第8話 How many roads must a man walk dawn……
# 8
「How many roads must a man walk dawn……」コンビニエンスストアを出ると、一気に重力が戻ってきた。チューハイやら発泡酒やら、安酒が入ったビニール袋が両手に食い込む。ボブ・ディランもこんな夜を過ごしたのだろうか? 夜風が下手くそな歌を攫っていく。
「Yes, and how many years can some people exist……」その日、僕はひどく酔っ払っていた。ゲームに負けたのだ。そして、酒を飲まされ、しまいには酒を買いに走らされた。
「Yes, and how many times can a man turn his head……」闇夜に電線が張り巡らされている。自動販売機の明かりが辺りを煌々と照らす。サークル棟からコンビニエンスストアまでは、歩いて十分と少しかかる。ちょっとした距離だ。『風に吹かれて』が四回は歌える。校門から伸びる長い緑道。明るい時間には学生たちで溢れかえるこの場所も、夜には色を隠し、木々の騒めきだけが辺りを支配している。文学部棟、経済学部棟……古い建物が連なる。金網の向こうには野球場が見える。その横にはテニスコートもある。入学した時にはキャンパスのあまりの巨大さに辟易したが、一年も通えば大抵のことは覚えられた。
「Yes, and how many deaths will it take ‘till he knows……」文学部にも経済学部にも顔見知りができたし、女の子を誘ってテニスをしたこともあった。それなのにアルコールのせいか、夜の闇のせいか、僕には彼らのことがまるで思い出せなかった。
「Yes, and how many years must one man have……」ビニール袋を地面に下ろし、手の平を開いては閉じて痺れを取る。暗闇の向こうから誰かの拍手する音が聞こえたのは、僕の何度目かの『風に吹かれて』が終わりに向かおうとしている時だった。
「ボブ・ディランね」目の前に一人の女の子があらわれた。
「こんな時間に何しているの?」
「キミの方こそ」女の子はニコッと笑い、何かを探るように上目がちにこちらを見た。明るい茶色のショートヘアにカチューシャ風の黄色いバンダナ。その姿はロイ・リキテンスタインの絵の女の子のようだ。
「僕はお酒を買いに行ってたんだ。仲間に頼まれてね」
「わたしは探し物をしてたの」
「どこで?」
「学生棟の遺失物センター」
「イシツブツセンター?」
「知らない? 落し物とか、忘れ物を預かってくれている所」
「知らない。何も落とさないし、なるべく忘れないようにしてるからね」
「あら、すごい。だけど一度行ってみるといいわ。キミの知らないところで落としているものがあるかもしれないじゃない?」
「そんなものないよ」
「でもね、実際いろんなものがあるのよ」
「例えば?」
「ペンとか教科書とか、ノートとか」
「興味がないね」
「古い椅子とか、絵の具のセットとか、ケルアックのペーパーバッグとか、あとアナログレコードもあったわ」
「誰の?」
「バルネ・ウィラン」
「そんなもの誰が落としたんだろう?」
「さあ?」彼女は古いアメリカ映画の女優のように、大袈裟に両手を広げて見せた。
「ところでキミ、歌詞が違うじゃない」
「歌詞が違う?」
「『風に吹かれて』よ。キミの発音だと年月になるわ。『years』。でも、正しくは『ears』。耳よ」そう言って彼女はその部分を一度歌った。「Yes, and how many ears must one man have, Before he can hear people cry……」思いの外、優しくか細いソプラノが僕らの間にだけ響いた。夜を照らす豆電球みたいな歌だった。
「上手だね」
「ありがとう」
「英文科?」
「ううん、理学科。遺伝学を勉強しているの」
「何年?」
「二年」
「僕と同じだ。名前は?」
「そんなもの忘れたわ」彼女は一呼吸置いてからそう答え、「じゃあ」と立ち去ろうとした。
「そうか、それなら君はジーンだ! 遺伝子のジーン、記憶のジーン、暗号のジーン」僕は人差し指を立ててヒトラーのようにそう宣い。一度、大きなしゃっくりをした。彼女は顎に手を当て、しばらくの間その言葉を反芻すると、悪くないわねと言った。
「ジーン。キミはお酒は好き?」
「嫌いじゃないわ」
「それならお酒を飲もう。僕らの出会いを祝して」そう言って、僕はビニール袋から適当な酒を取り出した。
「飲んじゃっていいの?」
「いいさ。くだらない連中のためのくだらない酒だもの」
「友達をなくすわよ」
「また見つければいいさ。それよりもほら! 袋が軽くなる」
「キミってちょっと変な人?」
「君の方こそ」
プルタブを引く音が二つ夜を貫く。僕らは学生棟の前の階段広場に腰を下ろした。煉瓦色のブロックの上に置かれた酒の缶。彼女の古いシルエットのジーンズの裾がそこに並ぶ。
「夏にはここでモダンジャズ研究会の演奏を聴いていた」
「ジャズが好きなの?」
「いや。だけどその日はとにかく蒸し暑くて、今にも雨が降り出しそうで、ジャズのピアノの音が気持ちよかったんだ。ジャズは知ってる?」
「あんまり」
「バルネ・ウィランを知っていた。それにボブ・ディランも。響きが似ているから?」
「まさか。昔、聴いていたことがあるだけよ」
「昔っていつ?」
「遥か遠い昔ね」
「今は聴かないの?」
「あんまり」
「通学の時間はどうしてる?」
「寝るか、勉強してる」
「歩いているときは?」
「歩いている。当たり前じゃない」
「そうか。そりゃあそうだ」僕はビニール袋に手を伸ばし、二本目の缶を口にした。それからすぐ彼女も同じようにした。
「ジャズもいいけどね。秋になると虫の音が聞こえるんだよ。寝転がっていると気持ちがいいんだ。ここは」
「キミって本当に二年生? 授業には出てないの?」
「出ていることにはなってる」
「ふーん」
「でも、もっと大事なことがあるんだよ」
「ジャズを聴いたり、虫の音を聞くこと?」
「そうさ」
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