フルコース③・立花結
「――えっ」
朝、姉からの着信で起こされた。寝ぼけ半分で話を聞いていたが、姉からの唐突な一言ですべての思考は停止し思わず変な声を上げてしまった。
「ごめん、お姉ちゃん。もう一度、言ってくれる?」
『う、うんっ。あのね――赤ちゃん、出来たの』
嬉しそうな姉の声が鼓膜を擽る。〝あの日〟が人生最大最悪な日だと思っていたが、神様は更にひどい仕打ちを与え
「おめでとう、お姉ちゃん!」
ほっと安堵の息を交えながら、姉は妊娠が発覚した経緯を簡単に教えてくれた。話に相槌を打っている最中、心の中では黒い何かが渦を巻いていた。
結は昔からお姉ちゃん子だった。どこへ行くにも何をするにも常に姉の後に続き、家族からは「まるで金魚のフン」と揶揄され程だ。けれども姉は文句ひとつ言わず逆に、一緒に遊ぼう、今度は何処へ行こうか、と声をかけて誘ってくれた。その声が、笑顔が、仕草が、憧れから〝本当に好きな人〟へ変わったのはいつからだろう。想いを隠し続けてもう何年も経つ。姉の幸せの為には、この気持ちを隠しておくのが一番だとわかっていた。
例え想いを告げずに居ると、残酷な現実がやってくると覚悟をしていたとしても、だ。
「――結ちゃん?」
途中から応えずに居たからか、心配した声音で呼ばれた。何でもないと自分に言い聞かせるようにして返すと、そういえば今日は休みなのかと話題を変えた。
『ううん、仕事に行くよ』
「
『もう仕事に出かけた。帰りは遅いって言っていたけれど……』
「なら、今日は一緒にご飯を食べようよ。会って直接、おめでとうって言いたいな」
『結ちゃん……本当にありがとう』
実はね、と姉は少し恥ずかしそうに続ける。
『妊娠したこと、あの人にもお母さん達にもまだ言っていないの。一番に結ちゃんに報告をしたかったんだ!』
思わず言葉に詰まった。けれども、不意に口元は緩む。
それは、義兄よりも自分が少し特別なのだと感じたから。
「義兄さんには、いつ言うの?」
そう尋ねると、ふふっと姉は小さく笑う。
『結婚式の時に、サプライズ発表をしてみようと思っているのだけれど……どうかな?』
一週間後、姉は結婚式を挙げる。姉には昔からしばしば驚かされることが多くあったが、またとんでもない考えを持ったものだ。そういうところも可愛いと思うのだが。
「うん、良いと思う。義兄さん達、すごくビックリすると思うよ!」
サプライズ発表のことも交えて夜に相談をしようという話になり、姉の仕事終わり、19時頃に最寄り駅の西改札前に集合でとまとまった。店もついでに決めてしまおうとしたが、姉はそろそろ仕事へ出る時間なのか、また後で連絡するね、と告げて電話は切られた。ツーツーと機械音だけが聞こえてくる。スマートフォンを手に持ったまま、力なくベッドの上に倒れこんだ。
愛しい姉が結婚式を挙げる。
愛しい姉が他の男性の子を身ごもった。
嗚呼――人生はどうしてこんなにも辛くて苦痛なのだろう。もし、自分が妹ではなく弟として生まれていたのなら、と時折考えるが、例え男と生まれても、決して純潔は奪わないだろう。姉は眩く神聖を帯びた存在で自分の欲で汚したくはない。
「……今日、休もう」
大学へ行く気分にもならなかった。さして仲の良い人物が居るわけでもない。この気持ちを吐露できる相手さえ、人生で一度も出会えても居ない。だが、このままずっと部屋に閉じこもるのも心が塞ぎきってしまい耐えられない。昼食くらいは外で食べようと決め、重たい体を起こして仕度を始めた。
昼近くになりふらりと外へ出る。快晴とはまさにこのことで雲一つない。頭上で輝く太陽が今日は酷く憎たらしく感じた。
昼食は何を食べようかと考える。ジャンクフードをたらふく食べて憂さ晴らしをするのも良い。ただし、食べすぎて夕飯が食べられなくなってしまう可能性は否定できない。
そんな時、路地からひょっこりと一匹の黒猫が飛び出してきた。思わず足を止めると、黒猫はとことこと傍へとやって来る。目を瞬いていると、ニャーッと黒猫はまるで話しかけてくるかのように鳴いた。二、三度、鳴いてから黒猫は結の足元をくるくると回る。突然のことに驚いたが、動物は好きな為、頬の筋肉はへにゃりと緩んだ。辺りを見回し、人通りが少ないことを確認して膝を折った。
「どうしたのー、お前。迷子かにゃ~?」
手を伸ばして撫でようとするも、黒猫は器用に避けて今度はてくてくと前を歩きだす。一度立ち止まり、ニャーッ、と振り返って可愛らしく結を呼んだ。写真を一枚撮らせて欲しいと言ってみるも、黒猫は構わず歩き出す。
「……ついて来いってこと?」
肩から提げているトートバッグを掛けなおして立ち上がると、何気なく黒猫を追った。
人ひとりが通り抜けられる幅の路地を抜け、住宅街を横断し、静かな通りを歩く。そうして黒猫に連れて来られたのは、小さな洋館前だった。いつの間にか木々が生い茂った、静かな場所が広がっている。黒猫は門の隙間をするりと抜けて洋館の中へと入っていった。ニャーッ、とまるで中へ入れとでも言わんばかりに鳴いて黒猫は促す。戸惑ったものの、結は門を開けて同じように中へと入った。黒猫は扉の前で座っている。恐る恐る扉の前まで行くと、黒猫は足早にどこかへ走り去った。
