第10話 バートのモンゴメリー駅からビル街を北へ出て、何本かの路地を入った坂道の途中にドミトリーはある

# 10

 バートのモンゴメリー駅からビル街を北へ出て、何本かの路地を入った坂道の途中にドミトリーはある。淡い緑色の壁のイタリア風の建物がそれだ。ドアを入るとすぐにカウンターがあるが、普段は誰もいない。在住者にはカード・キーが渡され、それをかざすことで自由に出入りができる。建物は四階建てで、それぞれのフロアに同じような部屋がいくつかある。エレベーターはない。正確性を期せるなら、人が乗れるエレベーターはない。動いているところは見たことないが、荷物の運搬に使うための小型のエレベーターが廊下に一台あるだけだ。内装も外装も古く、いたるところにガタがきている。廊下はどの階も等しく黴臭かったし、入口カウンターの奥にある階段はとにかく建てつけが悪く、上がるたびに悲痛な音を立てた。水回りはもっと酷い。そのせいか、値段は近くにある似たようなホテルよりもほんの少しだけ安価で、長期滞在者が多く利用していた。

 僕の部屋は二階にある八番室で、そこにはベッドが三つと、同じ数の簡易ロッカーとライトが備え付けられていて、部屋の角には小さな机が一脚だけあった。同居人の一人は五十手前くらいのドイツ人で海洋大学の研究員として、地球環境に関する調査のためにここに来ていると言った。研究はある意味では順調なようで、彼の滞在は二年を過ぎ、海やレストランや坂道やゴールデンゲートブリッジはもう見飽きてしまったと愚痴をこぼした。家族のいるベルリンに帰れるクリスマス休暇を指折り数えるのが彼の唯一の楽しみで、いつも手帳に何かを書き込みながら、伸びたあご髭を撫でバウハウス風の難しい顔をしていた。

 もう一人は、フリーのシステムエンジニアをしているというポーランド人だった。彼はいかにも自由人といった印象で華やかなマルチストライプのシャツに裾の切れたブーツカットのジーンズを履き、腰にはインディアン柄の大きなバックルのついたベルトを締めていた。「現代の三種の神器はなんだと思う?」ハーブティーを淹れながら、彼は僕にそう尋ねた。「さあ?」と答えると、「クレジットカードとネットバンキング。それからこいつさ」と言って、ノートパソコンを指差した。「この三つさえあれば、どこだって生きていける。今はそういう時代なんだ」彼は嬉しそうにそう言うと、カタカタとパソコンのキーを叩いた。実際、彼はいつだってノートパソコンを開いていた。その様子は僕に現代のボヘミアンを思わせた。

 でも結局、僕らが言葉を交わしたのは最初の日だけだった。皆、常識的な大人で、それ故に孤独を好み、互いに干渉するということはなかった。それに生活のリズムがバラバラだったから部屋で顔を合わせる機会も少なかったのだ。僕も眠るとき以外はほとんど部屋に戻らなかった。大抵は外出していたし、外出していないときにも屋上か奴の部屋にいた。


 「この部屋っていくら?」

 「さあ? お前の部屋と大して変わらないんじゃないか」奴は関心なさそうにそう言った。

 「どうしてこんなに広いんだ?」

 「神のご加護を受けているのさ」

 奴の部屋は異常に広かった。いやよく見ると、間取りは僕の部屋と変わらない。だが、奴はその部屋を一人で使っていたのだった。

 「お前なんかよりもポーランド人の方がよっぽど神のご加護を受けるべきだ」僕はそう憎まれ口を叩いた。

 「同感だ。だが、神の方が俺を選んだ」奴はそう言って、ニヒルに笑った。奴の部屋には大きな出窓が付いていて、そこからコロンバス通りの様子がよく見えた。奴はその出窓に一輪の花を挿したブルームーンの瓶とサインペンの跡がついた灰皿、底の茶色くなったヒースのマグカップ、それにペーパーナプキンに包まれた食べかけのバゲットを並べていた。

 「そういう人間ほど早く死ぬんだぜ。神に愛想をつかされて」

 「死が怖いか?」

 「怖い……そう思う時もある」

 「そうか、それなら」

 「それなら?」

 「パスタを食おう」

 奴はよく共同の調理場でパスタを作ってくれた。マーケットで仕入れたどこよりも安い値段の乾麺を茹で、油と塩とツナ缶で炒めて、最後に必ずビールをひと回し掛けて強火でアルコールを飛ばす。僕らはその料理を「ケネディズ・パスタ」と呼んだ。材料を全部足しても五十セントで済むから。残ったビールを飲みながら、僕らは腹を膨らませると、またそれぞれの作業にかかった。「パスタ以外に何か作らないの?」と僕が尋ねると奴は「絵を描く」と答えた。

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