第7話 相互理解の難しさ

 さて、ここまで書いてきて、特にドイツの公娼の言葉を書くにあたり、正直言ってかなり消耗した。自分の考えとはまったく異なる意見を書くのは、例え自分ではないキャラクターの言葉として書いても疲れるものだ。


 通常執筆時の1.5倍(当人比)の肩こりと吐き気と頭痛と――この圧倒的なまでの疲労感はいったい、どこから来るのだろうか?


 それは、体の感覚に逆らうことから来ているのではないか、と思う。


 自分自身が痴漢にあったり、セクハラで嫌な経験をして胃がムカムカした、あの身体の感覚の記憶が、それらの、体を触られたり男にエロいことを言われるという行為を肯定する文章を書くことを、全力で拒否しているのだ。


 セックスワークについての、異なる意見を受け入れることの難しさもここから生まれるのではないだろうか。


 人間は、所詮は、個々に異なる感覚器官をもつ動物に過ぎず、その現実からは逃れることはできない。自分の肌感覚と異なる人の考えを受け入れるというのは、そもそもなのだ。


 (理解するのは)面倒くさいから支配したい、(理解するのは)ダルいから否定したい、(理解するのは)疲れるから無いことにしたい、というのが人間の体が発する本音だ。


 本来なら、共闘して女性の権利を獲得すべきセックスワーカーとフェミニズムの女性が相容れず、論理性と合理性を肯定するフェミニズムの活動家ほどむしろセックスワークに目くじらを立てるのは、実態として「女性からの搾取」となっている、あるは「ほかの女性への人権侵害を助長」という点もあろうが、この感覚の違いによる作用が大きいのではないかと思う。


 しかし、フェミニズムの活動は、本来、同じところを見なければいけない。

 フェミニズムは、女性の権利を守るための戦いだ。セックスワークを職業とする女性のための権利も守られねばならない。


 それには対話が必要だ。互いの知覚デバイスたる身体感覚の違いを冷静に話合い、認め合うという経過が必要となる。しかし、その過程にも問題がある。


 視点の違いだ。知識や知見が違えば、おのずとその視点も異なってくる。


 フェミニズムの活動から見ると、自身の立ち位置や搾取の構造について無自覚で、学ぼう、知ろう、考えようとすらせず、ひたすら従順に男の都合によって作られたシステムに身を投じて戦おうともしないでいる姿が、「見えるべきものが、見えていない」「知識がないために考える力もないかわいそうな人」と感じてしまうのだ。


 他方、セックスワーカーたちの立場から見れば「性的サービスと引き換えに金が欲しい」という価値観を共有できるのは、フェミニズムの活動家よりも、彼女たちの勤務先である店の方なのだ。


 いきおい、店&セックスワーカーvs.フェミニズムの活動家が対立するという構造が生まれる。


 しかし、セックスワーカーたちの立場を安定させ、その社会的な立ち位置を強いものとするためには、セックスワーカーたちの方も、「自分達よりも法や社会システムに関する知識を持つフェミニズムの活動家を利用してやる」ぐらいの気概が必要だし、フェミニズムの活動家たちも、彼女たちの感覚に対しての理解を持つことが必要なのではないだろうか。


 それができなければ、貧しい女性から搾取するという社会の構造は、変えられないのではないか、と思うのである。

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