「あ、待って!」
追いかけようにも既に姿はない。どうしようかと困っていると、唐突に扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
中から出てきたのは端正な顔立ちをした男性だった。髪を後ろで一つに結び、ワイシャツに黒のスラックスと前掛けをしている。男性の姿にこの洋館は何かの店かと察した。困っていると、男はふっと目を細めた。
「ここはシェフと私の二人で営んでいるレストランです」
「レストラン……」
ふわりと、中から良い匂いが漂ってきた。昼食をどうしようかと考えていた為、ちょうど良いかもしれない。
「あの、ちなみにお値段は……」
「今はランチタイムですので、フルコースで2000円となります」
意外と良心的な値段にぱちりと瞬いた。
「いかがいたしますか?」
少し考えたものの、此処で昼食をとることに決めた。こくりと頷き一歩前へ踏み出すと、男――ウエイターは扉を大きく開けた。
店は繁盛しており6つあるテーブル席はすべて埋まっていた。満席ではあるが、奥にも部屋はあるらしく、そこへ案内するとウエイターは言う。しかし、ウエイターはその場に立ち止まった。首をかしげると、背後の扉が勢い良く開いた。
中へ入ってきた人物を見るなり、結は大きく目を見開いた。
「すみません、一人なんですけれども空いていますか?」
店にやって来たのは、今朝、電話で話をしていた姉だった。仕事をしているはずの姉が何故、此処に居るのだろうか。
「わあっ、驚いた! 偶然ね。お昼を食べに来たの?」
「う、うん……そう、だけど……」
「それじゃあ一緒に食べましょう! 此処の料理、とても美味しいって評判らしいのっ」
にこりと微笑む姉は天使のように愛らしい。ただ一ついつもと違うと感じるのは、真っ黒なスーツを身に付けているからだろうか。
「お連れ様ですね? では、2名様でご案内します。こちらへどうぞ」
ウエイターは2人に目を配ると前を歩き始める。結の後ろを歩く姉はにこにこと笑みを湛えたままだ。疑問と、よくわからない不安が胸中を過る。テーブル席の間を通っている最中、一人の中年男性と目が合った気がした。
瞬間、ぞくりと身震いした。
男性の目には生気を感じられず、空虚をぼんやりと眺めながら、おいしいおいしい、と覇気のない声で繰り返し呟いている。まるで壊れた人形のようだが、表情は幸せそのもので、だらしなく口の端から涎も垂らしていた。急いで目をそらし、ウエイターの後を足早に追いかけた。
案内されたのは真っ赤な扉が目を引く奥の部屋。そこにも玄関と同じ双頭の鳥の装飾がされてある。この洋館を作った人物は相当悪趣味だと思った。部屋へ入ると大きめのテーブルに椅子があるシンプルな個室だった。席にかけるよう勧められ、姉と向かい合って着席する。
「当店にメニューはなく、フルコースのみとなっております。シェフが腕によりをかけて作るコース料理を是非お楽しみください」
ウエイターは淡々とした口調で店の説明をした。
「それでは、しばらくお待ちください」
一礼するとウエイターは部屋から出て行った。落ち着いたBGMの流れる部屋で姉と2人きりになる。結はじっと姉を見つめた。にこにこと微笑み、どんな料理が出てくるんだろうね、と楽しみにしている様子だ。楽しみだね、と一呼吸開けて相槌を打った。
「お姉ちゃん、仕事はどうしたの?」
「仕事? ……ああ。実は今日、半休を取っていたのよ」
「……へえ」
結はさらに問いかける。
「夜に、私と会おうって約束だったけれど……」
「……あっ、そうだったね。でも此処で会えたのだから、結果的に変わりないよね」
えへへ、と笑う姉が不思議と怪しく感じた。更に探ってみようとした時、銀色のカートを押したウエイターが戻って来た。カートの上にはオードブルと銀のカトラリーが載っている。
「そんなことよりもほら、料理、運ばれて来たよ!」
随分と楽しみなのか、わくわくといった効果音が聞こえてきそうな程、姉は軽く体を左右に動かしていた。ウエイターは慣れた手つきで二人の前にカートの上に載っていたものを並べていく。最後に、前掛けのポケットから取り出した白い封筒を置いた。
「それでは、ごゆるりとお楽しみください」
そう残してウエイターは再びカートを押して立ち去った。
【オードブル】
前菜はドームの型をしたイワシのマリネ。エビやにんじん、きゅうりや下拵えした生肉等を彩り華やかにジュレのドームに包み込んだ一品だ。
綺麗ではあるものの、どうも食欲がそそられない。顔を顰めてじっと料理を見つめた。
「食べないの?」
姉の質問に、うん、と首を縦に振った。
「なんだか……食べちゃいけない気がする」
「どうしてそう思うの?」
「……勘」
「ふふっ、変なの。あ、それじゃあ封筒、開けてみない?」
