第7話 奴と出会ったのはこの街に来てすぐのことだった

# 7

 奴と出会ったのはこの街に来てすぐのことだった。

 五月だというのに日差しが強く、よく晴れた日で、僕はドミトリーのランドロマットで洗濯した服を干すため、屋上へと向かう階段を上がっていた。屋上に行くのは初めてだった。そもそも、屋上があることすら知らなかった。洗濯物はいつもあのタフな乾燥機で、石膏のギリシャ人の頭みたいにゴワゴワに乾かしていたし、寂れたドミトリーの屋上はとても眺望が良い場所とは思えなかった。だが、その日ばかりは違った。三台ある乾燥機がすべて壊れていたのだ。洗濯機を回してから僕はその事実を知った。きっとあまりにタフ過ぎたのだ。あの乾燥機は。過ぎたるは及ばざるが如し。何事もやり過ぎはよろしくない。というわけで、僕はカゴの中で打ち上げられた海驢のように横たわる、ティーシャツやパンツや靴下を再び泳がせるために階段を上がっていた。

 「ナンセンスだ」屋上のドアーの向こうから男の声が聞こえた。

 「ナンセンスさ! それが芸術だ」別の男がそう答えた。何か口論でもしているのだろうか? 僕は様子を伺うため、そっと半開きのドアーを開けてみる。

 「おい、やめろ! やめるんだ」騒ぎ立てる男の声がした。ドアーの隙間から、バケツを逆さにしたように降り注ぐカリフォルニアの黄色い光。目が眩む。鼠色のコンクリートの床。そこにはなぜか絵の具が飛び散っている。夏めく日差しを受け、ステンドグラスのように煌めく屋上。そこは別世界だった。これまでに数多くの旅人が夢と自由と理想を追い求めてテレグラフを訪れた。だが、一人としてこの場所に気付く者はいなかっただろう。世界に残された余白のようなこの場所に。そして、僕は見た。その中心に聳え立つキャンバスと、その向こうで絵筆を振る奴の姿を。揮うのではない、文字通り奴は絵筆を振り回し、口論の相手に向かって絵の具を撒き散らしていた。

 「ボスに言いつけてやるからな」作業着を着た清掃員が声を荒げる。彼の服にもあっという間に色の斑点模様があしらわれた。

 「あんたの服、前よりもクールになったよ。まあ、あんたには理解できないだろうけどな」奴の言葉を背に受けながら、清掃員は急いで干していた雑巾を引き上げると、僕の横を通り過ぎていった。

 「ざまあみやがれ」奴はドアーに向かって、愉快そうに中指を立てた。そして、ようやく僕に気がついた。

 「何だお前は?」

 この場所の主はルンペンのようなボロを纏っていた。廃墟に掛けられたカーテンみたいなグレーのコート。毛玉だらけの赤いセーター。いたるところに継ぎ接ぎが施されたジーンズ。遭難者のローファー。何もかもがちぐはぐで、でも、そのすべてに付けられた絵の具の跡がまるで点描画のような不思議な一体感を醸していた。

 「洗濯物を干しに来たんだ」僕はそう答えた。ふうんと値踏みをするように、奴は僕の足の爪先から頭まで視線を往復させると、「それならあっちがいい」と屋上の端っこを指差した。そこは、隣のビルに面した日当たりの悪い場所だった。おまけに巨大なダクトからは、見るからに質の悪そうな空気が吐き出されている。

 「君が場所を変えることはできないかな?」僕はできるだけ歩み寄ろうと、愛想の良い笑みを浮かべてそう尋ねた。だが、奴は何を言ってるんだという顔でこちらを一瞥すると、黙ったまま再び絵に対峙した。

 「今日だけでいいんだ」僕はそう懇願した。きっとあのタフな乾燥機も緩急を覚え、技巧派投手としてカムバックするだろう。

 「俺は絵を描いている。お前は洗濯物を干す。どちらが優先されるべきかは火を見るよりも明らかだ」奴は尊大そうにそう言った。

 「それは君の意見だ」

 「俺にとっては最も尊重されるべき意見だ」

 「……それなら、僕も僕なりのやり方をさせてもらおう」頭にきた僕はキャンバスを無理やりに動かそうと奴の絵に掴みかかった。そして立ち尽くした。「なんだ……これは?」その絵は不思議な力を持っていた。

 「何を書いた?」

 「さあ」

 「さあ?」

 「つまりね、即興演奏さ」

 「テーマは? タイトルは?」

 「そんなものは知らない」

 「何だって?」

 「だけど、感じないか?」

 「何を?」

 「熱狂を」

 その絵はあらゆる調和を拒んでいた。無数の傷のような荒々しい筆致があるだけで、意味のあるものが一つもない。対象も構図も見えない。配色だって無茶苦茶だ。そこには気分しか感じられない。実際、それはただの筆致に過ぎなかったのかもしれない。操ることのできない、何か膨大な熱と感情を詰め込んだ筆致に。

 「……なるほど。何もかもが滅茶苦茶だ。理解できない」僕の頭は必死にその絵を何かに結びつけようとした。色や形を入口にして、僕の知っている何かと結びつけようとした。でも、うまくいかなかった。ある入口を辿っていくとまた別の入口にぶつかる。どこにも出口がない。そんな風にあらゆる葛藤や欠如が一枚の絵の中で激しく衝突し合っている。それなのに、いやそれだからこそ、その絵はひどく美しかった。

 「だけど、素晴らしい」その絵は僕の心の深いところを揺さぶった。

 「何しにここへ来た?」奴が尋ねる。

 「だから洗濯物を干しに」

 「違う、この場所に来た目的だよ。旅行者か?」

 「違う」

 「労働者か?」

 「それも違う」

 「じゃあ、学生か?」

 「違う」

 「それじゃあ、何だ? お前は」

 「小説を、書きに来たんだ」

 ドミトリーの屋上。そこが奴のアトリエだった。西海岸の日差しと鼠色のコンクリートと淀んだ室外機の音に囲まれたあの屋上が。空の下、カゴの中のティーシャツを広げると、白い生地に絵の具が飛び散っていた。

 そして、僕らは友達になった。

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