしまうから。
「いや、あったのかもしれない。きっとね。そんな気がする。でも、今はないわ。普通が一番よ。わたし、キミみたいになりたいもの。平均的に可愛く、平均的に幸せに」
「おいおい、それはないぜ」僕ははにかんだ。
「本当よ。そのために……頑張るの」
世界は再び新宿駅で、ガラス玉の外に出た彼女の横顔には、小さな決意のようなものが染み付いていた。
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