促され封筒に手を伸ばして中を確認する。封筒の中にはテーブルマナーを記した二枚の手紙が入っていた。一枚目は文字で、二枚目は分かりやすくイラスト付きでテーブルマナーが記されている。二枚目の隅に小さく何かが書かれていることにふと気づいた。目を凝らして見ないとわからない程の文字の大きさだ。
【警告 棄てるのは危険。残すのは危険。命の危険。食事は大事に、食は命の源である。最後は必ず〝ごちそうさま〟と言え】
「……何これ」
「何て書いてあったの?」
姉に伝えて良いものかと悩む。しかし、どうも胸騒ぎは収まらない。料理を楽しみにしている姉に内容は告げず軽く頭を左右に振り、何でもないよ、と伝える。そう? と首をかしげる姉に、早く食べなよと促した。結はやはり気乗りせず、料理には手を付けないでいようと思った。
「うーん……先に食べて。そうしたら、わたしも食べるから」
楽しみにしていた料理を前に姉は言う。やはりどこかおかしいと、感じた。
【スープ】
姉に他愛のない話を振られては返していたが、時折、食べないのかと問われ、結は淡々と答えるだけで、結局、オードブルには手を付けなかった。不思議なことに姉も同じく手を付けず、そうして――ウエイターが部屋へとやって来た。銀色のカートには新しい料理が載っている。
「お下げします」
ウエイターはオードブルを下げ、新しい料理を並べた。
瞬間、ずきりと全身に痛みが走った。鈍く、小さく、我慢が出来ない程ではないが、頭のてっぺんから足先までゆっくりと痛みが広がっていく。
「いたっ」
眉間に皺を寄せて耐えていると、向かいの席からも同じように呻きが聞こえた。視線をやると、姉も眉間に皺を寄せており、どうやら同じように痛みを感じているようだった。痛みはしばらくすると治まり、何事もなかったように体は動いた。あの痛みは何だったのかと恐怖を感じた。
「お姉ちゃん、」
「何?」
「この店、おかしいよ。お金なら私が払うから、もう出よう?」
すると、姉は凛とした色に変わった。
「駄目」
その表情が、声が、見たことのない、聞いたことのないもので、思わず固唾を呑んだ。
「――それよりも、スープ……来てるよ? 温かいうちにいただきましょう」
先程の雰囲気はどこへやら、まるで天使のように愛らしく微笑む。席を立ちかけたが渋々と姿勢を正して座り直し、視線を落とした。
次に運ばれて来たのは美しい黄金色をした、たまねぎとベーコンのコンソメスープ。ベーコンはカリカリになるまで炒められているのが一目でわかる。
「さ、食べよう?」
姉の声に、結は気乗りしないままスープ用のカトラリーを手に持った。昔、姉にテーブルマナーを教わったがうろ覚えだ。恐る恐るカトラリーをスープにつけ一口すくうと、意を決して味わった。
たまねぎの甘さがしっかりと出されたコンソメスープは口の中いっぱいに旨味が広がる。ベーコンの香ばしさがより味を引き立たせていた。
「うんっ、美味しい!」
向かいの席で同じようにスープを口にした姉がほわっと綻んだ表情で言う。美味しいよね? と聞かれ、うん、と一拍空けてはぐらかした。
「……美味しくない?」
しゅんっと眉を下げて問うてくる姉に、どうだろう、と返す。
「なぁに、その反応……こんなに美味しいのに」
美しい姿勢でマナー通りにスープを味わい続け、美味しい美味しい、とこぼす姉にふと今朝の話題を改めて振った。
「ところでお姉ちゃん、あの話なんだけれど……」
「え?」
ぱちりと目を瞬く姉に、ほら今朝の、と繋ぐ。
「ああ……うん。けれど待って、今は料理を味わいたいな」
とても大事な話なのに例の話題はそっちのけで料理を味わい続けている。軽く息を吐くと、半分以上スープを残してカトラリーを置いた。姉はきょとんとした色を浮かべ、最後まで食べないのかと尋ねてくる。
「そんな気分じゃなくなった」
そっけなく返事をすると、姉は困った様子で同じようにタトラリーを置いた。二人の間に沈黙が訪れる。音といえば、つい今しがた切り替わった店内BGMくらいだ。
――何故? と思う。どうして姉は自分が食べるのを止めると同じように手を止めるのだろうか。そんなに美味しいのならばこちらにのことは気にせず食べ続ければ良い。そういえば、仕事は半休だと言っていた。――本当だろうか? それから、朝はあんなにも嬉しそうに話していた話題をただ〝料理が食べたいから〟という理由で後にして欲しいだなんて言うだろうか。――否、きっと言わないだろう。
目の前の姉が〝本物の姉〟だろうかと違和感を覚え始めた。けれども、例の件もサプライズで発表すると言った程だから、もしかしたらただからからかっているだけなのかもしれない。しばらく様子を見て、ちょっとずつではあるが探りを入れていくことにした。
「お姉ちゃん。スープ、飲まないの?」
「飲みたいけれど……美味しく感じないのでしょう?」
様子を窺うように姉はちらちらと上目で見てくる。仕草は、〝本物〟の姉にそっくりだと思った。
「……残すのも勿体ないから飲むよ」
すると、姉はすぐさま明るい顔色に変わる。どうやら結が料理を口にしないと食べないらしい。否、もしかしたら
【ポワソン】
