第4話 何も描きたくないんだ!

# 4

 「何も描きたくないんだ!」奴は不機嫌そうにそう言い放った。

 「何も考えて欲しくない。問いかけて欲しくない。疑問を持たないで欲しい」蒸し暑い六月の夜だった。僕らは、ブックストアーの隣の酒場の二階にある物置のようなテラス席(そこが僕と奴の溜まり場だった)にいた。

 「何も語って欲しくないんだ。とにかく名前を消したい。ありとあらゆる名前を消し去りたいんだよ」

 「名前を?」

 「わかるかい? それが絵だと思うんだ」

 積み上げられた空き瓶のケースが、巨大な室外機の音が、交差点を行き交う車の吐く排気ガスが、散弾銃のような奴の言葉をくぐもらせる。

 「俺の絵を語らないでくれ。言葉にしないでくれ。あれは感情なんだ。汚さないでくれ」奴の手にはブルームーンの瓶が握られている。

 「美化も矮小化もしないでくれ。あれは感情なんだ。たまたまキャンバスに書きつけただけの。現象でも仮象でもない。あれは感情なんだ」

 酒を飲むと、奴の口からは面白いように謗言が沸いて出た。憎悪を吐き出し、空いたスペースにアルコールを注いでいく。いつものことだ。

 「真の芸術においてあらゆる言葉は意味を持たない。そうだろう?」極彩色のペンキで塗られた店の壁には一片の詩が刻まれている。「バッタの影が野ネズミの轍を横切った時……」こんな言葉から始まる詩が。

 「どんなに難しい顔をしようと、どんなに頭を捻ろうと無駄さ。俺にだってわからないのだから。はじめから理解できないもの。それが芸術なんだ。なあ、そうだろう?」

 見上げると、空には黄色い月が出ていた。

 「それなのに、どうして何かを伝えないといけない? どうして誰かで在らないといけない? 何も伝えることなんてないんだよ。伝わることがあれば……それでいいんだ。理由もない。答えもない。テーマもモチーフも糞食らえだ。そんなものは、どこかの錆びれたラブホテルの一室で性液に混ぜて吐き出してくれ」奴は乾いた喉を湿らせるようにブルームーンを煽ると、ポケットからグシャグシャに丸められた紙を掴み取り、テーブルの上に置いた。

 「作品より先に幸せになろうなんて、俺にはとても考えられないね。だいたい、優れ過ぎているんだ。俺の絵は」奴はその紙についた皺を丁寧に伸ばしながら、中身を開いた。だが、そこに書かれた言葉は変わらない。奴は再び顔を歪める。

 「優れ過ぎている、だから展示されない」僕は憎まれ口を叩く。

 「見たもの、感じたこと、悲しみ、怒り、喜び……とにかくなんでも隈なく説明できればいいって訳じゃないだろう? おしゃべりな奴はむしろ嫌われる。うんざりさ。絵は世話焼きのロボットじゃないんだ。それに大体がして、そこには大きな壁がある。現象と仮象の間の大きな壁が。絵はそのどちらにも属さない。絵は絵なんだ。なあ、そう思わないか?」

 「ああ。だけど……」

 「だけど?」

 「孤独な男はおしゃべりだ」僕がそう言うと、奴ははっと口を噤み、「かもね」と呟いた。

 もちろん、僕は奴の絵が嫌いじゃなかった。いや寧ろ、そこには好きという以上の何か特別な感情があったように思える。ただ、それを誰かに説明することはできなかった。うまく伝えることができなかった。どんな点が優れていて、どんな感情が沸き起こっているのか。

 「僕が思うに、芸術においてすべては既に成されてしまっているんだ。ロボットもきっとそう答えるだろう。『モウヤルコトハナクナッテシマイマシタ』ってね」

 「そんなロボットとは、是非友達になりたいね」

 「何もかもが洗練されすぎているんだよ。絵も歌も言葉も。便利な世の中さ。僕らの肌には傷がない。怒りも悲しみもない。イデオロギーだってない。それなのに誰もが『神は死んだ』って言葉を知っている。そんな場所でいったいどうやって愛すればいい? どうやって生きて、どうやって死ねばいい?」

 「お前も随分と孤独みたいだ」

 「君ほどじゃないさ」僕もブルームーンを飲み込む。「僕らはツケを払わされるために生まれてきたんだ。はっきり言ってね。もう十分なんだよ。もう必要ないんだ。新しい絵も、新しい音楽も、新しい言葉も。今あるものと、その焼き増しだけで十分やっていける。選ぶべきは『どの靴を履くか?』ってことだけさ」

 「いつだってそうさ。歴史は繰り返される。ナインティーズはシックスティーズを、エイティーズはフィフティーズを、セブンティーズはフォーティーズを恨んでいるんだ」

 「フォーティーズは? 彼らは何を恨む?」

 「フォーティーズは戦争を恨んでいる」

 「ふむ……やれやれだ」

 「なあ、だけど靴箱のことなんて思い出せるかい? 今まで一度でも思い出したことはあったかい?」

 「ないだろうね」

 「靴箱のことなんて誰も思い出さないのさ。みんな歩くことに必死なんだ。たとえ歩きずらい靴を履いていたとしても、それを靴箱のせいにはできない。それに靴なんていつでも脱ぎ捨てられるさ。少しの勇気と冒険心があれば。裸足になっちまえばいいんだ」

 奴の話は滅茶苦茶なことばかりだったが、どれも不思議と説得力があった。僕は立ち上がり、空になったビール瓶をケースに入れ、新しいものを注文する。月光の下のコロンバス通りは都会的な喧騒に飲み込まれ、奇声をあげるビート詩人はどこにもいない。


 「なあ、好きな街はあるか?」

 「どこでもいいのかい?」

 「ああ、もちろんさ」

 「そうだな、テレグラフかな」

 「東京は?」

 「どうだろう?」

 「嫌いなのか?」

 「あの街はいささか大きすぎる。何もかもが揃いすぎているんだ。型を作って、鉄を流して、鑢で磨いて、模型みたいな街だよ。そこら中、意味のあるものばかりだ。誰も唾を吐いたり、立小便をしたりしない。だから人が減って、車が増えて、ビルばかり立つようになった」

 「それで逃げ出してきたってわけだ」

 「目を瞑ったまま、横断歩道が渡れるような街が僕は好きなのさ」

 ハハハと奴は、鼻をすすりながら空笑いした。

 「東京が嫌いか?」

 「大嫌いだ」

 「この時代は?」

 「好きにはなれないね」

 「それじゃあ、お前自身は?」

 「最悪だよ。こんなところでビールばかり飲んでる」

 それを聞いて、奴はニヤッと笑った。ジャック・ニコルソンみたいな笑い方だった。そしてこう言った。

 「勝手にしやがれ」

 それから、奴はテーブルの上に広げた紙をもう一度念入りにグシャグシャに丸めると、目の前の大通りに投げ捨てた。それは行き交う車に轢かれ、千切られ、舞い散り、すぐに道路の一部と化した。

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