第5話 かつて、僕が今の僕になるずっと前にも一度小説を書いてみたことがあった
# 5
かつて、僕が今の僕になるずっと前にも一度小説を書いてみたことがあった。自分の中で蠢いている何かを表したくて、手付かずの夜風の匂いを表したくて、あの子の唇の感触を表したくて。それは衝動のようなものだった。僕は突き刺さないといけなかった。過ちを犯しておく必要があった。できるだけ……若いうちに。だから、その代わりに小説を書いた。そうすることで、その得体の知れない何かとの調和を図ろうとしたのだ。
近所の文房具屋でペンとノートを買い、青春のある時期を消費して、僕はその思いを形にしようとした。テクニックやメタファーなんてない。未熟な表現で心のままに書いた。今となっては、それ以外にも方法はあったように思える。多くの青年は酒を覚えたり、喧嘩をしたり、バックパッカーをしたり、できるだけ多くの女の子とセックスをしたり、それが叶わなければ夜中にあてもなく街をほつき歩いたりすることで、その衝動と闘う。ある意味それが健全なことなのだ。小説を書くというのは、そういった手法の中ではいささか不健全なことなのかもしれない。実際、その行為にはほとんどお金がかからなかった(必要経費といえばペンとノートとコーヒー代くらいなものだ)し、他人には一切の迷惑をかけなかった。そんなことって、とても不健全だと思わないか?
何はともあれ、僕は小説を書いた。とどまることを知らない不完全な言葉の断片達がノートの上で踊った。それは散文詩のようなものだったのかもしれない。乱雑で刹那的な散文詩。実際、何かをしっかりと包み込んで、咀嚼し、写実的に語るには僕は若すぎた。慌て者の手もせっかちな頭もそれを待ってはくれなかった。紡いだ言葉たちに深い意味や教養なんてなかったし、必要もなかったのだ。朝から晩までただただ書き続けた。推敲もせずひたすら書いた。振り返ることはなかった。そんなこと考えもしなかった。吐き出したものよりも、これから吐き出すもののことで頭がいっぱいだった。とにかく、一日中そんなことをして過ごしていた。やるべきことはいくらでもあったけど、やりたいと思うことは他にひとつもなかった。
「それで、キミはどうするつもりなの?」
行為の後、ベッドに掛け、ジーンは言った。窓の外、大ガードの上をその日最後の列車が駆け抜ける。
「まずは小説を完成させたい。他のことはそれから考えるさ」新宿のラブホテルだった。化粧を落とした彼女は、普段よりも少しだけ素朴で優しい顔をしていた。キャバリアのような大きな瞳、冬の湿原のように長い睫毛、清純さと陰鬱さが拮抗した結果、どこか虚ろでフィリップ・ガレルの白黒映画にでも出てきそうな、僕の大好きな彼女の目。
「小説ねえ……」
その日は彼女の二十回目の誕生日だった。僕らは新宿にあるワシントンホテルのレストランでローストビーフとケーキを食べ、エスプレッソを飲み、摩天楼の下を彷徨いながら酒場を何軒か放浪した後にラブホテルに泊まった。そして性行為をした。だが、それは所謂セックスではなかった。僕らが夜を共にする時の多くに彼女は生理が来ていて、そして、生理が来ていない時もなぜだか上手くいかなかった。僕のが勃たなかったり、彼女のが濡れなかったり、お互いに酔っ払って途中で眠ってしまったり……と。
「小説を書いてどうするつもり?」
「わからない。だけど、最後まで書かないといけないような気がしている」
僕のがどうしても収まらない時、彼女は口や手でそれを慰めてくれた。はじめのうちは、「まあ、こんな日もあるよな」なんて思っていたが、いつしかそれが僕たちにとっての正常な交わりになっていた。
「どんなお話か聞かせて」
「明日にしないかい? 酷く瞼が重たい。ウイスキーをやり過ぎたみたいだ」
「さわりだけでいいから聞かせてよ」
「さわりねえ……うん、どこにもないようなものを書きたいんだ。僕だけの、僕にしか書けない何かを」
「青春小説?」
「いや、違う」
「恋愛小説?」
「ううん」
「SF? 推理小説?」
「違う、違う。物語はなんだっていいんだ。そんなものは箱にすぎない。それよりもこの渦巻く何かを書きたい、吐き出したい、形にしたいんだ」