スープを飲み終えると良いタイミングでウエイターがやって来た。空いた皿を下げ、続いて
『本日は真鯛の白ワイン蒸しです。アレルギーのある方はすぐにお取替えいたしますのでお申し付けください』
メッセージーカードにはそう記されていた。
ふわりと洋酒の香りが鼻腔を擽る。ふっくらと蒸された真鯛の上には青々としたハーブが添えられていた。見た目は確かに美味しそうだが、食欲が既に失せてしまっている為、手を付けずに居た。
「また……食べないの?」
「うん。この料理、ワイン使われてるらしいから」
「でも、アルコールは飛ばしてあると思うけれども……」
「風味だけでも駄目なの。私が下戸だって、知ってるでしょう?」
数秒間を空けてから、そうだったわね、と姉は慌てて繕った。
「それじゃあ、料理を変えてもらう?」
「ううん、良い。お姉ちゃんだけ食べて」
「……料理は、誰かと食べるから美味しいもの。一人だけでなんて、食べれないよ」
悲しそうに俯いた姉に、無意識に胸は痛むものの我慢だと言い聞かせる。二、三度、深呼吸を繰り返し、ところでさ、と話を変えた。
「言ったの? アレ」
「あれ?」
「うん、アレ」
敢えて名詞は出さずに尋ねてみる。アレとはもちろん妊娠のことだ。しかし、姉はただ首をかしげるだけで、何のこと? と仕舞には問うてきた。
嗚呼、やっぱり、と疑念は確信へと変わる。
これ以上聞いても埒が明きそうにない。ましてや此処でボロを出してしまえば、偽物を演じている者に気づいてしまったことを悟られてしまうだろう。それだけは先ず避けたい。可笑しな店、偽物の姉、何をされるか恐怖でしかないが、最後まで隠し通すことにし、なんでもない、と結んで終わらせた。
【ソルベ】
互いに料理には手を付けずにいると、しばらくしてウエイターがやって来た。
「食べないのですか?」
「ええ、食べません」
強かに返すと、ウエイターの目がやや細まった。姉は俯き黙ったままだ。
「お下げします」
一度聞いた時よりも低く冷たい声音で言い、新しい料理と交換するようにしてポワソンを下げた。すると、また痛みが襲って来た。今度は理不尽な程に鋭い痛み。呼吸がし辛くなり視界は眩む。痛みのあまりに呻くと、向かいの席から同じく小さな呻きが聞こえた。姉も痛みに耐えているのか、自身をぎゅっと抱きしめるようにして身を小さくし喘いでいる。声をかけようにも痛みで上手く声を出せない。
しばらくじっとしていると、痛みは徐々に治まっていった。前菜の時よりも酷い痛みだ。原因不明の激痛に不安は募るものの、結はきゅっと下唇を噛み、深く呼吸を繰り返して心身を落ち着かせる。全身襲う原因不明の痛みは、もしかして料理を食べないことが原因だろうか。――否、まだ確証は持てない。
深呼吸を一つして、続いて運ばれてきたソルベに視線を落とす。朱色をしたソルベは一目で冷たさを感じる器に丸く盛り付けられ、小さなハーブが飾られている。トマトを模しているらしく、作り手の遊び心が出された一品だ。ふわりと、トマトの甘酸っぱい香りがした。
「食べないの?」
恐る恐るといった風に姉は尋ねてくる。もちろん、答えは決まっている。
「うん、食べない。私、トマト苦手だもん。お姉ちゃんは食べれたよね。もしよかったら私の分まで食べて良いよ」
「それだと美味しくないよ。二人で食べたいのに……」
声のトーンを落として何やらぶつぶつと呟き始める。声が小さすぎて内容ははっきりとわからなかったが、もうそろそろ最後の一押しが欲しいと思った。決定的な〝一押し〟が。
話は聞こえていたのか、食べない、と宣言した瞬間にウエイターが入って来た。今度は前置きなく料理を下げる。咄嗟に歯を食いしばり、新しい料理が置かれるなり襲って来るであろう痛みに構えた。
新しい料理――アントレが運ばれる。
瞬間、予期していた通りに痛みが襲ってきた。骨が軋むような痛みに脂汗が滲み出る。呼吸は荒くなり意識は揺らぐ。
(やっぱり、そうだ……ッ)
ひゅっ、と喉の奥から空気を零しながら理解した。料理を「食べない」と選択すると、痛みが襲って来る。表現のしようのない痛みを耐え、視線を姉の方へ。やはり姉も自分と同じように苦しんでいた。「食べないのか」と聞いてくるのは、この痛みが襲って来るのを知っていたからだろうか。聞きたいことは山とあるが、今は痛みだけが意識を支配して声すら発せない。わかってはいたもののやはり痛い。瞼を閉じてじっと耐えていると、徐々に和らいでいった。汗を手の甲で拭い、間延びした呼吸を繰り返す。
運ばれて来た赤身肉のソテーとフォアグラが載せられた皿には目もくれず、深呼吸をして落ち着くなり結は尋ねた。
「ねえ、お姉ちゃん」
額に滲んだ汗を手のひらで拭い、なぁに? と姉は少々疲れた表情でちょいと首をかしげて見せる。
「私の名前、呼んで」
驚いたように姉はぱちりと目を瞬くと、突然どうしたのかと問うてくる。理由なんてないよ、と適当に返して早く呼んで欲しいと促す。すると、姉はどこか自信有り気な色を湛えふわりと微笑んだ。
「もう、さっきから本当にどうしたの?
