第11話 ジーンはいつも何かに怯えているようだった
# 11
ジーンはいつも何かに怯えているようだった。伏し目がちに歩き、滅多に自分のことを話さない。あるいはそれはアンニュイな雰囲気とも言えるのかもしれない。僕は彼女のそういうところを好んでいたし、彼女自身もそういった抑制的な振る舞いを好んで選んでいるように思えた。実際、何度かデートをしても、彼女について僕が知り得たことはほんの僅かだった。毎日きちんと大学の授業に出ていること。放課後は家庭教師のアルバイトをしていること。妹が一人いること(歳が離れているせいかあまり似ていないらしい)。北の国の生まれということ。それでも、僕は彼女のことが気になっていたし、彼女の方もわりに僕と過ごす時間を気に入っているように感じた。
「待った?」そう言って、彼女が飲み物を片手にやってくる。華奢な身体に、ロックバンドのティーシャツと引っ掻き傷のついた五〇一。日差しの強い日は大きな黒いサングラス。彼女の格好はいつもそんな感じで、決してファッショナブルとは言えないものだったが、なぜか彼女がそれを纏うと、他には選択肢がないと思えるくらい洗練されて見えた。
「ううん。僕も今来たところだ」
火曜日に僕らはデートをした。午前中で授業が終わり、彼女のアルバイトの予定もない火曜日に。学生棟の前で待ち合わせて、街へと繰り出す。それがいつの間にか僕らの習慣になった。
「今日は何の授業だったの?」
「必修の英語とそれから心理学よ」
僕たちはお昼を食べたり、買い物をしたりしながら、昼下がりの明治通りを歩いて新宿へと向かった。
「心理学っていうと、あれかな。ユングとかフロイトとか?」
「そうね。でも、わたしが勉強しているのは認知心理学」
「難しそうな響きだ」
「そんなことないわよ。誰かの記憶や言葉、世界を理解するための勉強だもの」
「誰かの世界ねえ」
「遺伝学を勉強しているとね、だんだん人ってものがわからなくなってくるの。だって、結局はみんなATGCの配列なんだから」
そんな話をしながら、僕らは緩やかな坂道を下っていく。大きな綿雲が風に乗って流れていき、ビルとビルの間から五月晴れの空が覗く。その向こう、NTTの時計塔がだんだんと大きくなっていく。なんとも立派な時計塔だ。この道を歩いていると、いつもあの時計塔に向かっているような気持ちになる。「時間はいつもそこにあるのだ」と時計塔は告げる。実際、時間はいつもそこにあるのだ。今だって、ほら、ここに。
二股に分かれた道を右に折れ、コンビニエンスストアーで水を買い、僕らは花園神社で休憩した。鳥居をくぐり、柔らかい木漏れ日の降る参道を抜け、階段の端に腰掛ける。ほとんど人はいない。辺りを闊歩する鳩の方が多いくらいだ。そのことを話したら、「平日の昼間だもの」とジーンは言った。「鳩にも平日はあるのかな?」と言うと、彼女は呆れた顔で「さあ」と言った。
大きなリュックサックを背負った外国人のカップルが一組、ガイドブックを片手に見よう見まねでお参りをしている。トゥー・アプリシエーション、トゥー・アプローズ……その姿はぎこちない。でも、彼らはできるだけこの場所の秩序に従い、あるべき姿でこの世界に迷い込もうとしていた。それはなんというか、とても詩的で同時に酷く滑稽な光景だった。ブローティガンあたりが好んで描きそうだ。
一息つくと、ジーンは鞄からカメラを取り出し、シャッターを切った。平日の神社には撮るべき風景なんてあまりないように思えたが、彼女はしゃがんだり背伸びをしたりしながら、いくつかの景色を切り取った。彼女はいつもカメラを持ち歩いていた。そして、デートの合間に必ず写真を撮った。それはライカのフィルムカメラで、カメラに詳しくない僕にも随分と年季の入ったものであることがわかった。死んだ父親が使っていたということ以外、彼女はその出自について詳しいことを知らなかったが、実際それはかなり古いものらしく、前にフィルムを買いに二人でショップに立ち寄った時に、「壊れたらもう修理は効かない」と店員に言われていた。
彼女が景色を切り取っている間、僕はノートに言葉を綴る。彼女といると不思議と言葉が湧いてきた。僕はそれを逃さないようにペンを走らせる。メモを取るように素早く、断片的な言葉を書き連ねる。時間はいつもそこにあるのだ。そういう意味では、彼女も僕も、今この瞬間のすべてを残すことに精一杯だった。ありのままに、できる限り忠実に、全身で僕らはこの瞬間を肺の奥に吸い込んだ。
「何をそんなに一生懸命に書いているの?」彼女が戻ってくる。陽だまりの中から、重たそうなカメラを首にぶら下げて。
「新しい世界だよ」
「ふうん。楽しそうね」
「ある日気がついたんだ。言葉を変えれば、世界はいくらだって変えられる。言葉を操れば、誰にも傷つけられず、誰も傷つけずに新しい世界が生み出せるってね」
「まるで魔法みたい」彼女はハンドタオルで額を拭うと、僕の隣に掛けた。「どんなことを書いていたの?」
「重たい時間のこと」
「重たい時間?」
「分針だけで一トンあるんだ」そう言いながら、僕は時計塔を指差した。
「ああ。あの時計塔の分針ね」彼女は身を捩り、時計塔を一瞥した。仄かに汗の匂いがした。
「そんな重たい時間なんて過ごせるのかな?」
「面白いこと言うわね。キミって」彼女はそう言いながら、バッグからペットボトルの水を取り出し、それを口にした。「でも、わたしにはわかるような気がするな。少しだけだけど」
「何がわかるの?」
「重たい時間ってやつ」そう言って、彼女はカメラを僕の首に掛けた。それは見た目よりずっと重たく堅牢な作りをしていた。
「ほらね」
「たしかに重たい。持ち歩くのに骨が折れそうだ」
「もう慣れたわ」
「いつも何を撮っているの?」
「記憶よ」
「記憶?」
西からの木漏れ日が揺れ、新宿の街に不似合いな優しい風が境内を吹き抜けた。気付けばもう日が傾き始めていた。
「そんなことよりも、これからバーに行かない?」
「いいけど、珍しいね」
「お酒を飲みたい日ってあるでしょう?」
「例えば?」
「悲しくて仕方ない日、楽しくて仕方ない日」
「今日は?」
「後者ね」
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