セックスに対して焦りや欲求を覚えることはなかった。そういう奴はあまりクールとは思えなかったし、僕は僕で彼女とのペースに居心地の良さを感じていたから。
目を閉じると、嵐の海を行くカティサーク号が頭の中を過ぎった。その頃、僕は狂ったように大学の図書館に通ってありとあらゆる本を読んでいた。文学、芸術、哲学、歴史、科学……棚の端から端まで貪るように手に取り、閉架書庫から埃をかぶったいくつもの古い本を試錐した。力が欲しかったのだ。あらゆる感情を統べる力を、あらゆる風景を模写する力を、飲み込まれていきそうな未来を変える力を。でも、何も変わらなかった。決して白読していたわけではない。だが僕は相変わらず無力だった。
だから、本を読み続けた。そうすることで自分を保とうとした。「僕は何かを掴みかけている。そして、僕がそう感じていられるうちは掴みかけられている何かはまだそこにある」そんな風に言い聞かせながら。黴臭い本棚の列を何度も往復し、尋常じゃないペースで読み漁った。貸出カウンターの職員は、僕の顔を見るたびにうんざりという顔をした。そして、僕は夥しい量の知識を手に入れた。科学の発展は目覚ましいもので、巨大な宇宙のことも、微細な原子のことも、数億年前の世界の成り立ちも、美味しいカレーの作り方も、今ならなんだって形而上学的に解かれている。本をひらけば、僕は世界の主になったかのようにすべてを掌握できる。それなのに、どうしてこんな気分なんだ? 僕は未だ沸々と湧き上がるこの気持ちを表すことはできなかった。
「でも、僕には言葉にできない……救えないんだ」
僕の言葉にジーンは首をかしげ、はにかんだ。
「人間はね、誰しも名作よ」
「名作……ね」
「どんな傷があったとしても」
「傷か」
「いいじゃない。キミはわたしといれば」そう言って彼女はその細い腕の中に僕を抱きしめた。白い肌の向こうに恒星のような熱を感じる。小さな胸に耳を寄せると、心臓の鼓動がはっきりと聞き取れる。生きるというのはこういうことなのかもしれない。そんなことを思った。
「君はどんな話が好き?」
「わたしが聞きたいのはこんな話—わたしたちはね、ある春の日の微睡みの中にいるの。どこか静かな住宅地にあるアパートの二階で。部屋はここより少し狭くて、ベッドも一回り小さい。家具も背の低いテーブルくらいで。だけど、とても大きな窓があるの。クリーム色の壁がペンキで塗った窓枠で切り取られていて、窓枠には植物が置いてあって。それでね、カーテンの向こうが白んできて、キミが先に目を覚ますの。キミは毎朝目を覚ますたびに『あれ、ここはどこだっけ?』って顔をするんだけど、隣にいるわたしを見て思い出すのよ。自分の世界の成り立ちを。
遠くから新緑の香りを纏った列車が踏切を通る音が聞こえてくる。キミは林檎色の電気ポットでお湯を沸かす。ペーパーフィルターを開いて、コーヒーを淹れるの。その頃にはわたしも目を覚ましてきて、二人で鏡の前に並んで歯を磨く。同じ柄のパジャマで、キミが緑、わたしはテラコッタ色。歯磨きが終わったら朝ごはんね。『昨日どこそこで買ってきたのよ』なんて言いながら、紙袋からクロワッサンを取り出して、サラダと目玉焼きを作って、フィンランドの花柄のプレートに乗せる。わたしたちは向き合ってそれを食べる」
「待って! クロワッサンは温めてくれるの?」
「うん。キミが望むなら。キミが望むことならなんだってしてあげるのよ。わたし。料理もお掃除もお洗濯も。フェラチオだってなんだってしてあげる」彼女はそう言って、僕の頭を撫でた。
「それから、わたしたちに子供が生まれる」
「僕たちまだやってもないんだぜ」
「コウノトリが運んできてくれるのよ」彼女はそう言って笑った。
「どんな子供?」
「キミにそっくりの男の子と女の子」
「どんなところが?」
「不器用なところ」
「君には似ていないの?」
「わたしのは少しだけでいいの。例えばジーンズを履くのが好きとか。そんなとこ」
オレンジ色の電球がベッドの上で揺れている。僕もあと数ヶ月で二十歳になる。スイッチに手をかける。OFF、真っ暗だ。
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