嗚呼、まったく――と自嘲気味に息を吐く。やはり、目の前に居る姉は〝偽物〟だ。
「あなた――……誰?」
「えっ?」
姉はぱちりと目を瞬く。テーブルの上に並べられているカトラリーの一つ、ナイフを手に取ると急いで席を立つ。
「や、やだ……お姉ちゃんにナイフを向けないで? 怖いよ……結っ」
「その声で、その姿で、名前を呼ばないで、偽物!」
「偽物って……結、お姉ちゃんの顔を忘れちゃったの? わたしよ? あなたのお姉ちゃんよ?」
恐怖の色を浮かべる姉に、意識を強く保って結は紡ぐ。
「本物のお姉ちゃんは……私のこと、呼び捨てにしないっ。いつも結ちゃんって呼ぶんだから!」
姉は必ず結のことを「結ちゃん」と呼ぶ。それは昔も今も変わらない。今朝、電話で話していた時が何よりの証拠だ。それなのに目の前の姉は「結」と呼び捨てた。呼び捨てで呼ばれたい――というのは、自分の願望であり幼い頃から姉の声と姿で頭の中に作り出した偶像だ。
腰が引けているものの、ナイフを向けて無言で威嚇する。姉らしき人物はそっと瞼を閉じ悲しそうに俯くも、ゆっくりと立ち上がった。
「――なるほど、そういう勘づき方もあるのか」
低く、それでいて冷たい声音。顔を上げるなり姉らしき人物の表情は先程とは違い無表情だった。いったい何を言っているのかと声に出そうとした刹那、突然、視界は暗転した。個室部屋は何処にもなく、暗闇だけが広がっている。ナイフを持つ手は震え、必死に恐怖に耐えた。
誰かに助けを呼ばなければと、急いでもう一度、慌てて辺りを見るも暗闇以外に何もない。唯一助けを呼ぶことのできるスマートフォンは椅子の下に置いた鞄の中にあるが、どこにも見当たらない。
唐突に、目の前に何かが浮かびあがるようにして現れた。狐が描かれた赤い扉。尻込みするが他にはなにもない。背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、心許ないが小さなナイフをしっかりと握りしめて扉を開けた。
食欲のそそる香りが鼻腔を擽った。いつの間にか口内に唾液が溜まり喉を鳴らして飲み込む。部屋の中を見回すも匂いのもとは無い。薄暗い部屋は敷き詰められたように大量の本棚が並んでいるだけだ。部屋の中心には小ぶりの本棚と立派な木製机が置かれている。ナイフを構えながらもゆっくりと進んだ。
机に近づいた瞬間、本棚から一冊の本が床に落ちた。手も触れずに落ちたそれに震えながら四方にナイフを向ける。しかし、人や動物はもちろん自分以外に誰も何も居ない。恐る恐る本に視線を落とす。タイトルからして料理に関するものだった。辺りを警戒しつつ膝を折って本を拾い上げる。パラパラと捲ってみると、折り目の付いているページを見つけた。
【食事と幸福感】
幸福になるために「幸福とは何か」という哲学書等は読まなくても良い。何故なら幸福となり得る成分は脳から分泌されるからだ。セロトニン・エンドルフィン・ドーパミン・オキシトシン・ノルアドレナリン等だ。これらの中で特に、セロトニン・エンドルフィン・オキシトシンは日常の生活、日々の行動や食事によって自分で分泌されることが可能だ。
つまり、食事は幸せを
難しく考えなくて良い。快楽を生む食品を選び、食すことで人は簡単に「幸福」になれるのである。また、誰と一緒に食べるか、も重要になってくる。一人で食事をするのも優雅で良いかもしれないが、自分の大事な者や愛しい者と食事をすることで幸福感は増すのである。
食卓は、幸福でならなくてはいけない。
愛しい者と食事を共にすることで増す幸福感――それは結にも覚えがある。家族全員で食べるご飯はもちろん美味しい。けれども、一番幸せだと感じるのはやはり姉と二人きりの食事だった。本来なら今日の夜に本に書かれてある通りの幸福感に浸る予定だった。だから、早くこんな場所から逃げ出さなくてはいけない。
本を閉じて何気なく机に目をやる。机の上には一冊の本と古いノートが重ねて置かれてあった。本のタイトルは『The Slience yhe Lambs』。ノートの表紙には太いマジックペンで『七つの罪源について』と記してある。ノートを開いてみると、一ページ目に神経質そうな字で七つの大罪について簡潔にまとめられていた。
【七つの罪源について】
七つの大罪とはキリスト教の教皇グレゴリウス一世が決めた「人間を罪へと導く可能性のある七つの欲望や感情」のことである。また、この七つの大罪は特定の悪魔と関連付けられている。傲慢はルシファー、憤怒はサタン、嫉妬はレヴィアタン、怠惰はベツフェゴール、強欲はマモン、暴食はベルゼブブ、色欲はアスモデウスである。他にも動物で表しているものもある。
パラパラとページを捲っていくと、真ん中あたりに一枚のメモのようなものが挟まっていた。
『この欲求を、暴食と例えるのは無粋だ。無残に貪りつくすことなどしない。この欲求は愛だ。愛なのだ。どこまでも深く、浅ましく、底の知らない愛。愛ゆえに私は食したい』
意味が分からないと思うも、何故か読むのを止められなかった。ノートとメモを一旦置き、続いて本を手に取る。
『The Slience yhe Lambs』――日本語訳は、羊たちの沈黙。
確か大学の講師が異常にこの本を薦めていたのを思い出す。講義の途中から他の本のことも熱く語り始めた為、ノートにラクガキをしながらラジオ感覚で聞いていた。内容はうろ覚えだが多少記憶にある。
トマス・ハリスの代表作で映画にもなっていたはずだ。同作者のレッド・ドラゴンにも出てきた天才的な洞察力を持つ精神科医で、人肉嗜好のハンニバル・レクター博士を主役にした作品。獲物の皮を剥ぐ事からバッファロウ・ビルと呼ばれる事件を担当する事になったFBIアカデミィ訓練生のクラリス・スターリングにとある事を発端に、事件解決の助言を与え続けていく――話だった気がする。
本は翻訳ではなく原本だ。流石に専攻分野でもない為、すべては読めない。本を持ち上げると中からはらりと正方形型の紙が落ちてきた。本を机の上に戻してメモを拾い上げる。神経質そうな文字で、けれども乱雑に綴られていた。
『彼こそ理想である。食材にはらう敬意の姿勢。それはとても素晴らしいものだ。しかし、その食材選びのセンスだけは少し疑問を覚える。食してみなければわからないが、私はきっと美味しいと感じない。何故なら食事は「大切な人」と一緒が一番に決まっているのだから』
理想とは、ハンニバル・レクター博士のことだろうか。だとしたら、この本について熱く語っていた講師ともども、メモを書いた人物も異常者以外の何者でもない気がする。
部屋の中はあらかた見て回ったが特別目ぼしいものは無かった。安堵の息を吐いて振り返ると、今度は針鼠の描かれた扉がそこにあった。ナイフを構えなおすも何も起こらない。部屋の中には針鼠の描かれた扉以外に扉はない。二、三度深呼吸を繰り返すと腕を伸ばして開けた。
次に入ったのは真っ赤な部屋だった。毒々しいくらいに色鮮やかな赤だけで支配され気味が悪い。本棚と小物箪笥だけが置かれてあるだけで他には何もない。此処から出る手がかりを探す為、ほんの小さな手がかりでも良い。何かを見つけられるようにと一縷の望みをかけ、思い切って箪笥を開けた。大量の写真が入っていただけだった。どれも食事の風景を撮影したもので、料理だけの写真もあれば、大勢で賑わっている光景。料理の写真はどれも美味しそうだった。ふと、一枚の写真に目が止まった。家族四人で食卓を囲んでいる写真。とても幸せな雰囲気のその一枚の写真に触れると、脳に直接映像が流れ込んで来た。
それは食卓のとある一風景。写真の中に居たはずの家族が幸せそうに食卓を囲んでいる。そんな光景が何日も、何日も、何日も続く。幸せな食卓。幸せな時間。幸せな日々。幸福な時間とはまさにこの光景をいうのだろう。和やかな雰囲気の中、一人の少年が尋ねる。
「どうしてこんなに美味しいの?」
「大好きな人と美味しいものを食べているからよ」
「そっかぁ」
少年は小さな声でぽつりと呟く。
「じゃあ……大好きな人はどんな味がするんだろう」
その瞬間、景色が一変する。
幸せだった食卓は赤一色に染まった。赤、紅、赫――食卓を囲んでいた女性も、男性も、幼い少女の首も全部、せんぶ、皿の上に載っていた。手足は捥がれ、達磨になったソレが椅子に座っている。
少年だけが赤い世界に一人生きていた。
彼の皿の上には料理が並んでいる。美しく料理されたソレらを食しながら少年はにこりと微笑む。けれどもすぐに、どこか悲し気な色を浮かべた。
「美味しい……けど、寂しい……美味しいだけじゃ足りない……幸福には、足りない――……嗚呼、〝仲間が欲しい〟」
その呟きが消えると同時に、意識は戻った。
呼吸は乱れ嫌な汗が全身に伝い落ち、今のは何だったのかと必死に思考を巡らせる。これ以上、写真に触れていてはいけないと察し慌てて箪笥に戻した。
やはりこれ以上、此処に居てはいけない。早く出口を見つけようと何気なく振り返ると、次は猫の描かれた扉があった。先程と同じように突如として扉が現れた。赤い部屋にはそれ以外の出入り口はない。気を強かに持ち直し深呼吸を二、三度繰り返してから、猫の扉を開けた。
コンクリートがむき出しの寒々しい部屋だった。中心には今にも壊れてしまいそうな机だけがある。この部屋にも人の気配はない。机まで歩を進めると、古ぼけたノートと新しいノートの二冊が置かれてあった。
ほんの少しでも良い、脱出の手がかりを見つけたい。まずは古いノートを手にする。タイトルのないノートを捲ってみると、随分と年季が入っており、紙は日焼けして黄色くなっていた。その紙に神経質そうな文字で文章が綴られていた。
【古ぼけたノート】
『自分のこの嗜好は治らないだろう。幼い頃から「食卓は大好きな人と大好きなものを」と教えられてきた。だから私は幼心に「大好きな人たちはどんな味なのだろう」と疑問を持った。大好きな人と囲む食事がこれほどまでに美味しいのならばきっとその「大好きな人たち」も美味しいに違いないと考えだしたときから私は渇きをおぼえるようになった。飢えをおぼえるようになった。どんな食事をしても真に満たされることはない。だから私は二十歳の誕生日に我慢が出来なくなり家族を手にかけた。駄目だとわかっていても衝動を抑えられなかった。突き動かされるがままに握った包丁を振るった。しっかりと血抜きをして食べられないところは勿体ないが丁寧に削ぎ落とし、新鮮なうちに彼等を調理した。初めて人を調理したがその過程はあやふやだが、覚えているのは作った料理を食べたときの多大なる幸福感。好きな人を、家族を、食すことの満足感は長年の飢えを癒してくれた。満たしてくれた。だが何かが足りないと感じた。食事とは、食卓とは、最高の料理を愛しい人たちとともに食べるものだ。愛しいもので作った料理を誰かと食べたい。一緒に食べたい。共有したい。一人は、寂しい。』
それから数ページは空白だが、再び文字が現れる。
『レストランを開いた。小さい店だがこだわりを持って接客をしていきたいと思っている。こうやって店を経営していればいつか私と同じ嗜好を持った人が客として来てくれるかもしれない。こっそり用意した肉をふるまってみて気づいてくれた客に声をかけてみよう。嗚呼、いつになれば寂しい食卓は終わるのだろう。』
延々と日々を綴った独白は続く。だが、とあるページを境に内容は一変した。
『面白い。この出会いは偶然か、必然か、あるいは運命か。興味をそそられる。他のモノもこの人間のように愛するモノを食すと幸せになれるのか。この人間のような考えになるのか。わからない、わからない、わからないなら実験をしてみよう。時間はあるのだ。舞台も整っている。後は役者が来れば良いだけなのだ。面白い、おもしろい、オモシロイ。さあ実験を開始しよう。』
このページを境に文字は乱雑になり、〝実験〟という言葉が多く使われ始めた。
『なるほど、なるほど、なるほど。発狂し狂うモノも居ればこの人間のような嗜好になるモノも一定数居ることが分かった。これは面白い結果だ。成果だ。だがもっともっともっと調べるためには数が居る。役者が必要だ。標本を持ち帰る分と更なる実験分。嗚呼これだから実験はやめられない。』
独白にしても後半から内容がまるで別人のように変わっていた。神経質そうな文字は後半から乱雑に変わり、ところどころ走り書きすぎて読めない字もある。気持ち悪いと吐き捨て古いノートを戻し、残りのノートを手に取った。新しいノートには『本日のメニュー VOL.6』と太いマジックで書かれている。
ふと、胸がざわついた。
読んではいけないと、開いてはいけないと、脳裏で危険信号を発している。けれども、これを読まなくてはいけない気がして震える手で静かにノートを開いた。日付と共にメニューと仕様素材等が古いノートの後半部分で見られた乱雑な字で事細かに記されていた。ノートの端には料理の写真も貼られてあった。
【本日のメニュー VOL.6】
20××年●月▲日 土曜日 晴れ 本日のお客様…20代男性
・オードブル…フレッシュ野菜を使用したサラダ サニーレタス、ミズナ、グリーンリーフ、ブロッコリー(北海道)、リンパ液
丁寧に抽出したリンパ液に塩、酢、においを消すために少量のニンニクを混ぜた特製ドレッシングを使用
・スープ…キャベツとベーコンのポタージュ キャベツ、ベーコン(北海道)、骨髄
骨髄は半日かけてじっくりと煮込み、ミキサーですりつぶしてポタージュに
・ポワソン…スズキと魚介類のカルパッチョ スズキ(東京)、タコ(兵庫)、ラディッツ(北海道)、硝子体
目玉は丁寧に扱わないとすぐにつぶれてしまう為、丁寧に下拵えをする。数が必要な為、〝別の検体〟から採取した分も今回は使用した
・ソルベ…ノンアルコールシャンパンを使用したシャーベット シャンパン(フランス)、軟骨
軟骨は包丁で砕いて冷やす前に入れる。食感を楽しんでもらえたらうれしい
・アントレ…赤身肉のソテー ソースはヴァン・ルージュ。マッシュルーム(東京)、アスパラガス(北海道)、赤ワイン(フランス/1990年)、心臓
新鮮な心臓はミディアムレアが一番美味しい
・デザート…チョコレートスフレ チョコレート(市販)、肺
肺に空気をたっぷり入れて焼くのがコツだ。失敗は許されない。失敗なんてこの男に限ってないが
・コーヒー…焙煎したてのホットコーヒー コーヒー豆(ブラジル)、ミルク(市販)、精液
コーヒーは豆から挽いた特製コーヒー。薫り高く上品な味わいだ。精液は以前に別の検体から搾取して冷凍保存していたものを使用。ミルクと混ぜれば完成だ。この特製ミルクはコーヒーに入れると更にコクが出る
20××年●月■日 水曜日 曇りのち晴れ 本日のお客様…10代男性
今日はアミューズを取り入れた8品にしよう
・アミューズ…パン・ド・カンパーニュ たまねぎ、ピスタチオ、くるみ(北海道)、ひき肉(太腿)、ベーコン(肩肉)
肉の臭みはナツメグと生姜、コンソメを混ぜれば消える。ピスタチオとくるみのアクセントを是非とも楽しんで欲しい
・オードブル…グレープフルーツのカップサラダ グレープフルーツ(和歌山)、トマト(熊本)、ヤングコーン、サラダ菜(北海道)。リンパ液
ドレッシングは●月▲日(土)に作ったものと同じ手法で作った
・スープ…ジャガイモのポタージュ ジャガイモ、バター(北海道)、生クリーム(市販)、ベーコン(肩肉)
ベーコンは薄切りにしカリカリに炒めるのがポイントだ。思い付きではあったが生クリームで花の絵を試しに書いたら随分と可愛らしくなった。次回からも取り入れるとしよう。生クリームには精液を混ぜて甘さを抑えた
・ポワソン…タラのムニエル オレンジソース和え タラ(青森)、オレンジ(和歌山)、腸詰肉(小腸と太腿のひき肉)
小腸は丁寧に洗浄した後、クミンやにんにく等で味付け臭みを消したひき肉を詰めてソーセージにする。茹でた方が余分な脂が落ちあっさりとしていて美味しい
・アントレ…ローストビーフの温野菜添え 赤ワインソースと白味噌の二種掛け カブ、にんじん、アスパラガス(北海道)、ハーブ(自家栽培)、赤ワイン(フランス)、白味噌(京都)、臀部、血液、リンパ液
臀部にはしっかりと肉がついている為、じっくりと時間をかけてローストする。ロースト時に岩塩とハーブを合わせて臭みを消す。赤ワインには採取した血液を、白味噌にはリンパ液を混ぜてソースに。実に良い香りで食欲がさらにそそられるに違いない
・デザート…オレンジレアチーズケーキ クラッカー、レアチーズ(北海道)、オレンジ(和歌山)、ひまわりの種(食用)、肺
荒く砕いたクラッカーを一番下に、レアチーズをその上に敷き詰め、最後にオレンジゼリーで蓋をする。スープの時に残った生クリームと食用のひまわりの種を使って花をあしらってみると随分と華やかになった。これも次回から取り入れるとしよう。レアチーズケーキの中に、血抜きと水洗いをして火を通しておいた肺を入れる。マシュマロのような不思議な食感に驚いてくれるに違いない
ノートを持つ手が震える。一つ一つの文字を脳裏で咀嚼し理解に努める。まさか、一品一品の料理の中には――……思考がようやく追いつき始めた頃、とあるページで手が止まった。
それは、今日の日付が書かれたページだった。
20××年★月×日 金曜日 快晴 本日のお客様…10代女性
・オードブル…イワシのマリネ エビ、にんじん(北海道)、きゅうり(東京)、子宮、髄液
子宮は丁寧に水洗いした後、茹でて冷ましておく。髄液を混ぜたマリネ液を固めてドーム状に。その中に野菜と、薄造りにした子宮を入れる。嗚呼、
・スープ…ベーコンとたまねぎのコンソメスープ たまねぎ(兵庫)、ベーコン(肩肉)
じっくりと煮込みたまねぎの旨味を引き立たせたスープに、カリカリに焼いたベーコンをアクセントに入れた
・ポワソン…真鯛の蒸し煮 真鯛(徳島)、白ワイン(フランス)、脳髄液
真鯛は下拵えをした後、白ワインと脳髄液を混ぜてふっくらと蒸し上げる。アルコールを飛ばしてあるので酒が苦手な人でも食べられる一品に仕上げた
・ソルベ…トマトのシャーベット トマト(熊本)、レモン(広島)、血液
トマトはミキサーにかけジュース状にし、その中に採取した血液を混ぜる。レモン汁を入れて血液の臭みを消す。トマトが甘い分、甘酸っぱさがたまらない
・アントレ…赤身肉とフォアグラのソテー 赤ワインソース添え 乳房、肝臓、赤ワイン(イタリア)――
そこまで読んだと同時に胃の奥から何かが勢いよく逆流してきた。急いでノートを置き俯く。呻くと同時に、先程、口にしたものを床に吐き出した。胃液にまみれたそれらはまだ消化の途中だったのか、ところどころ原型をとどめている。赤色のものを見た瞬間、再び吐き気を催した。息も絶え絶えにしばらく吐き続け、ほどなくして深い呼吸を繰り返した。ツンッとした強い臭いが鼻をつく。胃の中が空になるまで吐き続けたからか、肺まで空気が通ると無意識に涙が溢れた。手の甲で止めどなく流れ落ちそうになる涙を拭った。
ノートに書いてある通りならば――〝人を食べた〟。
信じられない、信じたくはないが、誰が何のためにこんなことをしたのだろう。机を支えにしっかりと立とうとしたが、何故だか力が入らない。逆に、膝から一気に力が抜けその場にぺたりと座り込んでしまった。
いったい何が起きたのかと視線を下げる。心臓、肺、胃、子宮などがあるはずの個所を始め、身体に穴が開いていた。大量にあふれだす血液は先程、吐き出した異物さえも飲み込み全てを赤色に染めていく。
何が、起きた?
応えるように、〝ソレ〟は混乱する頭の中へ直接応えるようにして語り掛けてきた。
『あなたは料理を否定し続けた。料理は命をもとに作られている。それを拒絶するということは、生を拒絶するのと同じ。ならばせめて、あなたは他者を生かす糧となりなさい。大丈夫、〝私〟が美味しくあなたを料理して差し上げます。次の〝仲間〟を探すために』
夢だ。幻だ。現実ではないと必死に自身に言い聞かせる。しかし、まるで金縛りにあったかのようにぴくりとも動かない。逃げろ、逃げろ、逃げろ。脳裏では危険信号を発している。声を上げようにも出せない。だって喉には穴が開いているから。
誰か助けて、と願う。姉の名を強く心の中で呼んだ時、手に持っていたナイフが落ちて結の肌――太腿を軽く傷つけた。痛みを感じた刹那、何かが解けた気がした。
身体は、動く。どこにも穴は開いていない。急いで立ち上がり扉のある方を振り返る。何も描かれていない真っ白な扉があった。むしろ出入口はそこしかない。その扉めがけて一目散に駆け出す。背後から重い気配を感じながらも必死に走った。
そうして――扉の前まで来て、勢い良く開く。
「――あっ、」
眩い光景が、広がっていた。
一歩踏み出そうとしたが無意識に足は止まる。光輝く景色の中、最愛の姉――花菜とその夫・小日向一也が幸せそうに手を取り合い寄り添い微笑む姿。姉は利き手で自身の腹を撫で、とても、とても幸せそうだった。
結の背後には夫とともに微笑んでいるはずの姉の姿。スーツは真っ赤に染まり、結を優しく抱きしめるとふわりと笑顔を浮かべた。
「いただきます」
嗚呼――「妊娠おめでとう」とまだ直接、伝えてはいないのに。こんなところで、止まるわけにはいかないのに。
扉は音もなく、静かに閉ざされた――。
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